阿部和重『ブラック・チェンバー・ミュージック』――北朝鮮の“名前のない女”と禁断の世界に足を踏み入れる主人公の行く末は!?

文芸・カルチャー

更新日:2021/9/6

ブラック・チェンバー・ミュージック
『ブラック・チェンバー・ミュージック』(阿部和重/毎日新聞出版)

 なんと重厚長大で気宇壮大な作品だろう――阿部和重氏の長編小説『ブラック・チェンバー・ミュージック』(毎日新聞出版)はそう感嘆せざるを得ない傑作にして労作である。これまでも壮大なスケールの作品を多数上梓してきた阿部氏だが、『毎日新聞』での連載を一冊にまとめた本書も破格である。国際情勢などの政治的イシューもふんだんに盛り込んだ、478ページにわたる大部だ。

 物語は、2018年6月12日に実際に行われた米朝首脳会談の描写から始まっており、その後も現実とリンクしたトピックが挿まれる。例えば、小説のキーパーソンとして、トランプ大統領(当時)の隠し子を名乗る男性が登場するが、現実世界でも連載開始前の2018年4月にトランプ氏の隠し子疑惑が浮上。小説内で現実と虚構がせめぎあう構造が採用されている。

 主役は元映画監督の冴えない中年男性、横口健二。ブライダル関係の映像を撮って糊口を凌ぐ彼のもとに、旧知の仲である新潟のヤクザ、沢口から怪しげな仕事の依頼がまいこむ。それは、金正日が書いたヒッチコックについての評論を見つけてほしい、というミッション。ヒントは皆無に等しく、タイムリミットは3日後だという。

advertisement

 評論を探すために沢田とともに現れたのが、北朝鮮からの密使らしき女性。彼女と協力してその現物を早急に入手してほしいと沢田は言うが、女性の身元はまったくの謎で、名前すら不明。周囲からは「ハナコ」という仮名で呼ばれることになる。ともあれ、ふたりはタッグを組んで評論の探索に乗り出すというわけだ。

 ありとあらゆる手段を講じて評論の在り処らしき場所を見つけたふたりだが、そこでも不測の事態が待ち構えている。反社会勢力の内輪もめに巻き込まれたり、ヘイトスピーチ団体と揉めたりしながら、ほうほうのていで評論を入手。だが、そう簡単に話は完結しない。ハナコには北朝鮮に戻らなければならない理由があり、とあるルートを用いて母国への密入国を試みるが失敗。政治情勢の変化により「処分」されることとなった彼女を、横口は必死に守ろうと奮起する。

 普段はヘタレでポンコツな横口だが、彼とハナコは行動を共にするうちに心を通わせ、いざという時には火事場のバカ力を発揮。ハナコを巡る様々なトラブルをすんでのところで防いでゆく。本書の帯には「怒涛のラブストーリー」という惹句も躍っているが、筆者はむしろ本書を「バディもの」として面白く読んだ。ふたりのコンビが知恵を絞って窮状を脱していく様が、実にスリリングだからだ。

 ちなみに本書は、阿部氏のビブリオグラフィーの中では伊坂幸太郎氏と合作した『キャプテンサンダーボルト』に近く、最もエンターテインメントに寄った作品だ。緊迫感に満ちたサスペンスでありながら、時折コメディ・タッチの描写があるのも、エンタメ色を強めている要因だろう。また、映画通としても知られる著者ゆえに、沢田と横口の迂遠な会話や、残忍な暴力描写はクエンティン・タランティーノの映画にも通じる、とも思える。

 それにしても、終盤で明かされる一連の騒動の真相はまったく予期せぬものだった。大人たちが東奔西走している元凶はなんとこれだったのか……と感嘆する読者も多いのではないか。複数の国の思惑が絡み合って情報が錯綜する小説だが、その核となるのは予想以上にシンプルな事実だった。

 ハナコの事情により離別せざるを得なかったふたりだが、彼や彼女のその後を描いたラスト・シーンは、実に詩的でロマンティック。読者に深い余韻を残す、これ以外にない完璧な幕引きと言える。阿部氏のキャラ造形の巧みさも手伝って、自然と登場人物たちに感情移入してしまう読者も多いのではないだろうか。

文=土佐有明

あわせて読みたい