“救いを求める高校生”のリストに“彼女”の名が…/ 松岡圭祐『高校事変 Ⅲ』①

文芸・カルチャー

2019/11/12

超ベストセラー作家が放つバイオレンス文学シリーズ第3弾! 前代未聞のダークヒロイン・優莉結衣が、シリーズ最強の敵、戦闘能力の高い元・軍人たちを相手に大活躍する…!?

『高校事変III』(松岡圭祐/KADOKAWA)

学校で習ったすべてを忘却してもなお残るもの それが教育である

――アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)

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 善意であっても受けいれてもらえない。そんなときはただ、己れの無力さを痛感せざるをえない。

 五十九歳になる精神科医兼脳神経外科医、角間良治は自宅の書斎で、肘掛け椅子におさまっていた。窓にうっすらと映りこむ自分の姿を眺める。白髪を黒く染めても、すぐに生えぎわから元のいろが戻ってくる。いつしか皺の数も増えていた。老眼鏡が鼻先にずりおちると、それだけ眼球が拡大される。まるでぎょろ目も同然に見えた。

 眼鏡を外し、焦点を遠くに合わせる。朝方から雪がちらついていた。ランドセルを背負った男の子がふたり、はしゃぎながら駆けていく。小児発達学や小児精神神経学に勤しんできたせいか、子供たちの行動はいつも気になる。

 書斎に妻の香奈恵が入ってきた。香奈恵が運んできた盆には、いつものようにコーヒーカップが据えてあった。立ちのぼる白い湯気の向こう、同じように歳を重ねてきた香奈恵の顔がある。

 香奈恵は外出の予定がなくとも、朝から身だしなみをきちんとしている。けさは和柄のワンピースをまとっていた。コーヒーカップをデスクに置き、静かに告げてきた。「どうぞ」

「ありがとう」良治は軽く目もとを押さえた。「なあ、おぼえてるか。献志中央病院の研修医だったころを」

「もちろん」香奈恵が微笑した。「三十年近く前でも、良治さんと出会った病院なんだし」

 当時、香奈恵は看護師を務めていた。ただしいまは懐かしい思い出話を口にしたいわけではない。むしろ辛い記憶ばかりが想起される。

 良治は香奈恵を見上げた。「救命救急センターで当直をしていたら、小さな女の子が運ばれてきた。たしか四歳だった」

「ああ。あの子」香奈恵が表情を曇らせた。「かわいそうだったね」

「応援にきてた医長も絶句してた。それぐらいひどいありさまだった。児童虐待が身近にあると、初めて思い知らされた」

 顔も腕も火傷だらけで、皮膚が爛れていた。タバコの火を押しつけられたにちがいない。頭蓋内出血の原因も打撲、すなわち殴打されたとみなすべきだった。

 毎日のように負傷者をまのあたりにする立場であっても、あの幼女の惨状には耐えがたいものがあった。なんとかして回復させようと、集中治療室の全員が手を尽くした。しかし努力は報われなかった。わずか数時間ののち、幼女の命は失われた。

 疲れきって廊下にでると、香奈恵が両手で顔を覆っていた。肩を震わせ泣きつづけた。

 良治はいった。「なんてひどい親だと思った。いまもあのときの気分のままだ。うちに子供がいないせいかもしれないな」

「また問題のある子の家をまわるの?」

 夫婦になって長い。良治の憂鬱を、香奈恵はとっくに察しているようだ。

「ああ」良治はうなずいた。「きょうからだよ。子供といっても、ちょっと大きめだ。十六歳から十八歳。高校生が対象でね」

「救いを求めてる子供たちにとって、ひそかにまちわびた日かも」

「歓迎されるとは思えない。矯正施設に連れだされるとわかったら、誰もが反発する」

「そうかしら」

「訪問対象は親が突き放したがっている子ばかりだ」

 不登校、引きこもり、教師への反抗。校則違反の常習、家出の常習、幾多の補導歴。疲弊しきった親が、NPO法人〝健康育児連絡会〟に相談する。健康育児連絡会は、厚生労働省の後援を受け、学校法人塚越学園へ未成年者を推薦する権限を持つ。

 塚越学園は厚労省と文部科学省が共同設立した、問題児の矯正施設だ。全寮制で、通常の学校と同じく授業がおこなわれ、出席日数と成績により単位が認められる。まじめに取り組めば、卒業が遅れることもない。

 角間良治は健康育児連絡会の特別顧問を務めている。塚越学園の学園長にも就任して久しい。組織は大きくともワンマン体制のせいで、みずから動かねばならないケースが多かった。けさのスケジュールもそれに該当する。

 良治はため息をついた。「家庭訪問はいつも気が重いよ」

 香奈恵が穏やかにささやいた。「世のなかから不幸な子をなくすためでしょ?」

 そのとおりだった。訪問先の少年少女から疎ましがられようと、職務を果たす必要がある。この新たな試みにより、虐待に苦しむ子はいなくなる。

 物理的に暴力を振るう親ばかりではない、世には育児放棄という、発覚しづらい児童虐待もある。そんな劣悪な家庭環境のいっさいから、不幸な子供を救える時代がくる。四歳の幼女の死に直面して以来、わき目もふらず一心不乱に努力してきた。自分のほかに誰がなしうるというのか。

 コーヒーをひと口すすった。ほのかな苦みとともに、熱い液体が胃のなかにひろがっていく。子が親の犠牲になる世のなかであってはならない。

「さて」良治はコーヒーカップを置き、椅子から立ちあがった。「でかけるとするか」

 香奈恵が壁のハンガーからジャケットをとった。「がんばって。親御さんたちも理解してくれるはず」

「そう願うよ。保護者がきみと同じぐらい寛容だといいんだが」

「ねえ。きのう来てた萩巣さんって人だけど……」

「彼は教員として優秀な人だったんだよ。いちどや二度のつまずきで、仕事のチャンスを棒に振ったんじゃ気の毒だ」

 玄関のチャイムが鳴った。香奈恵が笑顔で戸口に向かった。「たぶん倉橋さんよ」

「いつも時間どおりだな」良治はジャケットを着こみ、襟もとを正した。

 良治は香奈恵につづき書斎をでた。階段を下りていくと、吹き抜けのリビングがひろがる。医療機器や薬の広告に名を貸すだけで、多額のギャラを得られる立場だ。ソファはダークパープルのベルベットで、ウィスタリアの壁と美しく調和している。

 マガジンラックには数年前の医学誌が、何冊も並べてあった。いずれも角間良治が表紙を飾っている。未成年者にまつわる諸問題への対処を、厚労省と文科省から一任された専門家、マスコミはひところそんなふうにもてはやした。当時はインタビュー攻めにあったものだった。世間が関心を失っても、責務はなくならない。人知れず努力は継続される。命を賭ける価値すらある取り組みだ。

 一冊の表紙は隅に『児童虐待の今後 磯部宏和医師にきく』とある。表紙に大写しになっているのは角間でも、中身は磯部医師に関する記事が多くを占める。彼は児童相談所の対応マニュアルの整備に貢献してきた。厚労省からの信頼も篤い。角間がいなければ、磯部こそ第一人者と目されていたかもしれない。

 磯部医師とは面識がない。彼の方法論は保守的すぎるようにも思う。進展がやや遅い。児童に対しては書類上でなく、当人と向きあわねばならない。

 テレビがつけっぱなしになっていた。朝のニュースが映っている。キャスターが告げた。「一か月前、練馬区で発生した指定暴力団牛頭組の集団殺人事件で、警視庁は牛頭組と傘下の佐座一家とのあいだに抗争があったとする見解をしめしました。佐座一家の事務所内で四十二名が殺害されたのち、近隣の工場付近で爆発により牛頭組の構成員五十一名が死亡。ほかの勢力が関与した物証もなく、内部分裂とみなさざるをえないと……」

 鑑識の青いユニフォームが、戦場のような焼け跡を捜索している。先月の映像だった。良治は複雑な気分になった。武蔵小杉高校事変といい、牛頭組事件といい、物騒なできごとがつづいている。川崎市多摩区登戸の通り魔、京都のむごたらしい放火。治安は急速に悪化していた。

 玄関先から香奈恵の陽気な声がきこえる。「おはようございます、倉橋さん。いつもご苦労さまです」

 良治は玄関へと向かった。戸口に立つスーツ姿の四十代が頭をさげた。髪をきちんと七三に分けた中肉中背、人あたりのよさそうな丸顔。健康育児連絡会で理事を務める倉橋重久だった。

 長いつきあいだが、じきに仕事がひと段落したら、お別れとならざるをえない。残念なことだと良治は思った。倉橋は親切で有能、いつも労を惜しまず献身的に働いてくれる。

 倉橋が笑顔でいった。「おはようございます」

「朝から元気だね」良治は苦笑しながら、片足を革靴に滑りこませた。香奈恵の差しだす靴べらを受けとり、踵をおさめる。「高校生との面談は、倉橋さんに一任したくなる」

「引き受けますよ。あ、いえ」倉橋が表情をこわばらせた。「一名を除いては」

「なんだ? 一名とはどういう意味かね」

「きょう訪問予定の名簿です」倉橋はあわただしくブリーフケースを開け、書類の束をとりだした。「いつもどおり保護者の相談があったなかから、健全な教育が急がれる高校生を選んでます」

 良治は妙に思いながら書類を受けとった。全員で十名前後か。

 最初の写真が目に入った。あどけない童顔の少年だった。桐谷陽翔、十七歳、高二。髪を長く伸ばし、体型もほっそりしている。女子生徒といわれても違和感がないほどだった。年齢よりずっと子供の印象を漂わせる。思春期に顕著なぴりぴりした空気を、いっさいまとっていない。不登校や引きこもりに多く見られる面持ちだ、良治はそう思った。年齢相応の緊張感に揉まれていないがゆえ、こんな幼さを醸しだす。

 次の書類には女子の写真が貼られていた。校則違反にちがいない、緩い巻き髪に縁どられた、色白の顔が写っていた。大きな目が猫のように吊りあがっている。明宮紗奈、やはり十七歳で高二。一般家出人としての行方不明者届が四回だされている、備考欄にそう記してあった。

 ほかにも顔写真いりの書類が連なっている。良治は紙をめくりながら倉橋を見た。倉橋は、それですよというように顎をしゃくった。

 ふたたび書類を眺めたとき、思わず驚きの声が口を衝いてでた。「優莉結衣?」

第2回に続く