【古市憲寿氏が描くロマンチックBLを試し読み】異国の地で冴えない生活を送るヤマト。思い出すのは彼女への憎しみばかり/アスク・ミー・ホワイ①

文芸・カルチャー

公開日:2020/10/25

写真週刊誌のスキャンダル報道によって芸能界から姿を消した元俳優・港颯真。冴えない毎日を送る一般人・ヤマト。アムステルダムの地で偶然出会った二人の関係は、交流を重ねるうちに変化していく――。辛口社会学者・古市憲寿氏が描く、ロマンチックBLストーリーをお送りします。

アスク・ミー・ホワイ
『アスク・ミー・ホワイ』(古市憲寿/マガジンハウス)

 ニュースにはいつも続きがない。

 悪質タックルをしたアメフト選手はどうなったのか。元号が代わる前に見せしめのように処刑された元教祖の遺骨は誰の手に渡ったのか。引退した国民的歌手はどのような生活を送っているのか。異性と握手したという罪で鞭打ち刑を宣告されたイランの詩人はどうなったのか。異性と握手しないという理由で、スイスで国籍取得が認められなかったイスラム教徒はどうなったのか。

 もちろん本気で調べれば何かわかることもあるのだろうけど、ほとんどのニュースは第一報ばかりが、やたらスキャンダラスに伝えられる。だけどマスコミや世間は、すぐに新しい事件に目を奪われ、一つ前の事件を忘れていく。

 港くんのことも、多くの人はこの文章を読むまで忘れていたんじゃないかと思う。

 彼はただの脇が甘い人間だったのか。加害者だったのか被害者だったのか。

 きっと、そんなこともどうでもいいのだろう。

 そういえば、そんなニュースもあったね。そう言ってほんの少しだけ彼のことを思い出したら、きっとまた新しい事件を話題にする。それも別にいい。僕だって、ほとんどの出来事に関してはそうだから。

 だけど、どうしても港くんについてはこうして文章を書き残しておきたかった。だって、もしも世界のどこかで誤解を解いてくれる人が、たった一人でも増えるなら、それは意味のあることだと思うから。彼が遠く離れてしまった今だから、なおさらそう思う。

 誤解。そう、それはこれから僕の伝える物語のキーワードだ。

 もちろん、僕が何一つの誤解なく彼のことを理解できているとは思っていない。そんなことは絶対に無理だから。

 だからせめて、たくさんの港くんを思い出しておきたい。よみがえる彼の言葉はどれも優しくて、いつも僕の背中を押してくれる。

「悪い予感ばかりが当たるのは、そもそも未来に期待してないからだよ。本当に小さくてもいいから、いいことばかりを思い浮かべてみなよ」。彼に言われた通り、すぐにでも起こって欲しい出来事を心の中でつぶやいてみる。

 君が隣にいないことはとても寂しいけれど、今日も何とかやっていけそうだよ。港くん、君に出会えて本当によかった。心からそう思う。

2月28日

 初めて港くんと会ったのは、シベリアから五年ぶりの大寒波が到来した日だった。BBCのウェブサイトを見ると、アムステルダム市内はマイナス6度まで気温が下がり、体感気温はマイナス13度と予報されていたことを覚えている。

 その日、僕が起きたのは昼過ぎだった。遅番の翌日は、午前中に起きられたためしがない。何か食べようと共用のキッチンへ行き、冷蔵庫を空けると、自分で買った食材がカリフラワーと、作り置きのクリームチーズペーストくらいしかないことに気が付く。お金に余裕があるならUber Eatsでも利用するところだが、もっと割のいい仕事が見つかるまでは節約を続けたい。

 しかもフリーランスビザの更新のために、来週には移民局に対して355ユーロを払わなくてはならないのだ。空き時間にUber Eatsの配達員でも始めるべきだろうか。そんなことを寝起きの頭で考えていた。

 食器入れからまな板を取り出し、カリフラワーを1㎝幅の薄切りにする。これくらいはばれないだろうと、誰かのレモンを拝借し、水気を拭き取ったあと、ゼスターで皮を削った。フライパンを中火にかけ、共用のオリーブオイルを入れる。フライパンが温まったら、そのままカリフラワーを加えて、蓋をする。カリフラワーは火の通りが早いので、下ゆでが必要ないと教えてくれたのはサクラだった。

 あのときの僕はまだ、自分が料理を仕事にするなんて思っていなかった。彼女の顔が思い浮かびそうになって、あわてて意識をカリフラワーに集中させる。ほどなく香ばしい匂いがしてきたので、蓋を外してもう片面も焼いてしまう。塩とこしょうをふりかけ、皿に盛り付けた後、さっき削っておいたレモンの皮を散らした。

 もう一度冷蔵庫を開けて、「ヤマト」とマジックで書かれたクリームチーズペーストを取り出す。初めは「YAMATO」だったけれど、日本語のほうが間違われにくいと気付いてからそうしている。先週作ったばかりなのだが、もうほとんど残りがない。

 今日はせっかくの休みだから、ペーストやオイル漬けを作り置きしておこうか。そんなことを考えながら、チーズペーストをバゲットに塗っていく。

 ダイニングテーブルに座り、窓の外を見ると、空は一面が重い雲に覆われていた。すっかり見慣れた古いレンガ造りの街並みは、夏と冬では受ける印象がまるで違う。また今日も雪になるのだろうか。香ばしい焼きカリフラワーに、レモンのアクセントが合う。サクラが残していった内田真美さんのレシピは、もうほとんど読まずに作れるようになってしまった。

 皿とフライパンを洗っていると、アマンダが足元に寄ってくる。シェアメイトが飼っている黒猫だ。「ごめんね、何もあげるものがないんだよ」と言いながら撫でようとすると、僕の手を振り払いシンクの上に飛び乗る。本当に食材がないことを確認すると、あっさりとキッチンから出て行ってしまった。現金な猫だが、余計な隠し事をしないだけ、人間の女よりもましだと思う。

 歯を磨きながら眺めていた鏡で、随分と前髪が伸びてきたことに気付く。アムステルダムにはアジア人向けの美容院もあるが、理想通りの髪型になったことがなくて、つい髪を伸ばしがちになってしまう。もちろん、この目つきの悪い一重と狐のような鼻では、髪型にこだわっても仕方ないことはわかっているけれど。

 日本から持ってきたユニクロのシームレスダウンを着込んで、アパートメントの階段を降りる。幅が異様に狭くて暗い階段は、一人通るのがやっとだ。

 シェアメイトから、階段の幅で固定資産税を課税されていた時代の名残りと聞いたことがあるものの、真相はわからない。引っ越しのためにスーツケースを持ち込んだときは、何度も心が折れそうになった。この狭くて急な階段を30㎏はあったリモワのスーツケースと共に3階まで上がらなければならなかったのだ。なぜ異国の地で僕はこれほど惨めな目に遭わなければならないのか。

 思えば、あの日からサクラに対する憎しみが確かなものになったように感じる。彼女さえいなければ、この階段を一人で登ることはもちろん、オランダへ来ることさえなかったのだから。

 ドアを開けると、雪が降り始めていた。吹雪だった。先週は気温が15度まで上がり、今年は暖冬だとニュースキャスターが語っていたのが噓のようだ。手袋をしっかりはめ、コートのジップを口元までしっかりと上げる。

 ヨーロッパの冬は、風との戦いだ。盛岡出身の僕は、日本にいるときは寒さに強いと自負していた。だけど容赦なく肌に突き付けてくる大陸ヨーロッパの冷徹な突風にはいまだに慣れない。

 アパートの前に停めていた自転車の二重ロックを解除する。欧州の中でも治安がいいとされるオランダだが、自転車だけはすぐに盗まれる。僕自身に経験はなかったが、同じ日本食料理屋に勤める同僚は何度も被害に遭っていた。ネットニュースによると、盗難された自転車は一度ポーランドに集められた後で、アフリカへ向かうのだという。

 専用道路が整備されているので、普段はアムステルダムで最も快適な移動手段である自転車だが、今日は乗ってほんの数十秒で失敗だったことに気が付いた。氷点下の風が容赦なく全身に吹き付けてくるのだ。特に顔はドライアイスを押し付けられたような冷たさである。

 一日の始まりがうまくいかない日は、決まってよくないことばかり起こる。

 しかし一度家を出てしまったからには仕方ない。ベートホーフェン通りを抜けて、ヘルダーランドプレインへと向かう。いつもなら運河沿いの道を好んで選ぶところだが、今日は最短距離で到着できるルートを選んだ。

 移動中に考えるのは、いつものようにサクラのことだった。彼女から一緒にオランダに移住しないかと誘われたのは今から四年前のことだ。僕たちはたまたま観ていたフジテレビのドキュメンタリー番組で、オランダではフリーランスビザを取得すれば、企業から雇用の確約がなくても働けることを知った。

 かねてから海外で住むことに憧れ、週に三度も英会話教室に通っていたサクラは、すぐにこの話題に飛びつく。神田に本社のある文房具販売会社の事務職という、堅実だが華やかさのない仕事を、彼女はいつも辞めたがっていた。

 実際、僕たちのアムステルダム行きはトントン拍子に進んでしまう。あのときは、彼女の裏切りを頭の片隅でさえ考えつきもしなかった。

 つい道を間違えそうになる。吹雪は強くなる一方だ。ようやく到着したヘルダーランドプレインは、今まで見たことがないような真っ白な雪化粧を施されていた。せっかくだから写真を撮っておこう。iPhoneのカメラをパノラマモードにして、周囲の写真を撮影しようとする。だけど、まだシャッターを押してもいないのに、いきなり怒鳴り声が聞こえてきた。

<第2回に続く>