日本リレーのバトンパスだけじゃない! 最前線のスポーツ科学がアスリートの能力を格段に引き上げる秘密とは?

スポーツ・科学

公開日:2020/8/4

アスリートの科学 能力を極限まで引き出す秘密
『アスリートの科学 能力を極限まで引き出す秘密(ブルーバックス)』(久木留 毅/講談社)

 テクノロジーの進化は、我々の生活を時に大きく変える。あるいは、知らず知らずにうちにアップデートしている、ともいえる。それはスポーツの世界も同じだ。特に近年は科学的根拠に基づくトレーニングの進化や、データサイエンスの普及により、そのレベルは競技を問わず格段に上がっている。

 本書『アスリートの科学 能力を極限まで引き出す秘密(ブルーバックス)』(久木留 毅/講談社)はそんなスポーツ界の進化を様々な切り口でまとめた1冊である。著者は日本のスポーツ強化の研究拠点ともいうべき国立スポーツ科学センターのセンター長。スポーツの強化とそれを取り巻く環境について、信頼できる最新事情が詰め込まれていると言って間違いないだろう。

 このように紹介すると、競技者・指導者向きの1冊のように感じるかもしれないが、それは違う。

 もちろん、陸上や水泳、スピードスケート、体操、サッカーといった競技の強化ポイントをまとめたパートなどもあるが、テクノロジーの進化が「観戦」に与える影響など「スポーツファン」も楽しめる要素も少なくない。

 そもそも強化ポイントについても、「概要」的内容なので、競技者・指導者にとっては入門編といった捉え方ができる一方、スポーツファンにとっては競技を一段深く観戦できる豆知識になり得る。そんなバランスのよさは本書の特長である。

 たとえばスピードスケートのカーブのコース取り。自動車のレースでは、カーブは「アウトインアウト」、つまりカーブ手前では外側から入り、カーブ真ん中では内側を目指し、また外側に出て回りきるというルートで走ると、より直線に近いコース取りとなりスピードの減速が少なくなるといわれている。スピードスケートでも、この「アウトインアウト」のラインが高速で滑る基本といわれているが、滑走軌跡データの解析技術の進化により、この常識が本当に正しいのか、検証が進んでいるという。

 というのも、「アウトインアウト」で滑走する場合、レーンの形状よりも大きな半径の円を描くため、実際の滑走距離は本来のレース距離より長い距離を走ることになるからだ。もし、距離が長くなることによるタイムロスと小さく回ることによる減速の絶妙なバランスが見つかれば、「アウトインアウト」より速くカーブを回れる可能性があるのではないか。その研究のために、長野県長野市のオリンピック記念アリーナ(エムウェーブ)にコース全周の直上に28台のモノクロカメラを設置、複数のパソコンと組み合わせて選手の滑走軌跡と速度を計測する「LPMシステム」を構築。滑走軌跡と速度の精密な分析が進んでいる。

 今や日本のお家芸となった陸上短距離のリレーは、欧米や中南米のトップ選手との間に生じる選手個々のタイム差を埋めるために、バトンパスのスピードを極限まで削ることでメダルに手が届いた。圧倒的なフィジカルの違いなど、一見、差を縮めるのが難しそうな競技でも、科学技術を用いて徹底的に競技やパフォーマンスを分析することで勝機を見つける。スピードスケートにおいても、そんな挑戦が進んでいるのだ。こうした背景を知っていれば競技観戦はグッと楽しくなる。本書には、こうした最新事情、知識、エピソードがいくつもまとめられているのである。

 また、観戦だけではなく、実際に我々の生活に役立つテーマもある。たとえば第4章「ウエイトコントロール」、第6章「環境とパフォーマンスの科学」で触れている熱中症対策は、アスリートに限らず、健康的な生活をするうえで知っておいた方がよい知識も多い。前者に至っては「アスリート以外の減量」と題した一般人のダイエットについて言及したパートもあるほどだ。

 さらに第7章「コーチングの科学 ―スポーツ心理学最前線―」には、選手の成長過程におけるコーチの役割や重要性に触れられている。なかでも「パフォーマンスビへービア」はスポーツ以外の分野でも役立ちそうな内容であった。

 パフォーマンスビへービア(Performance Behavior)とは、本書より引用すると『考え方が常にアスリートやコーチなどの「行動(Behavior)」に影響を与え、その「行動(Behavior)」が変わる(行動変容)ことによりパフォーマンスが向上するという考え方に基づいている理論』のこと。その実践において、重要視されているのがコーチングのあり方や手法であるという。

 簡単にまとめてしまえば選手のよりよい成長を促すための指導論なのだが、単にトップアスリートを育てるというよりも、自ら行動して成長できる自立した人間を育てることを主眼に置いている点がポイント。本書でも触れられているが、パフォーマンスビへービアの理論はスポーツ以外の人材育成にも応用できる可能性がある。たとえばビジネスなどの分野で部下の育成などで悩んでいるのであれば、ひとつのヒントになるかもしれない。

 新型コロナウィルスの感染拡大により東京オリンピックは延期になってしまった。今夏に照準を合わせてトレーニングやコンディショニングに励んでいたアスリートには気の毒という言葉しか出ない。しかし、本書によってスポーツ界の最前線を知ると、多くのアスリートたちはさらに進化した姿、パフォーマンスを見せてくれるのではないか。そんな期待を抱かせてくれる。

文=田澤健一郎

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