悪魔のような料理人が普通じゃない注文に応える――その料理に隠された秘密とは? 『美食亭グストーの特別料理』/連載第3回

小説・エッセイ

公開日:2019/6/15

グルメ界隈で噂の店、歌舞伎町にある「美食亭グストー」。友人の紹介で店を訪れた大学生・一条刀馬は、悪魔のような料理長・荒神羊一にはめられて地下の特別室「怪食亭グストー」で下働きをすることになる。
真珠を作る牡蛎に昭和の美食家が書き遺した幻の熟成肉、思い出の味通りのすっぽんのスープと、店に来る客のオーダーは一風変わったものばかり。
彼らの注文と、その裏に隠された秘密に向き合ううちに、刀馬は荒神の過去に迫る―。

『美食亭グストーの特別料理』(木犀あこ/KADOKAWA)

 テーブルセッティングをものの二秒ほどで終え、荒神は厨房へと戻っていく。次に現れたときには湯気を立てる皿を片手に掲げていて、刀馬は思わず立ち上がりそうになった。感嘆の声が漏れる。スパゲティ・ウィズ・ミートボールだ!

「冷めないうちに」

 荒神は皿をテーブルに置き、さあ、と優雅に促す。刀馬はごくりと唾を吞み、いただきますと告げてから、重いカトラリーを手に取った。

 多めの脂で包むように焼かれたミートボール……トマトソースは鮮やかな赤を残して、パルメザンチーズの白とパセリの緑をいっそう引き立たせている。大ぶりでやわらかそうなミートボールも刀馬の好みだ。そのうちのひとつをフォークに突き刺し、くるくると巻くと、ソースがしっかりと絡んだスパゲティが何重にもミートボールを包み込んでしまう。麵がほどけないように、まずは一口──う、うまい! 極限まで腹が減っていたこともあって、全身を突き抜けるような衝撃が走り、刀馬は夢中になって二口目をくるくるとフォークに巻いた。ミートボールは中央部分にも火傷しそうなほどの熱を抱いているが、あふれ出す肉汁の旨味、ニンニクの香気、そしてスパイスに由来する刺激と甘味が舌に染みわたって、口に運ぶ手が止まらない。ソースと共に煮込まれたパスタは髪の毛一本ほどの芯を残し、軽快な歯触りを感じさせる。うまい──うまい。この香りは何だろう? ナツメグであるとは思うのだが、ナツメグよりも甘味が強く、花椒のような刺激もある。そのしびれる感覚が食欲を増進させるのか、刀馬は皿に食らいつくようにしてスパゲティをむさぼり続けた。切子のグラスに水を注ぎながら、荒神がもったいぶった口調で言う。

「絶望のパスタ」

 ミートボールとスパゲティをすべて平らげ、ソースに溶け込む玉ねぎのみじん切りまでをフォークで集めきっても、前のめりになった刀馬の渇きは止まらなかった。残りのソースもスプーンできれいに搔き集める。未練がましくそのスプーンを舐め始めたあたりで、その様子を見ていた荒神がはっはと笑い声を上げ、テーブルの周囲を芝居がかった足取りで歩き始めた。刀馬はふう、と息を吐く。なんだか体がだるいな。料理がうますぎて疲れるなんて、初めての経験だ。

「そう──絶望のパスタ──本来は具のないペペロンチーノのことではあるが、当店のメニューはひと味もふた味も違っている──絶望という意味は、まさに──」

 荒神の声を聞きながら、刀馬は目をごしごしとこする。急に疲れが出たのか、視界がぼんやりとしていて、かすみがかかっているかのようだ。それに、さっき舌に感じていたしびれのようなものがひどくなっている。気のせいなのか、指先がわずかにぴりぴりとしていて、そして、とても、喉が渇いていた。口に残る味の余韻を流したくないのに、水を飲みたくてしょうがない。目のかすみはどんどんひどくなって、瞼が重くなってきた。き──気分が悪い。吐き気があるのに何も吐きたくなくて、下腹に押すような痛みがあるのに、トイレにも行きたくない。なん、なんなんだ、これは。舌のしびれが、ますますひどくなってきた。

「さて──」

 刀馬は激しいめまいを感じた。湯あたりしたときのように顔が冷たく、座っていられないほど気分が悪いのに、それに加えてざわざわとした不安があるというか、怖いというか、とにかく不思議なほどに絶望的な気持ちになって、ここにいることが落ち着かなく──絶望? まさか。パスタからは、あのスパイスに似た匂いがしていた。

「食事も終えてリラックスしたところで、そろそろ君の本音を聞かせてもらおうかな」

「おい、まさか、あんた、さっきのパスタに──!」

「ナツメグは少量であれば肉料理や魚料理の臭み消しになるが、大量に摂取すれば頭痛や吐き気、めまい、喉の渇き、そして強い不安感を引き起こすこともある。ああ、ちなみに──そのパスタに入っているのはナツメグじゃない。ニクズクモドキというナツメグの仲間でね、日本国内の市場じゃまず手に入らない代物だ。ナツメグに比べて症状が現れるのが格段に早く、少量で効いて、その上抜けるのも早いと来ている。加えてその不安感と気分の悪さはナツメグで中毒を起こしたときとは比べものにならない。効いてるだろう? 吐き気がして絶望的で最悪で、どうにも救いようのない気分になっているだろう?」

「ちょっ──あんた──盛ったのかよ! 客に、毒を!」

 もつれる舌で刀馬が言葉を絞り出すと、荒神は腹を抱え、さも愉快そうに声を上げて笑い始めた。はっは、あーっはっはと、落とし穴に人を落とした子供のように笑い転げ、そしてぱっと顔を輝かせる。刀馬は拳を握った。重苦しい気だるさを抑え込んで、正面に立つ男と真っ向から対峙する。

「き──救急車──」

「最高の美味のあとに、最悪の気分が待っている。これぞ正真正銘の、絶望のパスタというわけだ!」

 なんだ、そのふざけた言い草は!? と刀馬は荒神を睨むが、その目つき、そして口元に浮かんだ笑みを見て、すぐに悟った──これがこいつの本性か。気だるい皮肉屋の印象を与えておいて、高笑いする悪魔としての素顔をさらけ出す。いや、それにしても、客をバッド・トリップさせておいてそのはしゃぎようはまずいだろう。絶望のパスタ──刀馬はテーブルに突っ伏し、喉からオェエッと声を漏らす。最悪だ。さっきまでこの上なく満たされた気持ちだったのに、今はこの世界のすべてがつらくてしょうがない。とりあえず水が飲みたい。手探りで探してもあるはずのコップが見つからず、刀馬は重い顔を上げる。グラスを手に持った荒神が、また冷ややかな口調に戻って声をかけてきた。

「さて、正直に答えてもらおう。君はなぜ『怪奇な食卓』を求めている? 怖いもの見たさか? 単なる好奇心か? それとも──自分はちょっと違う人間なのだと、周囲にその特異な自分をアピールしたいからなのか?」

「それ──それは……」

「ちゃんと答えなさい。さもなければ、両手と両脚と尻にカエルをぶち込んで外に放り出すぞ」

 刀馬は激しく咳き込み、声を出そうとする。言葉がうまくまとまらない。けれど、真っ先に思いつく答えは……好奇心だ。食べることが好きだから。食べたことのないおいしさを求めて、世界中を旅してみたいから。けれど、これは男が望む答えではないだろう。もっと正直に。精神論じゃなくて、実質的な。ウソが通じるようなやつじゃないぞ、こいつは……正直に答えるんだ。自分がやっていることを。

「ブログをやっていて……」

 なんとか声が出る。答えを聞いた荒神は、わずかに口元を動かしただけだった。

「世界中のめずらしい食材とか、料理を紹介するブログをやってます。め、珍しいものを食わせてくれる店に行って、その体験を記事にして、紹介してるんです──趣味、ではないです。か、金がないから。バイトはしてるんすけど、ブログの広告収入も、馬鹿にならないから……!」

 荒神は、はっと笑いを漏らし、刀馬の言葉を一蹴した。

「そのタイワンリスみたいな面で金、金、金か。歳はいくつだ? 見たところ、学生らしいな」

「二十──大学生です。さ、さ来月の七月に、二十一になります」

「今年で二十一か……ふうん」

 荒神は小さく首を振り、水を求めてあえいでいる刀馬の目の前で、切子のグラスをゆっくりと傾けた。細い線になった水が落ち切る前に、冷たい声で言い放つ。

「成形肉と魚の切り身ばかり食っているやつらに、ほらほら世界にはこんなにグロテスクな食べ物があるんだよ、気持ち悪いよねと煽ってみせる。その下品な嘲笑で金を得るわけだ。つまりは、命を投げ出してくれた食材と、魂を削った料理人たちの血肉をエサにする──好きじゃないな。私が一番好かないタイプだ」

 最後の一滴が床にこぼれたところで、荒神は顔を上げた。きつい視線で刀馬を一瞥して、言葉を続ける。

「つまり、お前はべつに風変わりな食というものを愛しているわけではない。ぬくぬくと幸せな食卓を享受しているやつらに、グロテスクなポルノとしてその記事を売っているだけ。お前にとっての『ゲテモノ』たちは見世物小屋に掲げるぎらぎらした看板で、肉を露出した裸体で、下品な呼び込みで──そうだろ?」

「違います、俺は……!」

 刀馬はまた拳を握る。強く睨みつけても、荒神の言葉は止まらなかった。

「何が違う? ブログの収益を上げたいんだろう。結局は金なんだろう。まあいい、お前のそのやり方というものを否定するのはやめておいてやろう。結局は私も同類というやつだからな。だが、いいか、金目当てにまたうちに通うつもりなら、今度はバッド・トリップ程度じゃ済まさんぞ。二度と来るな」

「そうじゃないんだ、聞いてくれ──」

「そして今夜のこと、うちのことを、お前の金のなる木にはぜったいに書いてくれるな。金、金、金──そんなに金が欲しいなら、日系ペルー人とやらのパパに、泣きついたらどうなんだ!!」

「会ったことなんて、ねえよ!!」

 ホールに響いた刀馬の言葉に、荒神ははっと身をすくめた。やばい──声を荒らげてしまった。落ち着け、と呼吸を整えて、刀馬は椅子に座りなおす。表情を消し、刀馬をじっと見つめている料理人に向かって、ようやくのことで言葉を返した。

「すみません」

 返事はない。軽く頭を振ってから、刀馬はまた口を開いた。

「うち、母親しかいないんで、それで……すみません」

 何がすみませんなのか、と刀馬は自らの言葉をそっと否定する。この手の会話でいつも申し訳なさを感じるのはなぜなのか、その理由は自分にもよくわからない。

 荒神は目を見開いたままで、長い間動かずにいた。やがてテーブルにグラスを置き、顎に手を当てて、刀馬の周りを歩き回り始める。ぶつぶつ、ぶつぶつと何かを呟いているが、鈍くなっている刀馬の耳にはその言葉がよく聞き取れない。荒神は刀馬の周りを三周ほどして、立ち止まり、ふうんと声交じりのため息を長く吐く。蔑むような色は消えているが、なんだかよくわからない表情だ。その口から声が漏れる。

「返答によっては、前の男のぶんも支払いを勘弁しておいてやろうと思ったが……」

 刀馬は背筋を伸ばす。気分はかなりよくなっていた。ナツメグよりもはるかに抜けるのが早いってのは本当だったんだな、などと感心していたところに、思いがけない言葉が飛んでくる。

「支払いの免除はなし、だ。その代わり、お前はここで働け。上のホールじゃない。私がいいと言うまで、この地下階の仕事を手伝うんだ──いいな?」

「は!?」

 刀馬は立ち上がる。まだ舌がうまく回らずに、上ずった声を上げてしまった。

「いや、手伝うって──その──あんたの仕事を? ここで?」

「他に何がある? 言っておくが、もちろん無理だいやだノーだとは言わせんぞ。もっとも、お前にチケットを渡した男が前に飲み食いした分の四十四万九千八百円、そしてお前が今日食ったパスタの代金二百六十八万五千九百九十九円、合わせて三百十三万五千七百九十九円、耳を揃えて明日までに払うというのであれば、今すぐ家に帰してやろう。どうだ?」

「ここで働きますー」

 もはや金額設定がコロコロコミックの漫画ではないか。即座に答えておいてから、おいおい、こいつの下で働くって、正気か──と、別なところにいる自分からの警告が聞こえてくる。しかし、だ。上階で見たあのラムチョップ地獄、内臓を抜かれたクイ、合法すれすれのバッド・トリップ・パスタ……この店であれこれと働いていれば、もっと珍しい料理やら珍妙な食材やらに出会うこともあるのではないだろうか? 期待を抑えきれず、刀馬は口元にへらあっと笑みを浮かべる。バッド・トリップの反動であるのかもしれないが、やけに浮ついた気持ちになっているのだから仕方ない。

 そんな刀馬の反応を見て、荒神もまたふっ、ふふと笑い、刀馬もまた笑って、しばらくはははは、はははと、互いに争うように笑いあった。あはは、あはは、あははと笑って、笑って、さんざん笑って、刀馬は大事なことを思い出し、それを唐突に口にする。

「あっ、言い忘れてました! 俺、一条刀馬です。二十さいです! さっき言いましたね。漢数字の一に条件の条にかたなのうまで刀馬! よろしくお願いします!」

「はは……そうか、そうか、刀馬くんか。よろしく頼むぞ、はは……」

 荒神は五、六発ほど刀馬の背をばんばんと叩いて、またははは! とひときわ高く笑ってから、すっと口を結んだ。眉のひとつも動かさずに、一息に言い放つ。

「というわけで、明日、いや今日の夜中の一時に店の裏の入り口に来い。制服は私が用意する。一分でも遅れたら冷蔵庫でスペアリブといっしょに一晩寝かせるぞ」

 刀馬はすっと口を閉じ、腕時計を確かめた。ふむ。日付が変わって、今は「今日の夜中」の零時五十二分。部屋に帰ってぐっすり寝る暇はなさそうだ。

<第4回に続く>