「凛として時雨」がインディーズとして動き出して間もない頃、1通のライブチケット予約メールが届く/凛として時雨 TK『ゆれる』⑦

文芸・カルチャー

公開日:2023/6/27

ゆれる』(TK/‎KADOKAWA)第7回【全9回】

 ロックバンド「凛として時雨」のボーカルとギター、そして全ての作詞と作曲を担当するTKさん。その独創的な視点で表現する音楽は唯一無二。人々を魅了するTKさんの音楽はどのようにして生まれてきたのか。初めて人に歌を聴かせることを意識した中学生時代、エレキギターの音との出会い、母親に反対されながらも音楽の道へ進むと決めたとき、そしてバンド結成への道のり――。『ゆれる』は、途中ですべてをひっくり返しても表現したいものを突き詰める、そんなTKさんの音楽人生を綴った初の書下ろしエッセイです。

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ゆれる
『ゆれる』(TK/‎KADOKAWA)

スタートライン

 2003年。バイトと練習で夏を感じる余裕もない僕のもとに、1通のメールが届く。凛として時雨がインディーズで動きだして間もない頃だった。

「次のライブのチケット予約をお願いします」

 まだまだライブも試行錯誤の中、お客さんの数も少なく、チケットが10枚も売れれば上出来な時期。あとはたまたま時間のある友達が数人来てくれる程度だった。

 そんな中、「百瀬」と名乗ったそのメールの差出人が異色だったのは、ドメインが「movingon.jp」だったから。当時名を馳せていた「hotmail.com」でもなく、「yahoo.co.jp」でもなく、「movingon.jp」。音楽で食べていくためならどんなきっかけもつかみたかったあの頃、オリジナルドメインは一際輝いていた。

 確か最初に来てくれたのは、もう今はなくなってしまった「赤坂L@N」というライブハウスだった。「デモ音源が面白かった」という感想と予約の旨、そしてなぜか最後に「赤坂L@N」という場所はどこにあるかを尋ねる文章があったのを強烈に覚えている。まだ業界でバンド名すら話題に挙がらなかったあの頃、僕たちのサイトにたどり着いた人が、告知されている場所がどこにあるかを調べられないという違和感が面白くもあり、試されているようでもあった。今思えばあれは、新手のナビゲーション能力を測るリモート面接だったのかもしれないな。

 当時はメンバーが自ら物販を担当するのは当たり前で、予約してくれている数人のお客さんが誰かを大体把握できた頃でもある。ところが、百瀬という人物は毎回、感想と次回の予約のメールをくれるのみで、一向に姿を現そうとしない。予約メールの端々に飴と鞭がちりばめられ、SOTECのパソコンモニターに映るメールだけが、百瀬さんの人物像を謎色に染め切っていた。僕から何かを積極的に尋ねることはなく、百瀬さんが自ら素性を明かすこともなく、しばらくの間は、「予約してライブを見に来てくれる姿を見せないお客さん」の一人にすぎなかった。

 メールだけのやり取りが一年ほど続いたある日、「池袋手刀」でのライブで、出番前に対バンを見ようとフロアに繫がる防音扉を開けたとき、どう考えてもライブハウスには似つかわしくないお洒落でフォーマルな出立ちの人物がいた。黒いハットにダークカラーのジャケットをラフに着こなしていて、壁際で腕を組んでジッとたたずんでいる。その日の客層の中では際立って異様な雰囲気を醸し出しており、僕は直感的にその人物が百瀬さんだと確信した。メールのドメイン名から音楽業界の人だとは勘付いていたものの、それについて言及されたことはなく、一定の距離感を保ったラリーだけを続けていた人物が、初めて視覚的に映り込んだ瞬間だった。

 暗がりに同化するようなたたずまいで鋭い視線をステージに送り、対象となるバンドを吟味している。射貫かれそうになる視線をどこか意識しながら、僕は歌い、ギターを弾き続けた。

 終演後、百瀬さんは僕たちに話しかけることもなく、気付いたときにはいなくなるのが儀式だった。とはいえ、あの人が百瀬さんだったのかさえ分からない。ただ、僕はこのとき、自分が出会った中で〝もっともレコード会社っぽい身なりの人物〞に心が躍りまくったのを覚えている。「あれはオリジナルドメインの人だ……」と。

 インディーズレーベルや事務所、レコード会社と接触したいと、とにかくライブの経験を積みながら、どこかで突破口を見つけるためにがむしゃらに弾き狂っていた。あそこまで〝レコード会社っぽい人〞を見たことがなかった僕は、それが百瀬さんだったかどうかの確証もないまま「今日、百瀬さんっぽくて、レコード会社っぽい人がいた!」とゴシップ誌でも書かないような不確定な情報だけを、嬉々としてメンバーに話した。そのくらい僕たちは、どこかに届く場所に飢えていた。自分たちの音楽が1㎜でも開く瞬間は、この頃から今に至るまでいつも輝きに満ちている。

 百瀬さんはライブに来る回数を重ねるごとに、予約時のメールに前回の感想をさらにディープに書き添えるようになった。

「あのときのMCは……」

「曲間がもうちょっと……」

「自己満足で終わっている……」

 まだ会ったことのない謎の人物から、数々のアドバイスやダメ出しが届く。

「いや、その前に誰⁉」

 そんな思いがなぜ湧かなかったのかは今でも不思議だが、百瀬さんの指摘と自分が表現したいことを照らし合わせていった。

 どんな意見も一度自分のフィルターを通してみるのが、僕の常だ。自分を保つのも壊すのも大事だし、その選択権は自分にある。

 それにしても、なぜ百瀬さんは素性を明かさないまま、ただ僕に意見を伝えるだけなのか? ダメ出しをされたことに不快感を抱いたわけではない。そこにどんな意図があるのか、このときの僕には分からなかった。だけど、その謎はついに解けることになる。

 ある日突然、百瀬さんから軽い自己紹介のメールと共に食事に誘われた。遠くから見ているだけだった〝百瀬さんっぽい人〞が、〝音楽業界の百瀬さん〞に確定した瞬間だった。

「大丈夫だよ、契約書なんか持ってきてないから」

 その言い方は少し高圧的にもジョークにも感じたが、初めて耳から入った百瀬さんの言葉は、相変わらず黒いハットとジャケットで、某ブラックユーモア漫画に登場する主人公のような、怪しげな雰囲気から逸れることなく、自然なものだった。「君たちと契約するつもりなんかないから」とも「いきなり契約の話なんかしないから安心して」とも取れる不思議な言い回しに、どことなく質問で返せないオーラを纏っていた。

 その場では、過去に見てきたライブの感想、これからの展望などを、独特な言い回しで投げかけてくる百瀬さんに対し、僕の脳はリードエラーになる寸前のフル回転で会話が繰り広げられた。会話ひとつひとつの真意を測るのに必死で、読み取り違えてもエラー、そのまま受け取ってもエラー、というような初めての感覚だった。

 何度か食事や打ち合わせなどの段階を踏み、ドラムの脱退や中野君のサポート加入を経た頃、新宿のとあるイタリアンに呼ばれた。

 荷物が擦れるほど狭い階段を上がって、席につくなり、僕の記憶が間違っていなければ「どうしたいの?」と聞かれた。「いや、誘われたのにいきなり質問……?」と心の中のリトルTKは囁いたものの、僕は「CDを出したいです」と即答した。『スラムダンク』さながらのやり取りに、緊張感がほぐれることなく食事を終えた。満腹の後に誘われた熊本ラーメンの味はほとんど覚えていない。

 百瀬さんが社長を務める事務所「ムーヴィング・オン」に正式に所属する前、社長は僕にCD制作のノウハウを事細かに教えてくれた。ただし「ノウハウは貸してあげるけど、原盤(CDの制作に必要な録音費)のお金は出さない」という条件付きだった。それはつまり、「自分たちでお金を持ち寄って録音をして、自分たちでリスクを背負ってCDを売りなさい。そこに必要な知識は教えてあげるよ」ということだった。

 無知だった僕は、長年の経験のある社長からすると、あまりにも浅はかな若造だっただろう。社長はこの頃のことを「闘魂塾」と言うが、当時の話をすることをあまり好まない。なので僕はこの本が社長に読まれないことを祈っている。

 さまざまな物事への向き合い方や精神論を厳しく叩き込まれた。決まって僕だけが呼ばれる「闘魂塾」の中で、僕は自分自身の思いとそれを常に照らし合わせていた気がする。無知で未知な中でも、与えられた情報をどう噛み砕くかで、自分の人生をどのようなものにできるかが変わってくる気がしていた。

「CDを出せる」という鮮やかな人参を目の前にぶらさげられた僕は、ひたすら前だけを見て走っていた。

 ただし、僕たちだってお金があるわけではない。レコーディングは中野君の住む街に程近い公民館や、僕の働いているスタジオで行った。

 録音はなんとか見よう見まねで終えたものの、その音の素材を混ぜてCDにするまでの「ミックス」という段階でつまずく。前身のバンドでは簡易的なMTRという機械で混ぜたことがあっても、今回はインディーズの流通に乗せる作品で、さすがにそれはないだろうと思っていた。言うなれば、僕たちの演奏を録った段階は、料理に必要な野菜やお肉を買ってきた状態。それをどうやって切る、炒める、味をつけて料理をするのかが分からなかった。カップラーメンだけは作ったことがある、のような状態に限りなく近い。

 途方に暮れていた僕に、お世話になっているライブハウスの人が「最近ソニーで働き出したアシスタントの人がミックスする素材を探してるから、無料でやってくれるかも」という話を持ちかけてくれた。ミックスはとにかく数をこなして経験値を稼ぎたいという、そのアシスタントの方が担当してくれることになった。深夜の乃木坂ソニースタジオに忍び込み、何度も意見を交わし、ミックス作業を重ねていった。

 しかし、完成が迫った納品直前、そのエンジニアの方と突然連絡が取れなくなってしまう。

 緊急の連絡というのは、なぜかコール音が静寂の中で焦って聞こえる。繫げてくれた知人から変な時間に電話が鳴り、「彼がバイクで事故って生死の縁をさまよっている。作業中のミックスのデータを抜き出すことも難しい」と告げられる。呆然とする間もなく、僕は自分自身で完成させるほかないことを悟った。

 あまりにも知識のない状態での料理だ。クックパッドも料理本もない。それでも、何もない僕が成し遂げるにはあまりにも荷が重いその料理は、「ファーストアルバム」という形で産み落とされた。

 デビューアルバムには、初めて曲に触れる瞬間が詰まっている。そして、初めて音を作り上げる瞬間もそこに詰まっている。そうやって、すべてを自分たちだけで完成させたのがファーストアルバム『#4』だった。

 本来であれば、その初々しさが今の自分からは痛く感じてしまいそうなものだが、生々しい傷痕が、今でも超えられない輝きとして残せたことに誇りを持っている。

 リリースして少し経った後、エンジニアさんの無事が伝えられ、安心した。数年の時を経てレーベルスタッフに転職したその方と、僕たちがメジャーデビューをするソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズで再会することになるなんて、思ってもいなかった。

 そしてあの頃忍び込んでいたソニーのスタジオには、今はちゃんとしたブッキングを経てレコーディングに行っている。いつ行ってもあの頃の面影を感じる、特別な思いを持ってレコーディングに挑める場所だ。

 ファーストアルバムが少しだけアンダーグラウンドの中で認知された後、ムーヴィング・オンに正式に所属をした僕たち。2008年にメジャーデビューをするまで、社長からは制作のことだけでなく、僕に必要なこの世界での生き方の指針のようなものを数多く教えていただいた。

 この20年、何度お叱りを受けたかは分からないが、あのときに出会い、僕に可能性を感じてくれたことが、今のすべてに繫がっている。

 導かれたのではなく、「自分で創れ」という教えが今も自分を切り拓いている。その恩義は、これからも音楽と共にある。

<第8回に続く>

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