悪魔のような料理人が普通じゃない注文に応える――その料理に隠された秘密とは? 『美食亭グストーの特別料理』/連載第1回

小説・エッセイ

2019/6/13

グルメ界隈で噂の店、歌舞伎町にある「美食亭グストー」。友人の紹介で店を訪れた大学生・一条刀馬は、悪魔のような料理長・荒神羊一にはめられて地下の特別室「怪食亭グストー」で下働きをすることになる。
真珠を作る牡蛎に昭和の美食家が書き遺した幻の熟成肉、思い出の味通りのすっぽんのスープと、店に来る客のオーダーは一風変わったものばかり。
彼らの注文と、その裏に隠された秘密に向き合ううちに、刀馬は荒神の過去に迫る―。

『美食亭グストーの特別料理』(木犀あこ/KADOKAWA)

第一話 フォーチュン・オイスター

 一条刀馬は腹を空かせていた。それこそ、象もまるごと吞みこめるほどに。

 象こそ食らったことはないものの、刀馬はこれまでにさまざまな「食材」を腹におさめてきている。牛、豚、鶏は言うまでもなく、鹿も、鴨も、ウサギもハトもエスカルゴも里に下りてきたイノシシも丸々太った七面鳥だって。自らの身体を満たすものはすべて、刀馬にとっては最高の滋味だ。象をしかるべき手段で、文化的に正しく食えるところがあるのならば、どこであれその地に赴いていたかもしれない。もちろん、心からの敬意を払ってその肉をいただくのだ。

 わけのわからない飢えがどうしても満たされないのなら、新宿に来ればいい──ここにはいろいろなものが揃っている。この地は何者をも歓迎しようとしないが、誰かを拒絶しようとすることもない。むき出しの欲望の、ごった煮のような景色。刀馬はこの街が好きだった。

 夜の歌舞伎町はいっそう情報量が多く、極彩色のネオンが目の奥を焼くかのようだ。土曜の二十三時ということもあり、通りには上機嫌の酔客が多い。すれ違う女性たちは美しく、むせかえるような香気をただよわせている。

 ここ数日はろくに「うまいもの」を食っていないからなと、刀馬は腹をさする。金がないのはいつものことだ。だからこそこうして、招待にあずかることが心からありがたいのだが……。

 うごめく人々の波を縫うようにして、刀馬は夜の街を足早に歩いていた。ロボットレストランの前を通り過ぎてからは、新宿区役所方面に折れ、北に向かってから、細い路地に入る──はずなのだが、目印となる店舗が見つからない。歌舞伎町の店は入れ替わりが激しいため、すでに撤退したあとなのかとも思ったが、それほど古い情報ではないはずだ。

 ──あの界隈、わかるだろ? そう、ルノアールがあって……けど、気をつけろよ。俺も初めて行ったときには、三十分くらい周りを歩かされたから……。

 このチケットを刀馬に託した怪食ハンター仲間は、こう言っていた。看板も出しておらず、店に至る経路は文字による説明だけで、テナントの入るビル名も明かしていない。店の雰囲気や料理に対する感想も、行った者によってばらばら。一度行けば、誰もがやみつきになってしまう。昏い森の奥に潜む、不定形の化け物のような料理店──。

 美食亭グストー。

 刀馬は手触りのいい紙に刷られた招待チケットを、改めて眺めてみた。店名の横に描かれているのは、羊の頭か。どことなく凶悪な目つきだ。

 入るべき路地が見つからず、刀馬は同じ場所を行ったり来たりする羽目になった。もう一度丁寧に、ひとつひとつ店舗の名前を確かめていたところで、鞄の中のスマートフォンが短く震えた。端末を取り出し、通知を確認する。ブログのアクセスランキングの知らせだ。ここ二か月ほどで最も伸びがいい。「サバサンドのサバのかわりにシュールストレミングをはさんでみた」という記事が受けたせいだろうが、嬉しい反面それほどの達成感はなかった。もっとあるはずなのだ。刺激的で、魅力的で、これまでに食ったこともないようなものが、この街には──。

「ふっざけんなよ、マジで! ありえねえだろ、ああいうの!!」

 唐突に響き渡った怒号に、刀馬は思わず立ち止まる。周囲の通行人も足を止め、声のしたほうを見ていた。怒号の主は二十代の会社員らしき男だ。男は来た道をしきりに振り返って、汚い言葉を吐き続けている。

 店とのトラブルか、と刀馬は一歩を踏み出した。連れの男が困っている様子なので、仲裁に入ってやろうかと思った、その時──。

「俺は『もっとあっさりした肉はないのか』って言っただけだろ!」

 叫んでいた男が右手を振り上げる。周囲に軽いざわめきが起こった。

 男の拳には皮を剝かれた頭のないカエルがすっぽりとはまって、薄桃色の脚をぷらんぷらんと揺らしている。刀馬のそばを歩いていた女性が「え、カエル……?」と絶望したような声を上げたが、大きさからすると食用のウシガエルであるに違いない。男はカエルのはまった拳を連れに突きつけながら、情けない声を上げる。

「カエル肉は格別淡白ですので、じゃねえんだよ!」

 憎々しげに振り返る男──その視線を追って、刀馬ははっと息を吞む。

「腐りかけたドアのメキシコ料理屋」と「ピンク色の壁の無料案内所」? このあたりはさっきから何度も通っているはずなのだが、まったく視界に入らなかった。ということは、この二軒に挟まれた細い路地が、「美食亭グストー」への──。

 肩をいからせ、勢いよく歩いてきた男とぶつかりそうになって、刀馬は頭を下げた。すれ違いざまに「よく火通したほうがいいすよ」と声をかけたが、男は何も言わずに連れとその場を通り過ぎてしまった。「バターで揚げ焼きにするといいです!」。返事なし。男の手にはまったカエルの脚が、代わりにぷらぷらと手を振ってくれる。

 さて、と、刀馬はようやく見つけた路地に視線を戻した。ぎらつくネオンの光の陰で、その道はただ暗く、ひっそりとたたずんでいる。今さら危ないところを怖がる身でもない……だが、最低限の用心はしておいたほうがいいだろう。

 刀馬は振り返り、近くに立つ客引きと目を合わせてから、路地へと足を踏み入れた。左右に迫る建物はモルタル造りで、シャッターを開けている店は一軒もない。

 圧迫感のある道は次第に狭まり、このまま奥に進めば戻れなくなってしまいそうだ。地面を割って生える雑草の葉が、街灯の光を浴びてくたびれきっている。

 知らず知らずのうちに、刀馬は背に負ったデイパックの肩ベルトを握りしめていた。リマの貧民街をひとり歩いたときのことを思い出す。通りにいる何かがすべて、こちらを監視しているかのようで、それでいて自分の息の届く範囲にしか世界が広がっていないような、あのからっぽの感覚──あのときは金やパスポート、そして自分の命よりも、懸命に書いてきた手紙だけは守らなければと必死に思ったっけ。

 がたん、と鈍い音が響くと同時に、ごみバケツをあさっていた猫が目の前を走り去っていった。視界の先にふと橙色の光が見えて、刀馬は奇妙な感覚にとらわれる。さきほどまで沈黙していた空気が、にわかに息づき始めたかのようだ。

 大股に数歩進んで、光へと近寄っていく。店だ──急に、店が現れた。コテの跡を残した壁に、枯れかかった蔦。アーチ窓にはめられたガラスは厚く、波打っているため、中の様子をうかがうことはできない。明かりが漏れているのは建物の一階部分だけで、二階にあたる壁には窓そのものがないようにも見えた。話し声がかすかに聞こえてくる。刀馬は惹かれるようにしてまた数歩進み、仰々しい木の扉の前で足を止めた。羊の頭をかたどったノッカーの下のプレートには、こう書かれている。

 満ち足りた方はご遠慮ください。飢えている方は、ご遠慮なく

 刀馬は愉快な気持ちで胃のあたりを撫でた。飢えている方だって? だったら今の俺は、大大大大大歓迎といったところじゃないか。

 真鍮のドアノブに手をかけ、重いドアを引き開ける。ころん、と柔らかなベルの音に続いて漂ってきたのは──「血」の臭いだった。

 それは目に飛び込んできたものに引きずられた、一種の幻臭であったに違いない。

 黄色く照らし出された店内にうごめいていたのは、年齢も性別もさまざまな人、人、人──新雪のようなクロスに覆われた円形のテーブルが二十卓ほど、窮屈に並べられているところに客たちがひしめき合っているので、全ての席の会話が混然一体となって巨大な音のかたまりを作っているかのようだ。

 高い天井に吊られたアール・ヌーヴォーの照明は、賑やかに笑う客たちを堂々と見下ろしている。そしてどのテーブルの皿にもうずたかく積まれているのは、強めのミディアムに焼き上げられたラムチョップ、ラムチョップ、ラムチョップ──客たちはテーブルのど真ん中に積み上げられたラムチョップを素手で取っては肉にかぶりつき、赤黒い髄が覗く骨を陶器の鉢に捨てていく。取っては食い、また肉の山を崩して、咀嚼の合間に連れ合いと弾むような言葉を交わし、骨をどんどん積み上げる。さきほど感じた血の幻臭は、この光景から喚起されたものであったに違いない。

 刀馬は口を開き、五色に彩られた繊細な形の陶器と、その縁からあふれ出す骨の山を見ていた。湾曲した褐色の骨……焦げた肉の身だけをわずかに残して、器から先端をばらばらに覗かせているその骨たちは、まるでひとつの生き物が丸焼けになってしまったあとのようにも見えた……柔らかな肉ととろけるような脂肪を持つ、あばら骨だらけの頭のない生き物……。

 かつん、とひときわ乾いた音が響いて、刀馬は我に返る。どうやらすぐ近くのテーブルの客が、新しく取り換えられた陶器の器に骨を投げ込んだらしい。黒い服に身を包んだホールスタッフたちは、文字通り影のように目立たず、テーブルとテーブルの間を泳ぎ回っている。男女ともに笑みを浮かべているが、誰も声を発さず、店に入ってきた刀馬には気づく様子もない。

「すみませーん」

 手を上げてぴょんぴょん跳んでみるが、応えはなかった。漂ってきた炭火の匂いに腹を鳴らし、刀馬はもう一度声を上げてみる。

「すみませんーおひとりさまです! 予約はしてないのですが……」

 自ら進んで情報を伝えるが、魚のように泳ぎ回るスタッフたちは、まったくこっちを見てくれようとしなかった。どういうシステムになっているんだ? 刀馬は手にしたチケットを高々と掲げ、胸を張ってみる。

 客たちはひたすら肉をむさぼり続けているが、皿が空になってもラムチョップの山は次から次に運ばれてくる。どうやら満席のようだ。ひょっとしたら今日は入れ替え制の食べ放題の日で、途中入店の客は受け付けてくれないのかも……だとしても、あまりにも無視されすぎではないだろうか。悲しい気持ちになって、刀馬は足を踏み出す。とにかくスタッフを捕まえて、どういうルールになっているか聞いてみなければ。

 スタッフたちは銀盆を掲げてすいすいと歩き回っているが、少しばかり体格のいい刀馬は店のど真ん中をまともに抜けられそうもない。少し壁際を歩くか、と向きを変えたところで、そばにあったテーブルの縁にぶつかり、席に座っていた客の肩を思わず摑んでしまう。

「あっ、ごめんなさい」

 テーブルの客は緩慢に顔を上げた。五十代半ばと思われる、少し色の薄い瞳をした男だ。男はいいえ、と言うようにかぶりを振り、すぐに視線を逸らした。店の奥に顔を向けたまま、刀馬のほうを気にする様子は見せない。

 怒らせたか? と身構えるが、どうも様子がおかしい。男は左手にスプーンを握りしめたままで、動こうとはしなかった。刀馬もその視線を追う。正面奥に据え付けられた、巨大なマントルピース──客はその前の席に着いた客たちを、いや、その客たちと談笑している若い男を気にしているようだ。

 少し波打たせてセットされた、七三分けの髪。距離があるのではっきりとはわからないが、二十代後半から三十代前半といったところだろうか。タキシードを上品に着こなしているところをみると、この店の支配人か店長であるのかもしれない。客たちと言葉を交わしているのはこの男だけだ。男の顔つきは端整で、その立ち居振る舞いや姿勢には爪の先にまで注意が行き届いているようにも見える──しかし、気のせいだろうか。にこにこと笑う男の顔に、どこか突き放すような、あざ笑うような色が浮かんでいるように見えるのは。

 マントルピースの前の卓はますます盛り上がり、客のひとりは手を叩いて笑い声を上げている。男は慇懃な態度で頭を下げ、客たちがテーブルの料理に視線を戻したあとは、笑顔を消してその場を去った。隣の席のそばを通る時に、料理の写真を嬉しそうに撮っていた客の手からカメラを取り上げ、肩越しに床へと投げ捨てる。カメラを投げられた客は床と男と床を三度見していたが、タキシードの男は振り返る様子もなく、そのまま厨房のほうへさっさと歩いて行ってしまった。

 その黒い背が見えなくなったところで、刀馬はさきほどの客へと視線を戻した。客もまた刀馬を見つめている。少し引きつったような口元──怪我か、病気の後遺症があるのかもしれない。よく見ると、客のテーブルにはほかの卓にあるようなラムチョップの皿と骨入れの容器がなかった。置かれているのは薄い卵スープの皿だけだ。男は黙って視線を落とし、冷え切っているであろうスープをちびり、ちびりと飲み始める。刀馬は呆然と立ち尽くした。いったい何なのだろう。この骨と脂の饗宴の中で、この男と自分だけが周囲から完全に取り残されてしまっている。

<第2回に続く>