ラブホで連れ去られた奈々未が全裸にされ連れてこられた場所は…/ 松岡圭祐『高校事変 II』⑧

文芸・カルチャー

公開日:2019/9/14

超ベストセラー作家が放つバイオレンス文学シリーズ第2弾! 新たな場所で高校生活を送るダークヒロイン・優莉結衣が日本社会の「闇」と再び対峙する…!

『高校事変 II』(松岡圭祐/KADOKAWA)

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 奈々未の意識は朦朧としていた。ラブホの部屋で手足を縛られ、旅行用トランクに押しこめられた、そこまでは記憶に残っている。身体を無理に丸めた状態のまま、暗闇のなか乱暴な運搬に耐えた。息苦しさのせいで失神しかけては、強い衝撃を受けるたび、現実に引き戻された。まだ死んでいない、その事実に涙がこぼれた。嬉しさなどかけらもない、ただ辛く悲しかった。生をつなぎとめることは、いまとなっては苦痛でしかない。

 またぼんやりと知覚が戻りつつある。トランクからは解放されていた。けれども依然として身体の自由はきかない。両手首は後ろ手に縛られたままだ。両足首もやはり固定されている。ずっと全裸だった。硬く冷たい床に這い、声を発する自由もない。嘔吐感は依然としておさまらないが、口をガムテープでふさがれ、吐くことさえ許されない。

 ひどく寒かった。タイル張りの床にはうっすらと霜が積もっている。奈々未はわずかに頭を起こした。蛍光灯の明かりの下、大きな冷凍食肉が、滑車からぶらさがっている。ひとつやふたつではなかった。窓は見あたらない。一年のとき、現代社会の教科書でこんな写真を目にした。ここは肉保管庫か。

 工場然とした機器やテーブルの類いは、ステンレスで統一されていた。肉の解体加工のための作業ラインに思える。ただし奈々未のほかにひとけはなく、機械類もいっさい稼働していない。

 目の前の床に、鮮血がひろがっているのに気づき、思わずすくみあがった。ほどなく自分の鼻血だとわかった。まだ出血がとまっていない。かなり時間が経ったように感じたものの、じつはそれほどでもないのか。

 きしむような音がきこえた。鉄製のドアが開いたらしい。ひとりの靴音がゆっくりと近づいてくる。

 視界に入ってきたのは白の割烹着だった。体型はやせていて、頭にビニール製のギャザーキャップをかぶり、マスクで口もとを覆っている。猫背の前屈姿勢で歩いてきた。露出した目は、最後に見た忌まわしい記憶と一致した。タカダだ。

「起きてるか」タカダがくぐもった声を響かせた。「クソ女」

 奈々未は呻くことすらできなかった。恐怖に全身が凍りつき、ただ震えるしかない。

 タカダは奈々未を見下ろしていった。「おまえら、世間をなめてるだろ。男を誘惑しといて、裸になってよがってみせりゃ、金を稼ぎほうだいか。好きなだけ遊び呆けて贅沢して、身勝手なもんだな。女子高生のぶんざいで」

 ちがう。誤解だと奈々未は思った。小遣いほしさに売春に手をだす同世代もたしかにいるが、全体からすればごく少数だ。店で出会った子はみな貧困にあえいでいた。奈々未と同じく、生活費を工面しようと藁にもすがる思いでさまよううち、こんな世界と結びついてしまった。自業自得だと誰もが責めるだろう。無知だったと痛感する。愚かさを悔いなかった日はない。それでもほかに方法がなかった。意思の弱さばかりを露呈し、大人の男たちの圧力に屈した。気づけば戻れない道を歩んでいた。

 タカダが身をかがめ、テーブルの下の収納扉を開けた。「いい気なもんだな。ノースリーブや短いスカートで肌をさらしときゃ、自然に男どもが吸い寄せられてくるんだからな。セックスするだけで大金が転がりこむ。薄汚いオヤジの身体に舌を這わせて、ハメられときながら、ふだんは贅沢三昧かよ。公害だな。街歩いてるおまえらは公害。環境改善にとり組まないとな」

 収納からひっぱりだされたのは、透明なゴミ袋だった。黒ずんだ液体のなかに生ゴミが浮いている。

 だがふいに奈々未のなかを衝撃が駆け抜けた。袋の内部に黒髪が見える。人の顔があった。奈々未と変わらない年齢の少女に思えた。目を剥いたままだ。首が切断されていた。指先を丸めた手や、大腿部からひきちぎられたような脚も存在する。ほかにどの部位かも不明な肉片が、累々と液体に浮かびながら混ざりあっていた。

 たちまち奈々未の視界に涙が滲みだした。口のなかには胃液があふれる。それでもなお悲鳴を発することさえ不可能だった。

 タカダはゴミ袋を床に放りだした。「いつも最後に解体したやつを保管しとく。きょうおまえが入荷した。だから前のは処分しなきゃ」

 引き出しを開け、四角い肉切り包丁がとりだされる。タカダはそれを水平方向に振りながら、奈々未に歩み寄ってきた。

 奈々未は必死で身をよじり、わずかでも逃れようとした。床を這いずる奈々未を見下ろし、タカダが鼻を鳴らした。

 近くにしゃがむと、タカダは包丁の刃を奈々未の肌に這わせた。冷たい金属の切っ先が触れたとたん、電気が走ったも同然に身体が痙攣した。タカダは低く笑い声を発しながら、刃でそっと奈々未の腰のくびれをなぞった。奈々未は思わずのけぞった。

 わずかでもタカダが力をこめれば切り裂かれてしまう。奈々未は怯えきっていた。肩を震わせて泣くしかなかった。タカダが包丁を振りかぶった。奈々未は甲高い自分の呻き声をきいた。逃れられない、そんな絶望だけが支配した。

 ところがタカダは、包丁を宙に留めたままつぶやいた。「まだ生っぽいな。もうちょっと凍ってからじゃないと切りづらい。いっぱしに体温があるのがいけねえ。脈拍を弱らせないと」

 タカダが立ちあがった。黙って奈々未を見下ろすと、腹を蹴りこんだ。奈々未は身体を曲げ、ふさがれた口のなかで嘔吐した。タカダはタップダンサーを気どるように、靴底を床に打ち鳴らしてから、ふたたび奈々未の腹を蹴った。身を翻し、包丁を高々とあげ歓声を発すると、振り向きざまにまたも蹴ってきた。

 靴の爪先は同じ場所に繰りかえしめりこんだ。また鼻血があふれだし、喉を詰まらせる。奈々未は激しく咳きこんだ。さっきは意識が遠ざかっていったのに、いまはいっこうにそうならない。寒さのせいか、かえって覚醒状態が保たれる。死ぬほどの苦しみから離脱できない。

 やがてタカダは満足げに、白い息を弾ませながらいった。「切断面から血が噴きだすのはごめんだ、掃除が大変だしな。半固形にどろっとこぼれるぐらいがちょうどいい。あとちょっとだな。肌のいろが青白く熟してきたらきざんでやる。気道から空気が抜ける音も、そのころなら笛みたいにきれいでよ」

 地獄はまだつづくのか。耐えきれない。こぼれた涙が凍てつくたび、頬を針で刺されたような、鋭い痛みが生じる。

 タカダは奈々未の全身を眺めまわすと、踵をかえした。ゴミ袋を片手で持ちあげ、無造作に揺らしながら歩き去っていく。

 蛍光灯が消え、室内は真っ暗になった。ドアの開閉する音がきこえる。静寂の到来が恐ろしくてたまらない。悪魔か死に神の息づかいが耳に届くようだ。

 鈍重な痛みが腹部から全身にひろがる。理恵。奈々未は心のなかでつぶやいた。

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松岡圭祐
1968年愛知県生まれ。97年に『催眠』で作家デビュー。代表作「万能鑑定士Q」シリーズは累計450万部を突破。他の作品に「千里眼」「探偵の探偵」各シリーズ、『ジェームズ・ボンドは来ない』『ミッキーマウスの憂鬱』など多数。
写真=森山将人