殺人で戸籍を奪った母が自殺。残された娘は偽りの戸籍のまま老人と結婚し――/『忌まわ昔』“人妻、死にて後に、本(もと)の形となりて旧夫に会ひし語”③

文芸・カルチャー

更新日:2019/7/10

 平安の世から令和の今に、遠く忌まわしき話の数々が甦る。「今は昔」で始まり、「となむ語り伝へたるとや」で終わる「今昔物語集」。これを下敷きに、人間に巣くう欲望の闇を実際の事件・出来事を題材に岩井志麻子が語り直す。時代が変わっても人間の愚かさは変わらない――。収録された10篇の中から、壮絶な人生を送った女の話を5回連載で紹介します。

『忌まわ昔』(岩井志麻子/KADOKAWA)

 それが二十歳を過ぎた頃、母親が自殺してしまった。死の前日、女は母親からすべてを打ち明けられたって。もちろん、強い衝撃を受けた。

「あたしらは、生きたまま死んでる。死んでるのに、生きてる」

 母親が人殺しで、殺した人達の戸籍を乗っ取り、自分もまた殺された子のなり済ましになっていたなんて。母親の殺人も悪事も怖いが、自分はいったい誰なんだ。自分は自分じゃなかった。これも、恐怖だったろう。

 ごく短い間だけあった本名は、覚えていない。物心ついてからずっと名乗ってきた、見知らぬ女の子の名前こそが自分には本名だ。

 その女の母親が生まれ育った国には、魔物に本名を呼ばれてうかつに返事をすると、ヒョウタンに吸いこまれる、なんて昔話があったって。

 警察に行って打ち明けて、たとえ自分は罪には問われないとしても、今さら別人になるのはとにかく怖かった。ややこしいけど、今の状態が別人を生きているわけで、警察に行けば本当の自分に戻れるかもしれないのにだ。

 母親は死の前日には、

「このまま何食わぬ顔で、この名前と戸籍で生きていけ」

 といったって。翌日、女の母親は橋から川に飛び込んで死んだ。今と違って防犯カメラもなく、外灯も乏しく、目撃者もいなかった。

 橋の上にも遺体にも争った跡はなく、遺書もなかったが自殺で片付いた。何より娘が、

「母は前日に死にたい、死ぬともらしてました。かなり昔から、憂鬱な精神状態が続いてたんです。薬も酒もかなり飲んでました」

 と警察に話したことも大きかった。実は、女の母親はそんなことはいってない。

 だけどそれもまた、証拠はない。証明もできない。でも、娘が母親の死を自殺としたい理由も、警察には見いだせなかった。薬と酒を飲んでいたのも本当だった。

 一人ぼっちになった戸籍を持って、女は一人ぼっちで生きていくことになった。その女の母親になり済まされた枕芸者は、今度こそ本当に死んだ。二度、死んだ。

 母親と同じように夜の街を転々としていた女は、地方の商店街の小さなスナックに流れついた。身分証明も要らない、本名を名乗る必要もない。

 常連客に、妻には先立たれ、子ども達はみんな独立している一人暮らしの老人がいた。

 仲が悪いのでもないが、そんなしょっちゅう子どもや孫達と会うこともなく、寂しいからとその店に入り浸っていた。

 女はなかなかやり手で、いつの間にかスナックの雇われママにまでなっていた。それまでのママが、不意にいなくなったというのもあるが。

 なんでいなくなったかは、これももう怖いというより面倒だから、俺は詮索しない。

 女は小金を持っていた老人と、正式に結婚した。考えてみれば、自分のは他人の戸籍だ。本当は、正式な結婚じゃない。

 老人は、子どもらに結婚を伝えなかった。財産分与だのなんだので、面倒なことになる、財産狙いに決まっていると結婚を反対される、と、これは妻となった女よりも老人自身がいい張って決めたそうだ。これは、本当だと思う。

 ともあれ女と老人は、晴れて夫婦として新居に引っ越していった。ところが一年も経たないうちに、老人は亡くなった。

 老人といわれる年頃だったし、持病もあった。あからさまに怪しい死に方ではない。

 粛々と決められた手続きに従い、女は夫であった老人の死亡届を出した。妻として、老人を荼毘に付した。遺体を放置して、逃げたりはしなかった。

 ところが、たまたま老人の子どもが何かの用事があって戸籍を取り寄せ、驚いた。

 父親が、知らぬ間に死んでいたからだ。

 子ども達は、父親の死を何一つ知らされていなかった。父親はいつのまにか死んでいて、知らない間に火葬もされ、公営の共同墓地に納骨もされていた。

 それだけでも充分すぎる驚きなのに、父親は見知らぬ女と結婚もしていたではないか。

 すぐに届け出て、事件として捜査は始まった。老人は病院ではなく自宅で亡くなったので検死が行われ、遺体の写真も撮られていた。

 警察にそれを見せられた子どもらは、またまた仰天。

「これは、うちの父親ではありません、見知らぬ他人です」

 調べていくうちに、老人と女は結婚して最初に住んだアパートを五か月ほどで出ていき、ほど近い別のアパートに移っていたのがわかった。

 そうして、前のアパートにいた老人と、次のアパートで女の夫と見られていた男がまったくの別人であったことも、関係者の証言からわかった。

 つまり、前のアパートにいたのは本物の老人。次のアパートに住んでいてそこで亡くなったのは、老人を装った別人ということだ。

 調べが進むうちに、老人の子どもらの住民票が勝手に何者かによって動かされていたり、印鑑も偽造され相続放棄や登記簿の書き換えまでが行われていたのもわかった。

 やがて判明する。老人として火葬されたのは、天涯孤独な日雇いの人達が多く居住する地域で捕まえてきた替え玉だった。

 女が身寄りのない日雇いの男達に片っ端から声をかけていたのは、証言者、目撃者がかなりいたことでわかった。

 いいなりになる替え玉を用意してから、もはや邪魔なだけの小金持ちの老人を殺す。

 そして意思のない大人しい替え玉を、金が動く様々な書類の書き変えを行った後、老人として死なせたということだ。

 今もって、老人の消息はわからない。死んでいるのは間違いないが、遺体が発見されていない。だから、これは殺人事件にならない。自らの意思で出ていったということも、絶対にないとはいえない。ないだろうけど。

<第4回に続く>

著者プロフィール
岩井志麻子●1964年、岡山県出身。99年、短編「ぼっけえ、きょうてえ」で第6回日本ホラー大賞を受賞。また、同作に書き下ろし3編を加えた質の高い作品性を支持され、第13回山本周五郎賞を受賞する。恋愛小説『チャイ・コイ』で第2回婦人公論文芸賞、『自由戀愛』で第9回島清恋愛文学賞を受賞。ほかに『岡山女』『夜啼きの森』『合意情死』『楽園』『恋愛詐欺師』、「備前風呂屋怪談」シリーズ、「現代百物語」シリーズなど多数の著書がある。