文豪・川端康成が寄宿舎で交わした、少年との愛の交歓と別れを描いた小説が初の文庫化!

文芸・カルチャー

公開日:2022/5/28

少年
少年』(川端康成/新潮社)

 これまで全集でしか読めなかった、若き日の川端康成が交わした後輩少年との愛の交歓と別れを描いた小説『少年』が、没後50年を迎えた今年初めて新潮社より文庫化された(一冊の本として出版されるのは70年ぶりだそうだ)。「川端康成のBL!」と色めき立つ方もいらっしゃるかもしれないが、描写されるのは抱擁や接吻にとどまることは最初に申し上げておきたい(性的関係をもちかけたのではないか、と類推できる部分はある)。しかし川端はその関係について、文中ではっきりと「同性愛」と書いている。

 川端康成は1899年(明治32年)大阪市天満此花町生まれ、1歳で医師であった父を、2歳で母を亡くし、父方の祖父母に引き取られる。しかし祖母は7歳で、さらに川端が10歳の時には叔母の家に引き取られていた姉も13歳で亡くなっている。川端は祖父と二人暮らしになるのだが、目が見えず寝たきりの祖父を介護する、今で言うところのヤングケアラーであった(祖父の介護日記を小説として発表したのが『十六歳の日記』だ)。しかし中学生だった14歳の時に祖父も亡くなって孤児となり、母方の伯父に引き取られ、翌年中学校の寄宿舎に入った。そこで出会ったのが『少年』に登場する清野少年だ。

 本作が書かれた背景は、作品内で川端本人によって説明されている。50歳になった川端が全集を刊行することになり、これまでに書いた原稿を見直していたところ、中学生の時の日記、高校時代の手紙、そして大学時代に書かれ、後に前半部分が小説『伊豆の踊子』となった草稿『湯ケ島での思い出』が初めて揃ったことで、『少年』が書かれたという。

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「湯ケ島での思い出」で、清野少年の思い出を書いた部分は「伊豆の踊子」のようにまとまっていないことは前にもことわったが、今これを小説風に整えるのは私にも不自然とする気持もある。「伊豆の踊子」はほとんど「湯ケ島での思い出」の原形のままで小説らしいものになったが、この「少年」は小説らしいものにならなくとも、やはり「湯ケ島での思い出」の原形をなるべく生かしておいてみたい。

 中学時代の日記、高等学校時代の作文の手紙、大学時代の「湯ケ島での思い出」、それらを「少年」のなかに集め並べて、それに五十歳の今日の言葉をいくらか添えながら結び合せてみようというのである。

 川端が説明する通り、『少年』は小説のようでいながら、10代から20代初めの頃に書かれたものが時系列ではなく、50歳の川端が思い出すままに並べられ、当時の考えや今の思いがその都度挟み込まれるなど、思考も時間も場所もあちこちへ飛びながら編まれている。さらには川端の立場の登場人物の名が「宮本」になっているなど、どこまでが本当でどこからが創作なのかもわからない、夢うつつのような作品である。しかも川端は作品として書いたことで、日記も手紙も『湯ケ島での思い出』も「すべて焼却する」と本作の最後に書いている。ゆえに、今では確認する術もないのだ。

 川端は東京帝国大学在学中に菊池寛に認められ、横光利一らとともに「新感覚派」と呼ばれた。『伊豆の踊子』のほかに『雪国』『千羽鶴』『古都』『山の音』『眠れる美女』など数々の名作を発表、1968年(昭和43年)年には日本人として初のノーベル文学賞を受賞し、タキシードではなく紋付袴で授賞式に臨み、『美しい日本の私―その序説』という講演を行った。しかしその4年後の1972年(昭和47年)、逗子の仕事場でガス自殺(遺書がないため事故死説もある)し、日本のみならず世界中に衝撃を与えた。

『少年』を読んでいて、ふと思い出した場面がある。それは『伊豆の踊子』のラストシーンだ。主人公である20歳の「私」は、踊子と別れた後に乗り込んだ東京へ向かう船内で涙を流していたところ、親切にしてくれた少年から食事の施しを受け、さらに少年の学生マントの中へ潜り込んで、体温を感じながら涙を流すのだ。若き川端の不安定な気持ちが注がれた『湯ケ島での思い出』から生まれた2つの物語は、同じ主題が変奏される抒情歌なのであろう。

文=成田全(ナリタタモツ)

(※アラビア数字の年齢は実年齢、漢数字は数え年)

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