悪魔のような料理人が普通じゃない注文に応える――その料理に隠された秘密とは? 『美食亭グストーの特別料理』/連載第4回

小説・エッセイ

2019/6/16

グルメ界隈で噂の店、歌舞伎町にある「美食亭グストー」。友人の紹介で店を訪れた大学生・一条刀馬は、悪魔のような料理長・荒神羊一にはめられて地下の特別室「怪食亭グストー」で下働きをすることになる。
真珠を作る牡蛎に昭和の美食家が書き遺した幻の熟成肉、思い出の味通りのすっぽんのスープと、店に来る客のオーダーは一風変わったものばかり。
彼らの注文と、その裏に隠された秘密に向き合ううちに、刀馬は荒神の過去に迫る―。

『美食亭グストーの特別料理』(木犀あこ/KADOKAWA)

 蚊の目玉のスープですか?

 暗い席、暗いランプ、壁も床もテーブルもテーブルクロスもスプーンも観葉植物も何もかもが真っ黒な店の中、刀馬の声が響く。

 泥団子を溶かしたようなスープをかき混ぜている刀馬に向かって、頭のない給仕人が語りかけてきた。そうです、蚊の目玉のスープです。蝙蝠は別名を「蚊食い鳥」と呼ばれるほど蚊が大好物でして一日に何百匹もの蚊を食うわけですね、その糞をきれいに洗って紙で濾すとですね、蚊の目玉の部分だけが残るんです。蝙蝠も蚊も夜に目がよく見えるものですから目にいいと言われていまして……いや、その話聞いたことありますけど本当に蚊の目玉なわけないですよね?

 いえいえ、根拠のあることですよと給仕人。一口飲めば周囲の明るさも変わります。なるほど、飲みました。いい味です。さっそく周りが明るくなってきたでしょう。ええ、とても明るい。まぶしくて、目を開けていられないほどで──。

 どがっ、と腰のあたりを強く蹴られて、刀馬は一気に夢から覚めた。

「いってえ!!」

 ここはどこで今は何時なのか、自分はどうしてこんなところに転がっていて、いったい誰に蹴り飛ばされたのか、そしてどうしてこんなに目の前がまぶしくて背中と尻がびしょびしょに湿っているのか、それらの疑問の答えが一気に押し寄せてきて、刀馬は思わずはっ、と声を出した。

 ここは「美食亭グストー」のホールの床で、背中と尻がびしょびしょなのは水洗いをした床が乾かないうちに刀馬がそこで寝ころび、眠ってしまったから。東に向いた窓から明るい陽が差しているということは午前で、こんなに腰が痛いのはさんざん洗い物や片づけやらを手伝わされた上に、今しがた思いきり蹴り飛ばされたからだ。「怪食亭グストー」の料理長、荒神羊一に。

「うん……もう、朝っすか」

「朝じゃない。もう十時半だ。予約の客が来る。表の扉を開けろ」

 昨日(といってもほんの数時間前なのだが)と同じく黒いコックコートに青白く漂白したエプロンを締めた荒神は、まだ床に転がっている刀馬に雑な指示を飛ばし、地下階に続く階段へさっさと向かってしまった。刀馬は重い体を起こす。ゆがんだ顎をくい、と手で直して、思い切り伸びをした。

「制服、しけっちゃったなあ」

 ギャルソンのユニフォームというのか、とにかく慣れない服装で動いた上にそのまま寝てしまったので、肩のあたりがやけに痛い。関節という関節をぐるぐる回しながら、刀馬は店の玄関扉に向かって歩いていく。上下についた鍵を外し、一度風を通すために大きく扉を開け放った。よく晴れた日だ。建物に押しつぶされそうなこの路地にも、あふれんばかりの光がさしている。

 日曜の昼前、歌舞伎町はもう目を覚ましているらしく、周囲にはかつおだしの匂いとトムヤムの匂いが混ざり合わずに漂っていた。刀馬はその匂いを腹いっぱいに吸い込み、表のプレートを「OPEN」に掛けなおしてから、扉を閉める。一階のフロアは静かだ。椅子はすべてテーブルに上げられ、床には骨どころか塵のひとつもなく、磨き上げられた厨房は薄暗い片隅でじっと身を潜めている。客の予約を受ければいつでも開ける「怪食亭」と違って、「美食亭」のほうは夜にしか営業しないらしい。

 並べ直されたテーブルの間を縫いながら、刀馬はひとりでスープを飲んでいた客のことをふと思い出した。何があったのかはわからないが、ずいぶんと元気がなかったように見えた、あの男──無事に家へ帰れてりゃいいけどな、などと考えながら、地下階へと続く階段を下りた。バターの焼ける香り。それに、シナモンか。たまらなくおいしそうな匂いだ。荒神が甘いアップルパイでも仕込んでいるらしい。

「表の扉、鍵だけ開けときましたけど」

 言いながらホールに下りるが、返事はない。テーブルは四人掛けのしっかりしたものに置き換えられ、白色のクロスの上には三人分のカトラリーとテーブルナプキンが行儀よくセットされている。矩形のテーブルを横切るテーブルランナーには金糸の刺繡がほどこされて、片隅に飾られたダリアの赤色を美しく引き立てていた。昨日の刀馬が座った席とはまるで別物だ。ころんとしたキャンドルをつついてから、刀馬は厨房に向かって声をかける。

「予約の人、お祝いかなんかですか?」

 アップルパイの匂いがきつくなった。厨房の奥から返事が聞こえてくる。

「父親の五十三歳の誕生日パーティーで、料理はすべてその父親の好物ばかり。母親と社会人の娘が『ちょっとしたサプライズ』を希望してうちを予約した。料理と酒を出す順番は私が指示するから、お前はとにかく指示に従え。私がさげろと言っていない皿は勝手にさげるな。キャンドルを元の位置に戻せ」

 セットされた卓と厨房の奥を交互に見てから、刀馬は丸いキャンドルの位置を指先でそっと直した。キャンドルはころころと転がり、もはや元の位置がどこであったか見当もつかないような場所に移動してしまう。

「……この『怪食亭』のほうのシステム、そろそろ教えてもらってもいいですかね?」

 荒神が厨房の奥から出てきたので、刀馬もカウンターに向かって歩いて行った。相変わらず怒ったような顔をしている相手に、続けて訊ねる。

「招待チケットを持っていれば、ここに案内されますよね。そのあとは──」

「チケットが本物だった場合は、私が客の望みを聞いて、その希望通りの食卓を用意する。たいていはその日のうちにできるものじゃない。珍しいもの、よそでは手に入らないもの、そして何ものにも代えがたい場面を用意するとなると──客は待つことになるからな」

「場面?」

「印象的な食卓は印象的な経験をもたらし、印象的な経験は深く記憶に刻まれる。食は皿の中のみで完成するものではなく、我々が目指すのは『オフ・ザ・プレート・ダイニング(料理を超える食体験)』だ。我々は場面を演出し、客はその場面を記憶する──そしてその場面が異様であればあるほど、その陶酔と動揺は深く、深く棘を残すことになるだろう」

「オフザ──なんですか?」

「場面を作るのは料理だ。そしてその料理は、稀なる食材によって作り上げられる」

 荒神は言葉を切り、念仏を聞いている馬を見るような目で刀馬を見据えた。刀馬が自分の言葉をかけらも理解していないことを理解したらしい。

「お前にもわかる言葉で言ってやろう。要は『異様な食卓は異様な体験をもたらす』ということだ。紙に書いてその面にでも貼りつけておけ」

「ええと、つまりは珍しい食材とか料理をお客さんのリクエストに応じて出すってことなんですよね。で、その珍しいものが他じゃ手に入らないと……」

 荒神は片頰だけで笑みを浮かべて、カウンターに置かれていた発泡スチロールの保冷箱を手元に引き寄せた。大きさは一抱えほど、どうやら冷蔵便で運ばれてきたものらしい。剝がされた伝票の一部には「三重県産」の文字がある。荒神はもったいぶった手つきで箱をひとつ撫でてから、その軽い蓋をぱかりと外した。

「……牡蠣!?」

 刀馬は声を上げる。殻長は十六㎝ほど、強い磯の香りと、今海から引き揚げてきたような輝きを帯びた、見事な牡蠣だ。まだ生きているとみえて、ごつごつとした岩のような貝殻のひとつが、かすかに息づいたような気がした。

「マガキの一種で、ミカゲガキという名で流通している。一般には手に入るようなものじゃない。今日の客のご注文でね」

 ごくり、と唾を吞む刀馬の前で、荒神はそのうちのひとつを手に取った。刃渡りの短いナイフを握り、その刃先を殻の間に滑らせる。迷いのない動きでその閉殻筋を切る手元を見ながら、刀馬は短い息を漏らしていた──どれだけ無茶なことを言っていても、この男はやっぱり料理人なのだな。火傷の跡が残る、水と洗剤と食材の「血」で荒れ果ててしまった手。この指を見れば、この男が今までどれほどの火と水に向き合ってきたのかがわかる──ような気がする。

 固く閉ざされていた殻がぱきりと開き、褐色を帯びたミルク色の身が姿を現した。粒は大ぶりで、丸々と太り、曲線を描く下殻は透き通った海水をたっぷりと湛えている。刀馬はため息を漏らした。牡蠣はすごい──完璧な生き物だ。この世の中にこれほど豊かでおいしくて、殻を開けただけで見事に食卓を飾ってしまえるような食材が、他にあるだろうか?

「食べてみろ」

 差し出された貝をそっと受け取って、刀馬はその小さな海をこぼさないよう、慎重に指を運んだ。唇に下殻をそっと当て、神に注いでもらった酒の杯を干すかのように、うやうやしくその身をすする。舌を刺す塩気と、乳に似た味わい──磯の複雑な旨味が鼻から抜けて、弾力を持った身を舌と歯で押すごとに、甘さのある体液がじんわりと染み出してくる。喉の欲求に負けてその身を飲みこめば、つるりとした感触が舌の根を喜ばせ、あとにはさっぱりとした潮の香りとかすかな甘味の余韻だけが残った。刀馬は顔を輝かせる。気づいたときには言葉を漏らしていた。

「おいしー」

「そんなことはわかっている。他になにか気づかなかったか?」

 刀馬は首を傾げた。今さら聞かれても、牡蠣はとっくに胃の中だ。荒神は間抜けの世界チャンピオンを見るような目つきで刀馬の喉と胃袋のあたりをじいっと眺め、それから長いため息をついた。刀馬は目を白黒させる。

「ちょっと待ってください。また変なものとか入れてたりしてないすよね?」

「客に出すのに変なものなど入れるか。まあいい、不注意な奴には事前に説明しておくべきだということはわかった。さもなければ、仕込みに気づかずに全部飲みこんでしまうと……」

「仕込みってあんた……やっぱりなんか入れてたんじゃないですか!」

「今回ばかりはお前の不注意だ。普通は口に入れたときに気づくものだからな。いいからいつまでもそんなところに突っ立ってないで、さっさと客を迎えに行ってこい。ドアベルの音が聞こえなかったのか?」

「え? 上のドアですか? 何も聞こえなかったですけど」

「舌だけじゃなく耳も馬鹿ときたか。いいか、もう一度言うぞ。客が上の階に来ているから、迎えに行ってこい」

 馬鹿馬鹿言うやつが馬鹿なんだよバ~~~カという言葉を「かしこまりました」という一言に変換して、刀馬は上階へと急ぐ。あんなことを言われたからなのか、どことなく胃が重いというか、なんだかきゅっと縮むような感覚がある気がするのだが、まあすきっ腹に生牡蠣を食ったせいなのだということにしておこう。

 一段飛ばしで階段を上がり、一階のホールへと出る。出入り口近くに二人の客が立っているのを見つけ、刀馬は頭を下げた。五十代くらいの女性と、二十代前半の社会人らしき女性。予約を入れている家族の母親と娘なのだろう。

「あら」

 母親と思しき客が刀馬に気づき、優しい笑顔を見せてくれた。傍らに立つ娘もにっこりと微笑み、母親と連れだって刀馬のほうへと歩いてくる。刀馬はもう一度頭を下げた。足早にホールを横切りながら、母娘に声をかける。

「すみません、いまご案内いたします。ええと、ご予約の……」

「武藤です。荒神さん、地下にいらっしゃるんですか?」

 答えたのは娘のほうだ。淡い色彩の服装に肩まで伸ばしたつややかな髪、口調も笑顔もふんわりとした印象で、とても優しそうに見える。へらっと崩れそうになった口元を引き締め、ぴしりと足を揃えてから、刀馬は厳粛な口調で応えた。

「はい、もうお席はご用意できており……ます。地下の特別室へどうぞ」

 刀馬のもったいぶった言葉を聞いて、母親のほうがふふふと笑い声を漏らした。刀馬はくるりと体の向きを変え、ふたりを先導するように歩き始める。ホールを横切る間も、地下へと続く階段を下りる間も、母と娘は軽やかに笑いあい、とりとめもない会話を交わしていた。

「荒神さん、助手を雇ったんですねえ。お客さんの人数が少ない時は給仕もひとりでやってる、みたいなことをおっしゃってましたけど……」

「よっぽど優秀な人材だったんじゃないかな」

 とても褒められている。刀馬は母娘を振り返り、渾身の笑顔で問いかけてみた。

「本日はお父様のバースデイと伺っております。お父様は……」

「ちょっとだけ遅れてきます。直接店に来るとは言ってたんですけど」

 答える娘の顔にぱっと笑みが浮かんだので、刀馬も正面に視線を戻した。ホールに出てきた荒神が優雅に微笑んでいる。二人を案内してきた刀馬にはちらりとも視線を向けず、一度深々とお辞儀をしてから、荒神は低い声で告げた。

「いらっしゃいませ、武藤さま。綾さま。ついにこの日が来ましたね」

「ほんと、ついにって感じです。緊張しますね……」

 綾、と呼ばれた娘は、胸に手を当てて息を吸い込む──その瞳が遠くを見ていることに気づいて、刀馬は軽く首を傾げた。父親の誕生日で、『ちょっとしたサプライズ』を用意していることだけは聞いているが、いったいどんな仕込みをしているというのだろうか。刀馬は何も聞かされていない。目を閉じる娘の前に歩み出て、武藤夫人がまた明るい笑顔を見せた。

「荒神さんにはずいぶん手間をかけさせちゃってねえ、ほんと。すみませんでした。今日という日はおしゃれしてこようと思って、気合い入れてきたの。どう? 髪も美容室でセットしてもらっちゃった」

「ええ、とても素敵です。ハゲワシでも棲んでいそうですね」

 荒神は笑みを浮かべたままで、とんでもない返しをする。刀馬はその凶悪な顔を凝視するが、当の荒神はまったく悪びれる様子もなく、武藤夫人もあはは、いやだと笑い転げるだけ。そういうお決まりのジョークだったりするのだろうか。深追いするのはやめておこう。

「さて、武藤さま、ちょっと……」

 荒神はハゲワシの巣頭の夫人を伴って、テーブルのそばへと歩いて行ってしまう。サプライズの段取りを確かめるつもりなのだろうか。刀馬の横に立つ娘──武藤綾は、目を閉じたままで深い呼吸を繰り返していた。刀馬はできるだけ柔らかい声で語りかける。

「あの──緊張されてますか?」

 綾は少し驚いたような表情になり、それからすぐに顔をほころばせた。料理の順番がどう、酒がどうと言葉を交わす荒神と母親を見ながら、ゆっくりと瞬きをする。

「はい、ちょっとだけ。今日は、お父さんの誕生日なんですけど、どうしても言わなきゃいけないことがあって。そのために、荒神さんにも協力してもらって、すっごく念入りに準備してきたんです。でも、うまくいくかなあって。荒神さんは、一か八かのところがある、前もって確かめておくわけにはいかないこともあるから、そこも理解してくれって……でも、信じています。荒神さんが用意してくれたものなら、大丈夫だって。きっと大成功だって」

「一か八か──ですか。何か特別なものを用意されてるんですか?」

 綾は静かに頷く。その目は言葉を交わす母親と荒神をじっと見つめていた。

 武藤夫人に何かを確認していた荒神は、ふとそのそばを離れ、小さな箱を手にテーブルへとすぐ戻ってきた。牡蠣が入っていたものと同じ素材の保冷箱らしい。夫人は手を叩き、箱を開けようとして、だめよね、と首を振る。綾はその様子をじっと見つめていた。荒神の抱える箱から目を逸らそうとはしない。刀馬は言葉に詰まりながら、質問を投げかけてみた。

「その、どれくらいかかったんですか? 今回のパーティーを準備するのに──」

「二年です」

 短い言葉が返ってきた。綾はゆっくりと首を巡らせ、濃い色の瞳をまっすぐ刀馬に向けてから、続けた。

「そうです。二年──あれを用意してもらうのに、二年かかりました」

 調子はずれの着信音が鳴り響き、全員がいっせいにその音の出所を探す。はいはい、はいはいと鞄から端末を取り出した武藤夫人が、すぐに通話に応じた。

「はい、私だけど──はい? ああ、もう来てるの? じゃあちょっと待って。お店の人に、準備できてるか聞いてみるから。あの……荒神さん。うちの人、もう店の前まで来てるみたいなんです。どうしましょうか?」

「彼を迎えに行かせましょう。こちらの準備はできております」

 送話口を手で押さえたまま問いかける夫人に、荒神は静かな声で返した。ちょっと待ってて、と告げて通話を切る武藤夫人を見る。唇を嚙んだまま、まっすぐ立ち尽くしている綾を見る。そして戸惑い、きょろきょろと周囲を見回している刀馬にきつい視線を送ってから、高らかに言い放った。

「今日の主役をお迎えするのですよ──二年越しのサプライズの始まりだ!」

<第5回に続く>