羅貫中がまとめた『三国志演義』を、ブラッシュアップしておもしろくした毛綸・毛宗父子/三国志-研究家の知られざる狂熱-⑥

文芸・カルチャー

公開日:2020/4/30

「劉備が諸葛亮に遺した遺言が、しっくりこない!」。三国志の研究家は、何を「問題」と考え、何を「研究」しているのか? 120以上の論文を書き上げた第一人者が、その知られざる“裏側”と“狂熱”を徹底解説。

『三国志-研究家の知られざる狂熱-』(渡邉義浩/ワニブックス)

『三国志演義』の成立

 元代の『三国志平話(へいわ)』などの三国物語をもとに、『三国志演義』をまとめた羅貫中は、元末・明初の戯曲・小説作家とされます。ただし、その経歴はほとんど不明で、知られているのは、太原(たいげん)(山西省太原市)の出身で、湖海散人(こかいさんじん)と号したという程度のことです。

 このころは、まだ文筆では生計が成り立ちません。羅貫中にはパトロンがおり、それが同郷の山西商人だったのではないでしょうか。それゆえ、山西商人の守護神として信仰されていた関羽(関聖帝君(かんせいていくん))が特別扱いを受けているのです。

 羅貫中の原作は、最初は抄本(しょうほん)(写本、手書き本)として広まったようです。すでに散逸して序文だけが残る、弘治(こうじ)七(一四九四)年の抄本が、原作に近いと推測されています。こうした抄本をもとに、嘉靖(かせい)元(一五二二)年に『三国志演義』の刊本(かんぽん)(印刷本)が出版されます。『三国志通俗演義(つうぞくえんぎ)』という正式名称を持つ、いわゆる「嘉靖本」です。

 嘉靖本の序文には、『三国志平話』などの「評話(ひょうわ)」は、誤りが多いので、陳寿の『三国志』を中心に事実を描くが、それほど難しくないものとして普及を願った、とあります。『三国志通俗演義』は、難しい「三国志」の「通俗」性を高めて普及をはかり、「義」を「演」繹(えき)、押し広めるために書かれたのです。

「義」は、儒教経典の『春秋(しゅんじゅう)』に示された義(行動規範)であり、朱子が『資治通鑑綱目(しじつがんこうもく)』で示した毀誉褒貶(きよほうへん)を判断して勧善懲悪を行うための基準でもありました。曹操が悪玉、劉備は善玉と明確に分けられる理由です。

 道徳と歴史の立場から小説の社会的・通俗的効用が説かれる背景には、識字層の拡大と儒教の浸透があります。本を読む人が増え、かれらが朱子学に基づき蜀漢の正統を支持したので、『三国志演義』が需要に応えたのです。

 このころから小説も大量印刷されるようになり、多くの版元による出版競争が始まります。その結果、さまざまな内容を持つ、多くの種類の『三国志演義』が出版されました。神として信仰される関羽の死を描かない版本、「三国志」と無関係な花関索(かかんさく)を含む版本、関羽の三男関索の説話を含む版本なども出版されていきます。

 清(しん)代に毛綸(もうりん)・毛宗崗父子がまとめた毛宗崗本は、嘉靖本の流れを汲む李卓吾本を底本としたうえで、多くの書き換えと評の追加を行いました。これが現代の中国で読まれている『三国志演義』の決定版です。

人物像を一貫させた毛宗崗本

 毛宗崗本の成立は、清の康熙(こうき)五(一六六六)年以降とされます。毛宗崗本は、李卓吾本の記事や文章の誤りを正し、不合理な記事を削除し、三国の物語を新たに挿入し、自らの批評を加え、物語の首尾一貫を整えて、『三国志演義』の面目を一新しました。

 仙石知子『毛宗崗批評「三国志演義」の研究』(汲古書院、二〇一七年)によれば、毛宗崗本の特徴は、人物像を一貫させたうえで、「義絶」の関羽、「智絶」の諸葛亮、「奸絶」の曹操という「三絶」を物語の中核に据えているところにあります。

 主人公である劉備を「仁」の人として物語の中心に置き、聖人君子とすれば、対置する「奸絶」曹操が際立ちます。同時に、「義絶」関羽・「智絶」諸葛亮の活躍も描くのです。「三絶」それぞれの役割を定め、とりわけ「義絶」関羽は、忠義に加えて利他の義・男女の義など、さまざまな「義」を体現している特別な存在として描かれています。

 毛宗崗本には、細部に至るまで綿密な表現をめぐらし、社会通念を利用することで叙述に説得力を持たせる、という特徴もあります。諸葛亮に代表される漢への忠義は、貂蝉などの女性の表現に至るまで行き届いています。

 あるいは、曹操を異姓養子の子と批判しながらも、史実の劉備が異姓養子の劉封を迎えていることについて、社会通念を背景としつつ、李卓吾本よりも劉封を貶める表現を用いて説明を加えています。

 仙石の分析によれば、毛宗崗本は、仁・義・智・孝・忠など朱子学の規範を根底に置きながらも、その時代を生きた知識人層と商人の上層部が共感する時代風潮を表現しています。さらに朱子学が社会に受容されていくときに生じる柔軟な解釈や、朱子学だけでは埋まらない信仰などへの共感が、毛宗崗本を決定版へと押し上げたのです。

 また、毛宗崗本は、史実を重視して荒唐無稽な記述や史詩の一部を削除しました。たとえば、李卓吾本が受容された日本には伝わる、次のような「漢寿亭侯(かんじゅていこう)」の物語は削除されています。

 関羽は、曹操のもとで功績を立て、寿亭侯に封じられましたが喜びません。それを聞いた曹操は、「漢」の文字を追加して、漢寿亭侯とします。関羽は、曹操が自分をよく理解してくれていると喜んだ、という話です。関羽の漢への忠節と曹操の関羽理解を表現した良い虚構だと思います。

 ところが史実では、関羽は「漢寿」という土地に封建された「亭侯」なので、漢の文字を後から足したという物語は史実に反しています。そのために削除されたのです。ただし、毛宗崗本がすべての虚構を廃したわけではありません。

 わたしには、物語を史実に近づけた毛宗崗本のほうがしっくりきます。ほかの「四大奇書」の壮大な虚構が鼻についたように、虚構よりも事実に、文学よりも史学に興味関心があるからです。

続きは本書でお楽しみください。