お茶目で可愛い年下の恋人…生まれて初めて異性を「好きだ」と感じ/ 大石圭『溺れる女』⑧

文芸・カルチャー

公開日:2019/9/14

――彼と出逢ってしまったのが、 悲劇のはじまり。 『アンダー・ユア・ベッド』『呪怨』『甘い鞭』の大石圭、最新作。 著者渾身の「イヤミス」ならぬ「イヤラブ」小説。

『溺れる女』(大石圭/KADOKAWA)

8

 わたしが江口慎之介との交際に同意した数日後に、わたしたちは渋谷の洒落たカフェで待ち合わせた。

 大学に通う時のわたしはいつも、トレーナーにジーパンというような飾り気のない格好をしていた。それでも、あの日は精一杯のお洒落のつもりで、踝までの丈のふわりとしたワンピースを身につけた。足元もいつものスニーカーではなく、踵の低いサンダルにした。

 化粧をしてみることも考えなくはなかった。けれど、結局、化粧はせずに出かけた。あの頃のわたしは、ファンデーションやアイシャドウどころか、リップルージュさえ持っていなかった。

 いっぽう、彼のほうは男性ファッション誌から抜け出てきたような格好をしていた。あの日も彼の耳にはピアスが嵌められていたし、女のようにほっそりとした指ではいくつかの派手な指輪が、襟元では華奢な革ひものネックレスが揺れていた。

 江口慎之介は長くて細い首の持ち主だった。すらりとした彼の体からは、柑橘系のオーデコロンの香りが仄かに漂っていた。

「僕たちは恋人になったんだから、これからは平子さんのことを奈々ちゃんって呼びたいんですけど……それでいいですか?」

 混雑するカフェのテーブルに向き合ってすぐに、彼がわたしを見つめてそう言った。ハンサムなその顔には、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。

 年下の男に、ちゃんづけで呼ばれることに、わたしはいくらか戸惑いを覚えた。それでも、「いいわよ」と言って笑ってみせた。

「いいんですね? それじゃあ、今から奈々ちゃんって呼びます。奈々ちゃんは年上だから、僕のことは慎之介って呼び捨てにしていいですよ」

 一方的に彼が言い、わたしはまた戸惑いながらも、「慎之介ね。わかった。そうするわ」と言って頷いた。

 テレビを持っていないわたしは、同い年の女子学生たちとさえ話が合わないことが多かった。そんなわたしに、三つ近くも年下の男となど話すことがあるのだろうかと、あの日のわたしは危惧していた。会話が続かず、気まずい時間が続くのではないだろうか、と。

 けれど、それは杞憂に終わった。ふたりでいるあいだずっと、慎之介が絶え間なく喋り続けていたからだ。

 そう。慎之介はとてもお喋りで、口を噤んでいるということができない男だった。

 慎之介と向き合っていると、わたしはいくつもの視線を感じた。もちろん、見られているのはわたしではなく慎之介だった。

 そのことにもわたしは戸惑った。そして、こちらに視線を向けている人たちは、わたしたちのことをどんな関係だと思っているのだろう、と考えた。

 恋人同士に見えるのだろうか? それとも、姉と弟にしか見えないのだろうか?

 あの日、わたしはそんなことばかり気にしていた。

 カフェで紅茶を飲んだあとは、慎之介の提案で、ふたりで代々木公園を散歩した。

 店を出てすぐに、慎之介がわたしの手を握った。そのことに、わたしはまたひどく戸惑った。それでも、彼の手を振り払おうとはしなかった。いつもひんやりとしているわたしの手とは対照的に、彼の手はたった今まで熱い湯に浸けていたのかと思うほどに温かかった。

 手を繋いで代々木公園を歩いているあいだも、慎之介は絶えず喋っていた。彼は何度となく、わたしと恋人になれて夢を見ているみたいだと言った。

「本当にそう思っているの?」

「思ってますよ。今が僕の人生で最高の時です」

 わたしの手を強く握り締めた慎之介が、満面の笑みを浮かべてわたしを見つめた。

 公園内を一時間ほど歩いたあとで、わたしたちはまた渋谷に戻った。そして、若者で賑わうアメリカンスタイルのレストランのテーブルに向き合って食事をした。

 慎之介は食欲が旺盛で、目の前の皿を次々と空にしていった。その食べっぷりは、本当に見事だった。あの頃はわたしもダイエットをしていなかったから、慎之介に負けないほどもりもりと食べた。

 カフェにいた時も、代々木公園を歩いているあいだも、アメリカンスタイルのレストランで食事をしている時も、わたしはあえてつまらなそうな顔をしていた。けれど、本当は彼といることを楽しんでいた。お茶目で人懐こい彼を、わたしは可愛いと思った。そして、生まれて初めて、本当に初めて……異性に対して『好きだ』という感情を抱いた。

 レストランで食事をしている時に、慎之介がわたしの眼鏡を馬鹿にした。「奈々ちゃんは、どうしてそんなに変てこりんな眼鏡をかけているんですか? 今どき、そんな眼鏡をかけてるのは、女を捨てたおばさんだけですよ」と。

 ほかの男がそんな言葉を口にしたら、わたしは間違いなく激怒するはずだった。少なくとも、その男とは二度と口を利かないはずだった。

 けれど、どういうわけか、慎之介に対しては怒りの感情が少しも湧いてこなかった。

「この眼鏡、そんなに変かしら?」

「変ですよ。ものすごく変です。奈々ちゃん、ちょっと、その変てこりんな眼鏡を外してみてください」

「でも、眼鏡を外すと何も見えないの」

「いいから、ちょっとだけ外してみてください」

 慎之介に言われて、わたしはおずおずと眼鏡を外した。

「思った通り、すごく綺麗だ。奈々ちゃん、眼鏡を外すとものすごく綺麗ですよ」

 慎之介が大きな声で言い、わたしはまたしてもひどく戸惑った。同時に、ときめくような気持ちも覚えた。

 容姿を褒められたのは、覚えている限りでは初めてだった。

「奈々ちゃんは綺麗になりたくないんですか?」

 ひとしきり、わたしの眼鏡を馬鹿にしたあとで慎之介が不思議そうに訊いた。

「どうしてそんなことを言うの?」

「女の人なら、綺麗になりたいのが普通だと思ってたから、ちょっと訊いてみたくて。奈々ちゃんはお化粧もお洒落もしないから」

「綺麗になりたくないわけじゃないけど……何ていうか……男に媚びるのは嫌なのよ」

「そんなつまらないことを考えてたんですか?」

「つまらないことかしら?」

「つまらないことです」

 慎之介が呆れたような顔をして笑い、わたしもぎこちなく笑った。

 あの日、カフェのお金もアメリカンスタイルのレストランの食事代も、「年上だから」と言って、わたしがすべて支払った。

「さっきのカフェも奢ってもらったから、ここは割り勘にしましょうよ」

 レジでわたしが支払いをしている時に、バッグから財布を取り出した慎之介が言った。

「いいのよ、気にしないで」

「でも……」

「本当にいいの。仕送りをもらったばかりで、今は懐が豊かなのよ」

 わたしは笑顔でそう言った。けれど、それは嘘だった。わたしの両親は必要最低限の仕送りしかしてくれなかったから、わたしの小遣いはいつも不足気味だった。

「そうですか。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます。ご馳走さまです」

 慎之介が申し訳なさそうに言った。甘えたようなその顔もまた、とても可愛らしかった。

 そう。あの日、慎之介は年上のわたしに、ずっと甘え続けていた。彼がわたしに甘えているのだということを、わたしははっきりと感じていた。

 女に甘えるような男を、わたしは好きではないはずだった。それでも、『奈々ちゃん』『奈々ちゃん』と彼が甘えてくるたびに、母性本能をくすぐられるような気がした。そして、自分にも母性本能などというものがあったのだということに、わたし自身が驚いていた。

続きは本書でお楽しみください

大石圭
1961年、東京生まれ。法政大学文学部卒。93年、『履き忘れたもう片方の靴』で第30回文藝賞佳作となる。他の著書に『アンダー・ユア・ベッド』『呪怨』『甘い鞭』等がある。
Twitter:@ObpcVsDh4d1y9Y6