子どもも大人も「不完全さ」を受け入れよう! 学習塾の人間模様に見る「不完全」の魅力

出産・子育て

公開日:2020/11/7

おやときどきこども

著:
出版社:
ナナロク社
発売日:
『おやときどきこども』(鳥羽和久/ナナロク社)

 学び、働くこと。その場として在宅という選択肢は従来からあったものの、コロナ禍によって図らずも在宅での勉学や勤務がぐんと広く普及することになった。一方、リアルな場でもたらされるような性質の体験や交流が失われるという危険性が多方面で指摘されている。本稿では、学校と家庭の中間に位置する学習塾の人間模様を記した『おやときどきこども』(鳥羽和久/ナナロク社)の紹介を通じて、狭まったようにみえる世界でも変わらず外へ外へと身を乗り出し続ける術について考えていきたい。
 
 福岡市内で学習塾を約20年経営してきたという著者は、大人にも子どもにも共通する“学びの本質”について本書で示している。その論点について、もし私が板書でまとめるとするならば、以下のような箇条書きになるかと思う。
 
・「わかる」ということは、他人から教えられるものではなく、自分自身でピンとくるしかない
・自分自身があるというよりも、関係性の複合体から自分が成っている
・関係性から織りなされた状況によって出来事というものが生じているのであって、出来事自体に意志や実体はない
 
 本書において「親子関係」というのはあくまで切り口のひとつであって、トピックは単なる親子関係の良し悪し(つまり、良い親子関係の模索や悪い親子関係の批判)ではない。著者が主題としているのは、「状況」についてだ。

“自分自身とその周囲に広がる世界を解釈し味わうためには、ストーリーがあったほうがよいのでしょう。そのほうが幸福だったり、自分が安定して生きやすかったりしますから。でも、ストーリーが一面的なものの見方によって成り立っていることを忘れたときに、私たちはストーリーに支配されます。そして、自分自身に、または他者に、攻撃を仕掛けるようになります”

 タイトルが天気予報のようなフレーズであることにも、この主題が強く反映されている。同じ天気の状態というのは一瞬たりとも存在しないように、私たちの身の回りをめぐる状況はマクロにもミクロにも常に変化している。快晴であってもどこかに曇り・雨の可能性が含まれているし、曇り空から晴れを見込む人も荒天を見込む人もいるだろう。雨が降っていることを憂うよりも、雨が降る神秘に目を向ける。夕焼けのきれいさに感動しつつ、その色が刻々となくなっていく儚さとともにそのメカニズムに目を向ける。そういうふうにしていると、天気の左右に一喜一憂しなくなる。それが本書の語る“学びの本質”だ。

 タイトルには、親の振るまいに子どもとの関係性が現れ、子どもの振るまいにも親との関係性が現れるという意味合いもあるという。親である大人も、子どもも、人であるということには変わりない。子どもにとって、親にとって、互いが人であると気づいたとき、「親」「子」という役割のカッコははずれ、そこではじめてストーリーが真に交差し合うのではないだろうか? 本書を読み進めると、そんな投げかけに読者は気づくはずだ。

 家に籠もりがちになると、感情や状況の推移に目を向けることが難しくなる可能性は否めないだろう。著者の経営する塾では、デジタルネイティブの子どもたちであっても「先生の授業はリアルじゃないとイヤだ」とオンライン受講を拒否したそうだ。この問題に対して、どのような手を打つことができるのだろうか。キーワードは「不完全さ」だ。

“こうして日々子どもたちと過ごしていると、私たちの不完全さは、それ自体は間違いではないということに気づかされます。不完全さを満たそうとする私たちが、そのための手段を誤ってしまいやすいだけなのです。手段を誤ると決して満たされることがないから、私たちはたやすく自己否定のループに嵌ってしまい、そこから抜け出せなくなってしまいます”

 私たちにとって今大切なのは、不完全さの交流なのかもしれない。一見悩みのタネで目を向けたくならない「不完全さ」を明らかにし、認め、補い合う。美しい夕焼けも捉えようによっては青さを欠いていて不完全だし、梅雨のどんよりとした曇天も種々様々な白・灰・黒のパラダイスだといえる。正義の押し付けあいで世界を狭めるよりも、「不完全さ」の補い合いで可能性を広げよう――著者は本書でそう静かに訴えかけている。

文=神保慶政

この記事で紹介した書籍ほか

おやときどきこども

著:
出版社:
ナナロク社
発売日:
ISBN:
9784904292945