自分の夫だと思っていた男性がまったくの別人だったら……。赤の他人になりすました男の悲哀――平野啓一郎『ある男』【レビュアー大賞課題図書】

文芸・カルチャー

公開日:2021/9/28

ある男
『ある男』(平野啓一郎/文藝春秋)

 自分の夫だったはずの男が、もしも夫になりすましたまったくの別人だったら……。平野啓一郎氏の『ある男』(文藝春秋)は、この「もしも」が現実となった世界の物語であり、ミステリめいた設定が作品の推進力となっている。著者の平野啓一郎氏は京都大学在学中に『日触』で芥川賞を受賞した作家だが、同作の硬質な文体と比べて、昨今の文章はリーダビリティーが極めて高い。本書もまたその例に漏れない。

 話は東日本大震災が起きた2011年、宮崎県の寂れた街から始まる。首都圏で結婚と離婚を経験した里枝が、息子と一緒に故郷の宮崎に出戻りし、親が経営する文房具屋で働く。また里枝には、2歳の次男を脳腫瘍で失って、ほどなく夫と別れたという過去があった。そんな里枝は文房具店で知り合った谷口大祐と惹かれ合って結婚。新しく生まれた女の子もおり、ささやかながら幸福な家庭を築いていた。

 ある日、林業に従事していた大祐は、伐採の作業中にあっけなく事故死してしまう。だが、彼の兄である恭一が、死後、大祐の遺影を見て驚く。これは大祐じゃないと言うのだ。結局、大祐を名乗った仮名「X」は、伊香保温泉の旅館の次男になりすました別人だったことが判明。里枝の依頼を受けて、弁護士の城戸が探偵よろしく調査にのめり込んでゆくと、大祐を名乗っていたXの過去が徐々に明らかになってくる。父の犯した殺人事件のせいで、どこに行っても「殺人犯の息子」の烙印を押されてしまうXは、戸籍交換業者の力を借り、谷口大祐として人生を送ってきたというのだ。

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 ここまで述べてきたように、本書での人間関係は複雑に絡み合っており、筆者はこの時点で人物相関図を作りながら読んだ。そこから見えてくるのは、自分の家族との繋がりを断ってまで別人になりたかった、Xの悲哀とやるせなさである。見知らぬ誰かと戸籍交換をしてしまえば、本名を名乗らなくて済む。目を背けたい過去を捨て、まっさらで新しい自分を生きることができる。つまり、Xは人生をリセットしたのである。

 また、在日朝鮮人三世である城戸は、関東大震災が起きた時に、朝鮮人が井戸に毒を入れたという流言に惑わされ、多くの朝鮮人が亡くなったことに思いを馳せる。東日本大震災で同じことが起こらないだろうか? と危惧するのだ。実際、城戸が朝鮮人への差別を煽るヘイトスピーチを目の当りにする場面がある。他にも、知人に誘われたイベントで死刑制度の是非を巡って議論する描写も。具体的な社会問題を射程に入れた小説としても、本書は読むに値する本だと言える。

 城戸は今回のなりすまし事件に関して、小説を読むような気分で、調査に夢中になっていたと漏らす。さらに言うと、本書の読者もこの本を読むことで、登場人物たちの生涯を追体験することになる。この構造は本書の精髄であり、小説を読んでいる間は、複数の他人の人生を楽しむことができる。あくまでも傍観者として、他人の人生を絶対安全な場所から楽しめるのだ。

 平野氏は本書の前作『マチネの終わりに』で「未来は過去を超える」というテーマを描き切ったが、本書では「愛にとって過去は必要なのか、という問いを突き詰めた」と述べている。そして、本書は2022年には映画化されることも決まっている。複雑な人間関係や入り組んだ構成など、映画でどう描くのか楽しみなシーンもあるが、そこへの期待を含めて上映を待ちたい。そして、『ある男』の文庫本は9月1日に発売されたばかり(今年の「レビュアー大賞」の課題図書にもなっている)。映画を鑑賞するにあたって本書を読み、予習するのにはもってこいの好機ではないだろうか。

文=土佐有明

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