婚約者の身体の下で、今日もわたしは演技をする。別の男のことを考えながら…/ 大石圭『溺れる女』⑤

文芸・カルチャー

公開日:2019/9/11

――彼と出逢ってしまったのが、 悲劇のはじまり。 『アンダー・ユア・ベッド』『呪怨』『甘い鞭』の大石圭、最新作。 著者渾身の「イヤミス」ならぬ「イヤラブ」小説。

『溺れる女』(大石圭/KADOKAWA)

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 飯島一博とわたしがフランス料理店を出たのは、間もなく午後九時になろうとしている頃だった。

 店を出たわたしたちはタクシーで渋谷へと向かった。日曜日の晩にはたいていそうしていたのだ。渋谷の繁華街の外れには、いかがわしいホテルが林立している区域があった。

 一博もわたしも都内のマンションにひとり暮らしをしているから、性行為をするならどちらかの部屋に行けばいいだけのことだった。だが、一博はどういうわけか、けばけばしい雰囲気のラブホテルが好きなようだった。

 その日曜日の晩、わたしたちが行ったのは、これまでにも何度か訪れたことのあるラブホテルだった。そのホテルにはいくつものタイプの部屋があったが、どの部屋も悪趣味でけばけばしいものだった。

 今夜の部屋は壁のすべてがショッキングピンクで毒々しく塗られていた。サテンのベッドカバーもショッキングピンクだった。巨大なベッドの真上の天井と、壁の二面には、とても大きな鏡が貼りつけられていた。天井からはミラーボールがぶら下がっていて、スイッチを入れればそこから放たれた七色の光が室内を毒々しく照らすはずだった。

 部屋に入った瞬間、わたしは思わず身震いした。その部屋にも強い冷房が効いていた。タクシーの車内も寒かったから、わたしは体の芯まで冷え切っていた。

 一博はすぐにわたしを抱きしめようとした。けれど、わたしは彼の手をそっと振り払って、先にシャワーを浴びてくれるようにと懇願した。

 汗まみれの彼に抱かれるのは、どうしても我慢ができなかった。フランス料理店にいる頃から、わたしは彼の全身から絶えず立ち上っている汗のにおいに辟易していた。

 一博は渋々といった態度で、浴室に向かったが、今夜も五分ほどでそこから出てきた。

「奈々ちゃん、シャワーを浴びてきた。これでいいよね?」

 左右の腕を擦りながらベッドの端に腰掛けていたわたしに、ボクサーショーツだけの格好をした一博が言った。

 赤らんだ一博の顔には好色な表情が現れていた。ボクサーショーツの生地を通して、硬直している男性器の形がはっきりと見えた。

 彼は若い男のように性欲が旺盛で、ラブホテルに来るたびに二度も三度もわたしを求めた。時にラブホテルに泊まるようなことがあると、夜中にも眠っているわたしを起こして体を求めた。

 ベッドの端に腰掛けたまま、わたしは浴室のドアのところに立った一博を見つめた。

 彼の裸体は何度となく目にしていた。けれど、何度見ても、その醜さには慣れることができなかった。

 彼の体はすべての部分が分厚い脂肪の層に覆われていた。それはまるで小柄な相撲取りが立っているかのようだった。妊婦のような彼の腹部は、その重さで垂れ下がっていた。首にもたっぷりと肉がついていて、どこまでが顔で、どこからが首なのかがよくわからないほどだった。それだけでなく、いつも汗ばんでいるベタベタとしている体には、そのいたるところに赤い吹き出物が無数にできていた。

「奈々ちゃん、こっちにおいで」

 好色な顔をした一博が命じ、わたしはゆっくりとベッドから腰を上げた。けれど、そこに立っていただけで、彼に向かって行くことはしなかった。

 一博はそんなわたしに歩み寄り、剥き出しの太い腕でわたしの体を強く抱き締め、わたしの口に自分のそれを重ね合わせた。ボクサーショーツの中の硬い男性器が、わたしの太腿を圧迫するのが感じられた。

 一博とわたしが初めて体の関係を持ったのは、交際を始めて数ヶ月がすぎた頃、今からだと半年ほど前のことだった。

 性行為をしたことが一度もないという彼には、女をどう扱えばいいかがまったくわからなかったようで、その行為はとてもぎこちないものだった。性交どころか、彼はキスをしたことも、女を抱き締めたこともないということだった。

 それでも、一博に経験がないということに、わたしはホッとしてもいた。未経験の彼なら、わたしが処女ではないことを見抜けないはずだと思ったから。

 もしかしたら、一博にはわたしが処女であっても、そうでなくても、どちらでもよかったのかもしれない。けれど、あの晩、わたしは処女のフリをした。

 そう。わたしはあざとい女で、あの頃も今も、一博にはたくさんの隠し事をしているのだ。

 初めてのあの晩、彼はほとんど愛撫もないままに、硬直した男性器を力ずくで押し込んできた。それは本当に乱暴な行為で、襲いかかってくる激痛にわたしは悲鳴をあげた。

 あれから今にいたるまで、一博とは何度となく体を重ねてきたが、彼との行為でわたしが性的快楽を覚えたことはただの一度もなかった。それどころか、彼の性器に貫かれているあいだずっと、わたしは『早く終われ』ということばかり願っていた。彼は体重が百キロもあったから、その体重を受け続けていることも辛かった。

 それでも、一博との行為でのわたしは、いつも感じているフリをした。わたしを愛してくれる彼の気持ちに応えたかったからだ。彼との行為の時のわたしは、たっぷりと脂肪がついた彼の背中に爪を立て、わざとらしいほどに息を弾ませ、枕に後頭部を擦りつけて淫らな声を漏らし続けるというのが常だった。

 一博はおっとりとした性格で、誰に対しても思いやりのある男だった。けれど、性行為の時の彼はいつも急いでいて、わたしへの思いやりなど微塵もない態度をとった。

 今夜も一博はひどく急いだ様子で、わたしから衣類と下着を乱暴に剥ぎ取った。そして、全裸のわたしをベッドに押し倒して身を重ね合わせ、まだまったく潤んでいないわたしの中に乱暴に男性器をねじ込み、たっぷりと肉のついた腰を前後に荒々しく打ち振った。

 わたしが凍えているというのに、暑がりの一博の体は噴き出した汗でヌルヌルになっていた。動き続ける彼の顔から流れ落ちる汗が、わたしの顔に絶え間なく滴り落ちた。

 ベッドの真上に取りつけられた鏡に、ほっそりとした二本の脚を左右に広げて横たわっているわたしと、わたしにのしかかって腰を振っている一博の姿が映っていた。白くて丸い彼の背中にも、赤い吹き出物が一面にできていた。

 男に犯されている自分の姿を目にすることで、性的な高ぶりを覚える女もいるのだろう。だからこそ、あんなところに大きな鏡が取りつけられているのだろう。

 けれど、わたしはその鏡を努めて見るまいとした。一博との性交は、わたしにとって苦行のようなものだった。

「奈々ちゃん……奈々ちゃん……奈々ちゃん……奈々ちゃん……」

 わたしの上で忙しなく動き続けながら、一博はうわ言のようにそんな言葉を繰り返した。

「カズさん……カズさん……」

 一博に合わせ、わたしもまたそう繰り返していた。けれど、心の中で考えていたのは、彼とは別の男のことだった。

第6回に続く

大石圭
1961年、東京生まれ。法政大学文学部卒。93年、『履き忘れたもう片方の靴』で第30回文藝賞佳作となる。他の著書に『アンダー・ユア・ベッド』『呪怨』『甘い鞭』等がある。
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