すぐそこにある、崖っぷち…… 歪んだ母性が引き起こしたおぞましい事件を描いたミステリー『マザー・マーダー』

文芸・カルチャー

公開日:2022/1/26

マザー・マーダー
『マザー・マーダー』(矢樹純/光文社)

※本レビューは『マザー・マーダー』(光文社)の著者・矢樹純さんの妹である漫画家・加藤山羊さんから寄稿いただいたものです

 小説『マザー・マーダー』は、表題作である最終章に向けて、「ある母子」の抱える深い闇に迫っていく連作短編集でありながら、章ごとに提示される謎を解決する過程でさらなる謎へと誘われていくという、秀逸な長編ミステリーともなっている。

 各章の主人公は「愛する娘と我が家を守るため、在宅ワークを始める主婦」「疎遠になっていた娘から突然相談を受け、戸惑う看護助手」「ダメな部下を従え、ある家庭に介入することになった引きこもり支援施設の職員」「学校での事故をきっかけに、不登校になった娘を心配する母親」「自身の飛躍のため、ある事件の真相に迫ろうとするルポライター」と、多種多様な人々。その全てに強く感情移入させられた。この人たちが、与えられた境遇で痛いくらい懸命に生きているのが伝わってくるからだ。ごく普通の人が、守るべきもののため、何とか窮地を乗り越えようともがく。切り抜けてほしい、と手に汗握る。陥る窮地もリアルだ。「近所の問題人物と関係が悪化しそう」「独り立ちした娘が助けを求めてきた」等、誰の身にも起こり得る、しかし失敗できないミッション。

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 私たちが「社会と法に守られ安全圏にいる」というのは幻想で、家庭や地域、職場の人間関係には、逃れられない罠がいっぱいだ。そんな「崖っぷち」を一歩踏み外すと、もう当たり前の生活には戻れなくなる、と作中の人物は語る。そして作者・矢樹純は、「日常に潜む危うさ」を描くのが非常に巧みである。前々作『夫の骨』、前作『妻は忘れない』でも家族をテーマに、日常が一変する景色を描いてみせた。夫、妻に続いて、本作の主役は母親。

 全編を通して描かれる「ある母子」だけでなく、各章の主人公にも「母親」が登場する。崖っぷちへ姿を変えた日常の中で我が子を守りたい、信じたいという彼女たちの祈りは切実さを伴う。じっとり湿った実感を持つ、生々しい母性だ。

 生々しさもそのはず、矢樹純本人も母親だ。漫画原作者となった後に母となり、さらに小説家としてもデビューして、双方のクオリティを追い求めながらの育児がいかに大変だったかは想像に難くないが、私には想像する必要はない。なぜなら矢樹純の実の妹として、コンビを組む漫画作画者として、ずっと傍でその様子を見ていたから。本当に、よく頑張ったと言いたい。

 矢樹の家で育児を少し手伝ったりしながら居候し、漫画を描いていたこともあった。その頃描いていたファンタジーは近刊の短編集『やぎのふしぎ』に収録されている。その後も幅を広げ、ホラー、サスペンス、コメディと実に多様なジャンルの漫画を手がけているのは、『夫の骨』以降のミステリーで矢樹純作品に初めて触れた小説読者には、意外かもしれない。

 ジャンルを問わず、彼女の作品において一貫しているのは「読者を楽しませよう」という姿勢だ。自身も熱心なミステリー読者である矢樹純にとって、読書の楽しさとは「驚き」であり、小説家となってからも、随所に罠を張り巡らせ、度肝を抜くトリックを堂々と仕掛け、読者に驚きを提供し続けてきた。

 サービス精神に加え、『夫の骨』以降の矢樹純は技巧がさらに充実した。決して明示的でないのに読む者の心をざわつかせて止まない、情景、人物描写の数々。その中にさり気なく提示される伏線を、何度も読み返してしまう。身近な家族をテーマとし、短編でも感情移入しやすい等身大な主人公を描くようになったことも、リアリティ溢れる描写に繋がっているのだろう。

 本作『マザー・マーダー』でも、実に細やかに日常を描いている。

<「ひーちゃん、今日はうさぎさんにする? お馬さんにする?」
 
来月で一歳半になる娘の陽菜(ひな)は、少し考えたあと、元気に「うしゃぎしゃん!」とヘアブラシを差し出した。サイドボードの引き出しから小さなリンゴの飾りのついたヘアゴムを二本取ると、肩まで伸びた柔らかな髪を梳かし、二つに分けて高い位置で結う。
 ツインテールはうさぎさん。ポニーテールはお馬さん。たまにお団子や三つ編みをリクエストされることもあるが、あまり手先が器用でないので、できればやりたくない。子どもの髪は細くて絡みやすいし、まだ長さが充分でないので、手の込んだ髪型は一苦労なのだ。>

 SNSに切り取られるような、見栄えのする特別な場面ではなく、こうした地味な、人に話すこともないような子どもとの日常こそが、主人公にとってかけがえのないものとして描かれ、それが脅かされる切迫感を一層高めている。

 そんな中、『マザー・マーダー』の主人公と呼べる登場人物の造形には異質さが際立つ。前二作の短編集では、読み切りの制約の下、人物造形はやや抑制的だった。しかし、矢樹純は本来、特異なキャラクター造形に長けており、本作ではそれが物語に底知れない引力を持たせている。また、各章の登場人物でも「この人の話の続きを読みたい」と思わせる人物が登場し、個人的にはさらなるシリーズ化も期待してしまった。

 矢樹純による家族の話、特に姉妹の話を読む時には特殊なざわつきを覚える私ですが、今後もさらなる活躍を祈って。

【筆者略歴】
加藤山羊(かとう・やぎ)
漫画家。1979(昭和54)年、青森県生れ。実姉(矢樹純)とコンビを組み、2002(平成14)年『ビッグコミックスピリッツ増刊号』にてデビュー。主な著書に『女囚霊 塀の中の殺戮ゲーム』『あいの結婚相談所』(小学館)、『禁忌』『リモート・パラサイト~顔のない鬼が僕を喰らう~』(秋田書店)など。初期短編集『やぎのふしぎ』が各種電子書籍ストアより発売中。

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