立場や時代に翻弄されてもしなやかに生きる人々の、輝ける魂を描き出す──佐藤亜紀最新作『喜べ、幸いなる魂よ』

文芸・カルチャー

公開日:2022/3/18

喜べ、幸いなる魂よ
『喜べ、幸いなる魂よ』(佐藤亜紀/KADOKAWA)

 世界が感染症の流行に振り回されて、もう2年ほどになる。仕事で会議をしたくても、友人と食事をしに出かけたくても、なかなかままならない状況だ。ふとそんな日々に疲れていることを自覚したときに、手に取ってほしい書籍がある。『喜べ、幸いなる魂よ』(佐藤亜紀/KADOKAWA)という作品だ。

 舞台は18世紀ベルギー、主人公のヤン・デ・ブルークは、亜麻糸商だった亡き父の相棒ファン・デール氏に引き取られ、フランドル地方の小都市シント・ヨリスに移り住んだ。ファン・デール氏には、恐ろしく頭のいい子供がいた──未晒しの亜麻糸のような髪をお下げにした少女、ヤネケだ。彼女の知的好奇心は、数学、生物学、経済学など多岐にわたって発揮され、血液循環の確認のために指のつけ根を糸で縛り上げるなど、みずからの身体を使った実験をするまでに至った。

 彼女の視線は目の前の兎に向けられている。(中略)
 エデンの園で、とヤネケは言い始める。「兎は交尾をしなかったのかな」
「したんじゃないの。増えろって言われていたんだから」
「だったら、アダムとイヴもそれを見ていた筈だ。なのに何故、彼らは園を追われるまで交尾しなかったんだろう」
 何故しなかったんだろう、とか言われても、ヤンは困惑するだけだった。(中略)ヤネケは菜園に目を走らせ、老人(※注:地所の管理人)がいないのを確認すると、何故か声を潜めて、出来るか? と訊いた。
「出来るって、何が」
「兎がやってただろう」

 未婚のヤネケが市壁の外で産んだ子は、すぐに里子に出されてしまった。その後、彼女は自宅に戻らず、信仰に厚い寡婦や身寄りのない女たちが集まって、塀の中で自活しながら共同生活を送る「べギン会」に身を置くようになる。ヤンは思う──ヤネケはひとりで好き放題をやるために、俺も子供も捨ててずらかった。一緒に幸せに食べて眠るために、できることはなんでもしてやるのに。ヤンはヤネケと、家庭を持つことを望んでいたのだ。

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 ヤンはファン・デール氏の商いを引き継ぎ、ヤネケの産んだ子を引き取って、一人前になるべく奮闘する。一方、女たちとの共同生活を続けるヤネケは学びをきわめ、弟やヤンの名前でその成果を発表する。女の名前を使っていては、学問の本は出せない。なぜなら女は、大学にさえ行けないのだから。

 月日は流れる。林檎の木がはじめて実をつけ、盛りを迎え、そして衰えてゆく。商いが育つ。家族の構成も変わってゆく。ヤンは、時代や社会に翻弄されながらもヤネケと添うことを望み続け、塀を隔ててしか会えない彼女のもとへと通い続ける。いつまで経っても身勝手なほどにまっすぐで、たくましく、しなやかに生きるヤネケを、ヤンは捕まえることができない。そのうちに、彼らの住む小さな都市にも、産業革命とフランス革命の足音が聞こえはじめる──。

 著者の佐藤亜紀氏は、ナチス政権下のドイツでジャズに熱狂する少年たちを描く『スウィングしなけりゃ意味がない』、同じく第二次世界大戦末期、ハンガリー大蔵省の役人の生きざまを綴る『黄金列車』(ともにKADOKAWA)など、時代という大波に揉まれながらも“個”を生きる人間の強さを書いてきた。その姿勢は本作でも変わらず、さらに洒脱な筆は精度を増して、生きることのまぶしさ、愛することの自由さ、そのときを生きた人間の魂を、鮮やかに描き出す。時代も立場も異なる登場人物たちの魂に、現代日本を生きるわたしたちの魂が共鳴し、震えるのを感じられる──本作は、小説というものの醍醐味を存分に味わえる快作である。

文=三田ゆき

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