年下美男子からの予想外の告白に、胸の高鳴りを抑えきれず…/ 大石圭『溺れる女』⑥

文芸・カルチャー

公開日:2019/9/12

――彼と出逢ってしまったのが、 悲劇のはじまり。 『アンダー・ユア・ベッド』『呪怨』『甘い鞭』の大石圭、最新作。 著者渾身の「イヤミス」ならぬ「イヤラブ」小説。

『溺れる女』(大石圭/KADOKAWA)

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 江口慎之介から交際を求められたのは、彼が文芸サークルに入ってきて十日ほどがすぎた日の夕暮れ時のことだった。

 あの日、サークル活動を終えたわたしは、ほかのメンバーたちと別れてひとりで駅に向かって歩いていた。みんなには一緒にカフェに行こうと誘われたのだが、いつものように、わたしはそれを断っていた。

 みんなで集まってお喋りをするというのが、わたしは昔から好きではなかった。貴重な時間を無駄にしているような気がしたのだ。

 大学から駅へと続く道の両側にはソメイヨシノの樹がずらりと植えられていて、入学式があった頃には淡いピンクの花が美しいトンネルを形成していた。けれど、四月も半ばをすぎたあの頃には花はすっかり散ってしまって、木々の枝は芽吹き始めたばかりの緑の葉に覆われていた。

 わたしの背後から江口慎之介が「平子さん」と声をかけてきたのは、大学の敷地を出てすぐのことだった。

「なあに、江口くん? 何か用?」

 足を止めたわたしは、素っ気ない口調でそう言って、彼の顔を無造作に見上げた。

 江口慎之介は身長が百八十センチ以上あったから、百六十三センチのわたしはどうしても見上げるような形になってしまうのだ。

「平子さん……あの……実は、あの……平子さんに言いたいことがあって……」

 わたしを見下ろした江口慎之介が、おずおずとした口調で言った。お喋りで快活で、どんなことでもずけずけと口にする彼が、そんなふうに話すのを聞くのは初めてだった。

 それまでわたしは、自分が面食いだと思ったことは一度もなかった。それにもかかわらず、あの時、すぐ目の前にある江口慎之介の顔を、わたしは『可愛い』と感じた。『美しい』とも思ったし、『綺麗だ』とも思った。それはまるで、少女漫画の世界から抜け出してきたかのようだった。

 あの日も彼の耳には、銀色のピアスが嵌められていた。首には銀色の太いネックレスが巻かれ、手の指ではいくつかのごつい指輪が光っていた。濃くて長い睫毛が、彼の目の下に大きな影を作っていた。

「わたしに言いたいこと? いったい、何なの?」

 わたしは彼の顔を見つめ、やはり素っ気ない口調で訊いた。

 立ち止まっているわたしたちの周りには、駅へと向かう学生たちがたくさん歩いていた。その中の何人かの女子学生たちが江口慎之介に眩しそうな視線を向けていた。文芸サークルのメンバーたちによると、江口慎之介の存在は学年や学部を超えて、女子学生たちのあいだで評判になっているということだった。

「あの……平子さん、あの……こんなところで立ち話もなんですから……あの……どこか近くの店にでも入りませんか?」

 やはり言いにくそうに江口慎之介が言った。

「わたしは忙しいのよ。江口くんとのんびりとお茶を飲んでる時間はないわ。わたしに言いたいことがあるんだったら、今、ここで、はっきりと言って」

 命令でもするかのような口調でわたしは言った。思い返してみれば、彼とふたりきりで話をしたのはあの時が初めてだった。

「そうですか? だったら、あの……ここで言っちゃいますけど……」

 おずおずとした口調でそう言うと、いたずらを見つかった子供のように彼が辺りを素早く見まわした。「あの……平子さん、あの……僕と付き合ってくれませんか」

 わたしは思わず絶句し、アイドルのような江口慎之介の顔をまじまじと見つめた。たった今耳に届いた言葉が、わたしをひどく驚かせたのだ。

「平子さん、聞こえましたか? あの……僕と付き合ってください。お願いします」

 黙っているわたしに向かって、江口慎之介が言葉を続けた。

「江口くん、ふざけるのはやめて」

 ようやく口を開いたわたしは、さらに強い口調でそう言った。

「ふざけてなんかいません」

「だったら、からかってるの? そうなんでしょ?」

 わたしは一段と語気を強めた。むらむらと怒りが広がり、今にも大声をあげてしまいそうだった。

 そう。あの時、わたしは、彼がからかっていると考えたのだ。わたしのようなモテない女が、彼のような美男子から告白されてどんな反応を示すのか、それを見ようとしているのだ、と。

「からかってなんかいません。僕は本気です。本気で平子さんに恋人になってもらいたいと思っているんです」

 少し大きな声で江口慎之介が言い、周りを歩いていた学生の何人かが驚いたような顔をしてこちらを見つめた。

「そんなこと、信じられないわ」

 できるだけ毅然とした口調で言った。だが、どういうわけか、あの時すでに、わたしは胸を高鳴らせていた。

「信じてください。僕は本気です」

 一段と力を込めて江口慎之介が言うと、その大きな目でわたしを真っすぐに見つめた。

「とにかく、あの……どこかお店に入りましょう。そこで話しましょう」

 わたしはそう言うと、彼の返事を待たずに歩き始めた。周りを歩いている学生たちの目から逃れるために、近くのコーヒーショップかファストフード店に行くつもりだった。

 江口慎之介は歩き出したわたしの後ろをついてきた。

 歩いているあいだずっと、脚が微かに震えていた。胸もドキドキしていた。それでも、わたしはやはり、自分がからかわれているのだと考え続けていた。

 あの日、わたしたちは駅のすぐ近くにあるコーヒーショップの喫煙スペースに入った。店は混んでいたけれど、ガラスの壁に囲まれた喫煙スペースのほうには客がほとんどいなかったからだ。

 湯気の立つコーヒーカップを前にして、江口慎之介はわたしに恋人になってほしいと強い口調で繰り返した。ハンサムな彼の顔には、これまでに見たことがないほど真剣な表情が浮かんでいた。

「江口くん、どうしていきなりそんなことを言い出したの?」

 自分に落ち着けと命じながら、平静を装ってわたしは訊いた。

「いきなりじゃありません。サークルに入って初めて見た時から、僕は平子さんが好きだったんです。あの時からずっと、平子さんの恋人になりたいと思っていたんです」

 向かいに座ったわたしの目を真っすぐに見つめて江口慎之介が言った。

「そんなこと、信じられないわ」

 桜の並木道を歩いていた時と、まったく同じセリフをわたしは繰り返した。

「信じてください。冗談でこんなことは言いません。だから、信じてください」

 縋るような目で、彼はわたしを見つめ続けていた。その表情はとても可愛らしかった。

「江口くんは、いったいわたしのどこが好きなの?」

 人目を気にして、わたしは小声で尋ねた。喫煙スペースにいた何人かが、こちらに視線を向けていたから。

「真面目で、正直そうで、しっかりとしているところです」

 ほとんど考える素振りも見せず、江口慎之介が即座に答えた。「それから、誰にでも公平で、お世辞を言ったりしないで、自分が思っていることをちゃんと言うところも好きです」

 その言葉はわたしには意外だった。それまでわたしは、彼はわたしの存在をまったく気にしていないと思っていたから。

 黙っているわたしに向かって、江口慎之介がさらに言葉を続けた。

「それに平子さんは、すごく優しくて、思いやりがあって、人を踏みつけにしたり、裏切ったり絶対にしない人なんだと思います。平子さんの書いた小説を読むと、それがはっきりとわかります」

 その言葉はまたしてもわたしを驚かせた。彼がわたしの小説を読んでいただけでなく、そんなことまで感じていたなんて、今の今まで考えたこともなかったのだ。

 わたしは無言で頷くと、目の前にあるカップに手を伸ばし、コーヒーを一口啜った。それから、彼の大きな目を真っすぐに見つめ、やはり周りの視線を気にして小声で言った。

「もし、あの……もし、江口くんが本気なんだとしても……本気でわたしを好きなんだとしても……でも、やっぱり、無理よ……江口くんと付き合うことはできないわ」

「何が無理なんですか? どうしてダメなんです? 平子さんは僕のことが嫌いですか?」

 テーブルに身を乗り出した彼が、まくし立てるかのように訊いた。

 その瞬間、喫煙スペースにいた客たちが、いっせいにこちらに視線を向けた。

「嫌いっていうわけじゃないけど……」

「だったら、どうしてダメなんですか?」

 身を乗り出したまま、彼がわたしをじっと見つめた。

「だって……江口くんとわたしとじゃあ、年が違いすぎるわ」

「年が違うって、ふたつしか違いませんよ。僕の母も父よりふたつ年上ですけど、すごく仲良くやっていますよ」

「でも、わたしは何日か前に誕生日がきて二十一歳になったけど、江口くんは三月の末に十八になったばかりでしょう? 江口くんとわたしは、ほとんど三つも違うのよ」

「ふたつだって、三つだって同じようなものじゃないですか?」

 彼がおかしそうに笑い、それにつられてわたしもつい笑ってしまった。「ついでだから言いますけど、僕の叔母は叔父より三つ年上です。でも、やっぱりすごく仲のいい夫婦ですよ」

「それって、江口くんの作り話じゃないの?」

「違います。僕はちゃらんぽらんな男ですけど、嘘だけは絶対に言わないんです」

 そう言って江口慎之介が笑い、わたしはまたつられて笑った。

 そして、今から八年と少し前のあの日、大学近くのコーヒーショップのガラスの壁に囲まれた喫煙スペースで、わたしは江口慎之介についに押し切られ、渋々といった顔をして彼との交際に同意した。

「いいわ。そんなに言うなら、付き合ってあげる」

 わたしがそう口にした瞬間、彼が左右の拳を胸の前で握り締めてガッツポーズを作った。そして、「やったーっ!」と大きな声を張り上げ、その場で小躍りをして喜んだ。

 あの時、わたしは困ったような表情を無理に作っていた。けれど、わたしの胸はかつてないほど激しく高鳴っていた。

第7回に続く

大石圭
1961年、東京生まれ。法政大学文学部卒。93年、『履き忘れたもう片方の靴』で第30回文藝賞佳作となる。他の著書に『アンダー・ユア・ベッド』『呪怨』『甘い鞭』等がある。
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