綱渡りのスケジュール、急な仕様変更……残業せずにホテルは建つのか?『残業禁止』①

文芸・カルチャー

2019/10/30

  

 残業はするな、納期は延ばすな――成瀬課長の明日はどっちだ!? 成瀬和正、46歳。準大手ゼネコンの工事部担当課長。ホテル建設現場を取り仕切る成瀬の元に、残業時間上限規制の指示が舞い込む。綱渡りのスケジュール、急な仕様変更……残業せずに、ホテルは建つのか?

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 朝の冷え込みが強く残るまだ八時きっかり、鉄柱の天辺のスピーカーから割れた音でラジオ体操の音楽が流れ出した。

 地下から地上へ建ち上がりつつある軀体と、プレハブ棟のあいだの広場に集まった百人近い職人たち、そして現場監督たちが音楽に合わせて身体を動かす。

「腕を身体の前で交差させて、元気よく! イチ、ニッ、イチ、ニッ」

 もっとも全員が一心不乱にといかないのはやむを得ない。ここ「チェリーホテル・横浜ベイサイド」新築工事現場の責任者たる成瀬和正も、立場上おざなりさを見せこそしなかったが、頭の中ではこの時間に少しでも作業をしたほうがいいんだがなあ、などと思っている。

 体操が終わると、職人たちは鳶、鉄筋工、型枠大工といった職種ごとに整列した。赤いヘルメットをかぶって先頭に立っているのが職長である。

 トランスメガホンを手にその前へ進んだのは朝礼当番に当たっている砂場良智だった。現場監督の中で一番若い。

「みなさん、おはようございます!」

 声を張り上げ、砂場は今日の作業内容や注意事項を説明してゆく。

「二階の柱建て込みが始まります。鉄筋がE工区の壁、型枠はB工区で柱ですね。九時に鉄骨が来ますから通路を空けて下さい。十時までそれ以外の搬入は禁止です。搬入関連で、いつも言ってることですが念のため。誘導員を必ずつけて下さい! 接触等、絶対ないようにお願いします」

 こちらも、特に後ろのほうの職人はあまり聴いていない。空を見上げたり下を向いたり、早く終われと思っているのが手に取るように分かる。

 砂場の話が済むと、職人たちは二人一組になって、「ヘルメット、あご紐よし」「作業服、破れなし」「安全帯よし」

「安全靴よし」と互いの装備をチェックする。最後は全員で「ご安全に!」の唱和が決まり事だ。大半はもぐもぐ口を動かしているだけだけれども。

 職人たちにとって本当に意味があるのは、全体朝礼のあと職種ごとに開かれるミーティングである。そこで職長や担当の現場監督から作業の細かい段取りを聞く時、彼らの表情は掛け値なしに真剣だ。必要ならメモさえとって、それぞれの持ち場に散ってゆく。

 成瀬はいつものように、現場全体を小一時間かけてざっと見回ってからプレハブ二階の事務所に戻った。

 パート事務員の近藤治美がコーヒーを出してくれた。二十世紀的かもしれないけれど、今のところ近藤本人を含め、誰からも苦情は来ていないから大丈夫と思っている。パソコンを立ち上げてメールに目を通し始める。部下たちはまだ外だ。作業に立ち会っているのだろう。

 成瀬以下の現場監督は、工事を受注した元請けゼネコン、ヤマジュウ建設の社員である。

 ゼネコンに自前の職人はおらず、実際の作業は専門職種ごとに分かれたサブコンが行う。かつては「下請け」と呼ばれ、このごろ「協力会社」に変わったけれども中身は同じで、場合によってはサブコンからさらに小規模な会社に分割した仕事が回される。職種も細かく分ければ両手で足りない。つまり現場には、多数の組織に属する人間が入り乱れる。

 そんな職人たちを動かして工事を進める、「施工管理」を担うのが現場監督だ。大学で建築や土木を学んだ者が大半だが、指示を出しておしまいではない。自らヘルメットをかぶって現場を周り、指示通りに作業が行われているか目を光らせる。

 現場事務所長の成瀬はそのトップということになる。地上十五階地下二階建てのチェリーホテル・横浜ベイサイドは、総工費も二十億円超えとヤマジュウでは最高クラスだが、そう変わらない規模の工事ですでに所長を経験している。今年四十六歳、ゼネコンの技術者として脂が乗り切った時期といっていいだろう。

 鉄筋屋のイワキコーポレーションから先月分の出来高請求書が上がってきていた。成瀬は今見てきた現場の状況を思い返しつつ施工報告書と照らし合わせた。

「これ頼む」

 問題なしと判断して近藤に支払いを指示する。所長の仕事の多くは金に関することである。協力会社への支払いだけでなく、当然資材を仕入れなければならないし、クレーンなど建機のレンタルも相当な額になる。工法、手順の無駄を省き、利益を確保するのが腕の見せ所だ。

 幸いなことに、金勘定のベースになる請負額は数字が見込める状況が続いている。

 リーマンショック直後はひどいものだった。新築はおろか改修も目を覆うほど発注が減り、たまにあってもライバルゼネコンとの叩き合いになった。「これでどうやったら赤字出さずに済むんだよ」と、叫びたくなる契約ばかりだったのだ。

 変わったのはやはり五、六年前からだろう。デフレは解消していないらしいし、生活が豊かになったとも思わないが、仕事に関しては間違いなく活気づいた。

 特に東京オリンピックの開催が決まってからは、大型案件がぼんぼん出てきた。伝説の「バブル景気」を彷彿させるなんて、年寄り連中が懐かしそうに話している。

 とはいえ何もかもうまくいっているわけではない。一番の問題は騒がれている通りの人手不足だろう。

 危険、キツイ、汚いの3K仕事に進んで入ってくる若者など、とっくに絶滅危惧種である。新規供給がないから数は減り高齢化も進む。そこに仕事が殺到すればどうなるかは明らかだ。

 それでも職人の不足には光も見える。外国人労働者の本格的な受け入れに政府が舵を切ったからだ。比べてどうなりそうにもないのがこちらだ――。

<第2回に続く>