なぜ自閉症の人は津軽弁を話さないのか? 私たちが何気なく使う方言に秘められた人間関係に役立つ機能とは

文芸・カルチャー

公開日:2020/11/6

自閉症は津軽弁を話さない
『自閉症は津軽弁を話さない』(松本敏治/KADOKAWA)

「あのさぁ、自閉症の子どもって津軽弁しゃべんねっきゃ(話さないよねぇ)。(中略)今日の健診でみた自閉症の子も、お母さんバリバリの津軽弁なのに、本人はしゃべんないのさ」

 これは、これからご紹介する本の冒頭部分、著者の妻が何気なく放った疑問である。臨床発達心理士である著者の妻は、青森県津軽地域の乳幼児健診に長年かかわっている。そこでの体験談を、夫に投げかけているわけだ。

「それは津軽弁をしゃべらない、じゃなくて音声的特徴が方言らしくないから、方言らしく聞こえないということだと思うよ。自閉症の言語的特徴のひとつとして独特な話し方をするということはよく報告されているし」

 当時、大学で特別支援教育を教えていて、障害児心理を専門としていた著者の松本敏治さんは、妻に向かって得意げに返事した。自閉症児が津軽弁を話さないなんて、勘違いだよと。

 ところが妻は「音声の問題じゃなくて、そもそも方言自体を話さない。自閉症の子どもは“共通語”を話す。乳幼児期だと、それで自閉症かどうか判断できる」と主張。いっぽう松本さんは「津軽弁を話さないから自閉症というのは問題だ」と反論。それでも妻はまったく折れる気配がなく、夫婦ゲンカに発展した末、松本さんが「じゃあ、ちゃんと調べる」と啖呵を切った。

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 社会性やコミュニケーションの発達に障害があり、興味や活動に偏りが見られる自閉症。その子どもたちに対して、「彼らは方言を話さず、共通語を話す」と興味深い疑問を投げかけた妻。過敏に反応した松本さんは、否定的な意見を持ちながら、シロクロはっきりさせたくて「自閉症と方言」について研究を始めた。

 しかし松本さんは知らなかった。ひょんなことから始まった「自閉症と方言」の研究が、まさか10年近くにおよぶ長い道のりになるなんて――。

『自閉症は津軽弁を話さない』(松本敏治/KADOKAWA)は、その研究の記録である。タイトルだけで判断すれば、自閉症傾向にある人や、その家族向けに書かれているかのように感じる。しかし本書には、非常に興味深い研究結果があった。

 なぜ自閉症の人は方言を話さない(傾向にある)のか? この謎を解くために、松本さんは方言が持つ社会的な役割に注目することになる。

見事に砕け散った松本さんの主張

 研究者とは記録を残すものだ。ある事象の原因や謎を解き明かすため、そのときに考えた可能性、得られた実験結果や資料などを、しっかり記録としてまとめていく。本書は「自閉症と方言」をテーマに、松本さんが答えの見えない謎を追求するため、あらゆる可能性を探って奔走する様子を描く。だからある意味で「推理小説」のような読み応えがある。

 まず松本さんは青森県や秋田県の、特別支援学校の先生や保護者にアンケートを行った。すると妻の言う通り、「自閉症の子どもたちは方言を話さない傾向にある」という結果が出た。

 驚いた松本さんは、この現象が普遍的なものか確かめるべく、調査を京都・高知・大分など、全国レベルに広げて行ったところ、またも同様の結果が出た。現場の教師や保護者たちの多くが「自閉症の子どもは方言ではなく、共通語を話す」傾向を体感していたのだ。この時点で、松本さんが妻に言い放った「音声的特徴が方言らしくないから、津軽弁らしく聞こえない」という主張が、見事に砕け散ったわけである。

 松本さんはこの事実を学会で発表した。とうぜん各方面の学者たちがさまざまな意見を飛ばす。「自閉症の人は話し方が独特だから方言らしく聞こえない」とか、「関西弁の“~やねん”や博多弁の“~ばい”のように、終助詞を使わないからだ」とか、「自閉症の人はテレビをはじめとするメディアから言葉を(共通語を)学んでいるのではないか」とか、いっぱい飛んだ。けれども…どれもその理由を十分に説明できるものではない。

 なぜ自閉症の子どもたちは津軽弁を話さないのか。妻の疑問から始まった研究に、大きな壁が立ちふさがった。

方言が持つ社会的な機能

 ここで松本さんは考え方を変える。自閉症の人が抱える症状や問題を切り口に説明しようとしてもうまくいかない。そこで専門家に協力を得て、方言という切り口から答えに迫ろうとした。

 本書を読んでいると、この方言に関する記述が非常に興味深い。たとえば普段東京で働く社会人が、年末年始に地元に帰省した場面を想像してほしい。東京で過ごすときは、日本全国で通じる“共通語”を話す人々に囲まれて、その人も共通語を話して過ごす。しかし地元に帰った瞬間、周囲から方言が聞こえてきて急に気持ちが開放的になり、昔からの友人と再会したときには、せきを切ったように方言がドバドバと出てくる。

 ごく当たり前に見えるこの現象。なぜ私たちは共通語と方言を自在に使い分けるのか。実はここに方言の素晴らしさが隠されている。

 雪国には「寒い」を意味する「しばれる」という方言がある。「寒い」という共通語には、全国どこでも通じる便利さがある。けれども「しばれる」には、雪国の人たちにしかわからない「骨身にしみる寒さ」を伝える情感がこめられており、地元の人たちが互いに方言を交わし合うことで「情的感性」や「親しみ」を得られる。

 さらに方言には「帰属意識の表明機能」がある。たとえばある人が関西地方に移り住んだとしよう。関西弁には大変な勢いがあるので、はじめその人は周囲の関西弁になじめず圧倒される(はず)。けれども時間が過ぎれば言葉がなじんできて、その人も関西弁が話せるようになる。すると周囲からこんなことを言われる。

「あの人もこの土地の人になったね」

 このように方言は「連携意識の表明機能(私は君の仲間だよ)」や「帰属意識の表明機能」など、いくつかの社会的機能を持っている。方言を話すだけで、誰かと自然に心を通わせ、心の微妙な距離感を調節しているのだ。このことから松本さんは共通語と方言を「丁寧語とタメ語の関係性に似ている」と表現する。非常に興味深い話である。

 ところが自閉症の人は、社会性やコミュニケーションの発達に障害がある。だから心の微妙な距離の調節を、つまり方言を上手に使うことができないのではないか。松本さんはこのような仮説を導き出した。

 しかし…この仮説もすぐに砕け散ってしまう。よく考えてみれば、定型発達や自閉症に関わらず、「方言によって人との心の距離を上手に調節する」ことを、まさか小さな子どもができるわけない。またも松本さんは、妻の疑問の前に、路頭に迷ってしまった。

 紆余曲折ばかりしている本書。これぞ研究の醍醐味というべきであり、推理小説のような読み応えが演出されている。ストレートに表現すれば、とてもおもしろい。

 ここから松本さんは、自閉症の子どもたちに対してある疑問を抱く。なぜ自閉症の子どもは方言を話さない代わりに、共通語を話すことができるのか。言葉は、親をはじめとする周囲の人々の会話を真似して覚えていくものだ。だから津軽の子どもたちは自然と津軽弁を話すようになる。しかし自閉症の子どもたちは、なぜか共通語だけを覚えている。…これはどこで覚えたものだ? なぜ方言だけ覚えることができない?

 そしてもうひとつ疑問があった。自閉症の子どもは方言を話さないが、成長に応じて方言を話す大人も現れる。なぜ子どもの頃は話せないけど、大人になると方言を話せる? どういうことだ? 疑問は膨らむ一方である。

 妻と交わした会話から始まった「自閉症と方言」の研究。松本さんは10年近くかけて、ついにこの研究の答えを導き出すことに成功する。この続きは、ぜひ本書を読んで確かめてほしい。

文=いのうえゆきひろ