第165回芥川賞候補作『氷柱の声』。東日本大震災の語られなかった“声”を追う

文芸・カルチャー

公開日:2021/8/19

氷柱の声
『氷柱の声』(くどうれいん/講談社)

『氷柱の声』(くどうれいん/講談社)は、東日本大震災を経験した当事者の視点から描かれた、時間の経過の記録である。

 部活動で絵画を描くことに取り組んでいた伊智花は、盛岡で東日本大震災を経験して以降、自分を含めた被災地の学生たちの作品評価に違和感を覚える。復興をテーマにした希望を感じる絵を、周囲から求められるようになったからだ。疑問を打ち消すことができないまま、伊智花は大学生になる。

 仙台へ引っ越した伊智花にできた友人のトーミは、福島での被災をきっかけに医師になることを志している女性だ。しかし、やがてトーミは、震災ありきで決めた自分の進路に対して疑問を抱くようになる。また、伊智花の交際相手である中鵜も、宮城で東日本大震災を経験した一人だ。彼はろうそくの炎がトラウマで、今でも直視することができない。

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 伊智花はトーミや中鵜の過去について聞いたり、別の立場の人から震災への想いを聞いたりすることで、少しずつ自分が何に疑問を抱いていたのかを理解していく。やがて伊智花は再び絵を描く機会を得て、自分自身の過去とも向き合う。

 ここに登場する人は全員、東日本大震災の日、別の場所で、別のことを経験し、別の痛みを背負った人々だ。本作を読んでいると、彼らを“被災者”という言葉でひとまとめにすることは、とても乱暴なことなのだと気付かされる。だって、彼らは失ったものも感じたことも違うのだから。

 本作はドキュメンタリー映像のようなドライな構成になっている。全編にわたり伊智花と出会う人々との交流を描いているのだが、そこにドラマティックなどんでん返しや伏線はない。読者はただ、登場人物それぞれの中にある東日本大震災を聴き、時間の流れとともに変化していく伊智花の心の動きに触れる。

 淡々として静かな作品だからこそ、著者・くどうれいんさんの対話のリズムや言葉の魅力が光る。ほとんど人物の背景がわからなくとも、短い会話やふとしたふるまいだけでその人となりが伝わってくる。絵を描くことに長けた伊智花の観察眼を通して見た世界が、そのまま言葉になっているようだ。エッセイや短歌で高い評価を得るくどうさんの、削ぎ落として描く文章の美しさが随所に感じられた。

『氷柱の声』という題名は、長い冬を越えてぽたぽたと溶け始める氷柱と同じように、これまで凍てついて黙っていた心の傷が、震災から長い時間を経て、ようやく言葉になっていく変化を表しているのだろう。氷柱が日差しを浴びて光りながら静かに溶けていく様子は、新しい季節、春の到来を教えてくれる。その暖かさが手に取るように伝わってくるラストシーンを、ぜひ読んでほしい。

文=宿木雪樹

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