三島由紀夫がひた隠しにした出自のコンプレックス/炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史②

文芸・カルチャー

公開日:2021/1/27

日本文学史に残る数々の名作の裏には、炎上があった…! 不倫やフェチ、借金、毒親、DVなど…文豪たちは苦しみながらアノ名作を残した。炎上キーワードをひもとき、彼らの人生の一時期を紹介する『炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史』(山口謠司/集英社インターナショナル)から、5つの炎上案件を掲載!
※本記事は 山口謠司 著の書籍『炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史』から一部抜粋・編集した連載です

炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史
『炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史』(山口 謠司/集英社インターナショナル)

三島由紀夫の誇示

ひた隠しにした出自のコンプレックス

炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史
イラスト:三浦由美子

 世間では三島のことを貴族だといい、貴族に間違いないことを信じている。本人もそれを信じ、敢えてそのようにふるまってきたところから、間違いがはじまっているように思えてならない。平岡家の分家三代目の彼は貴族であっても、初代の祖父、定太郎は貧農出身の成り上がり者であることを、彼は知りつくしておりながら、とことんまでそれをかくし通し、優雅な家系のように誇示したあとが気になる、胸の底にうごめく貧農コンプレックスを、貴族のポーズで克服しようとしたとしか思えないふしがある。
(一九七一年刊『農民文学』第九十三号所収、仲野羞々子「農民の劣等感─三島由紀夫の虚勢」)

 

「誇示」とは「誇らしげに人に示すこと」をいう。

「誇示」という字の「誇」の右側は「大」と「于」の変形した形で作られている。「于」は「迂回」の「迂」の旁の部分にもあるが、これは「大きく曲がったアーチ」をいう。これに「大」と「言」が付き、「大げさに広げたものの言い方」を意味する。

『仮面の告白』の主人公「私」さながら、三島由紀夫が誇示した貴族的なポーズの影には、貧農出身というコンプレックスがあった。

三島の貴族的な生活

 三島由紀夫の年譜を見て、この人が「貧農出身の成り上がり者」の祖父を持っていたと思う人などいないだろう。

 父親の平岡梓(一八九四〜一九七六)は開成中学、第一高等学校、東京帝国大学法学部法律学科を卒業した農商務省の官僚だった。

 母親の平岡倭文重は、加賀藩漢学者、橋健堂(一八二二〜一八八一)の孫で、東京開成中学の校長を務めた橋健三の娘。三輪田学園中学校、同高等学校を卒業した才女である。

 祖父母の住まいは、東京市四谷区永住町(現・新宿区四谷)、実家は渋谷区大山町(現・渋谷区松濤)で、いずれも一等地である。

 三島本人はといえば、学習院初等科から学習院高等科、東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、大蔵省に入って大蔵事務官に任命されるが、まもなく作家としての道を選んで、大蔵省を辞職した。昭和三十二(一九五七)年には、聖心女子大学を卒業したばかりの正田美智子さん(現・上皇后)と見合いをしている。また皇太子ご結婚祝賀の演奏会に招かれたりと、皇族との関係なども年譜には見え隠れするのである。

 三島は、こうした点からすればまったく苦労などなく、美しい文章で華麗な世界を自由自在に書き上げていたように思われる。初期の代表作『仮面の告白』に描かれる「私」の生活も、貴族的な煌びやかさに満ち充ちていると言えるだろう。

 しかしそれは、じつは「貧農出身の成り上がり者」の孫であることを「とことんまでそれをかくし通し、優雅な家系のように誇示した」ためだったと冒頭引用の仲野羞々子は言うのである。

 本当に、三島は、「胸の底にうごめく貧農コンプレックスを、貴族のポーズで克服しようとした」のだろうか─そういう見方で三島を捉えると、晩年の三島のボディビルへの熱中の理由も見えてくる。

三島のハッタリと祖父

 三島由紀夫の父、平岡梓は、その著『伜・三島由紀夫』で、『仮面の告白』について「その思い切ったハッタリ振りにびっくり仰天しました」と書いている。

 はたして、そのハッタリとはどの部分なのか。

 小説だからすべてが「ハッタリ」でもまったく構わないのだろうが、子どもの頃の家の話に、父方の祖父、平岡定太郎のことは不思議なほど触れられていない。

 それは、三島自身が作った年譜にも共通していることで、昭和十七(一九四二)年、三島が十七歳の時に定太郎は亡くなるが、このことをまったく記載しない。

 また、昭和十二(一九三七)年、三島は十二歳で、学習院中等科に進む。これまで三島は祖母のなつ(夏、夏子、奈徒などとも表記される)とその夫・定太郎の元で育てられ、中等科に進学するときに、父母のところに帰るのだが、この時も「祖父母のもとで」という表現を避けて、祖母のもとで育てられたと記している。

 このことについて、雑誌『噂』は、「祖父・定太郎の思い出を拒否したのは、やはり、自分の体内を、定太郎の父・太吉という播州の百姓の血が流れていることを恥じて、ひとに知られたくなかったためであろうか」と記す。

 ついでに少し『噂』という雑誌について記しておこう。これは文芸評論家・作家の伊藤整と一九七〇年代のベストセラー作家、梶山季之が企画して作った月刊誌で、資金は全て梶山が出資した。大宅壮一、内田百閒、川端康成、尾崎士郎など、各回、著名な作家を取り挙げて、彼らの周辺を洗いざらいにするという非常におもしろい雑誌であった。表紙の副題には「活字にならなかったお話の雑誌 梶山季之責任編集」とある。合計三十二冊を出すが、残念ながら五千万円の赤字で廃刊となった。

 それでは、三島が触れるのを避けた祖父・定太郎とはどういう人物だったのだろうか。

 三島の本籍は、昭和三十三(一九五八)年に杉山瑤子と結婚するまで、兵庫県印南郡(現・兵庫県加古川市)だった。

 それでは、この加古川の家から出た定太郎は、どうやって「成り上がり者」になったのだろうか。

『噂』は、平岡太左衛門の息子・太吉は妻のつるとともに蓄財にはげみ、長男・萬次郎と次男・定太郎の二人を賢く育てたと記す。そして、萬次郎は、「立志上京すると、苦学力行のすえ、東京で弁護士になった。明治三十一年三月には、三十八歳の若さで郷里から衆議院議員に当選し、次回も当選した」のである。

 次いで、三島の祖父、定太郎も「兄につづいて上京し、刻苦勉励して早稲田専門部に学び、さらに帝国大学法科大学を明治二十五年、卒業して内務省に入った」というのだ。

 定太郎はこの後、「徳島県参事官、栃木県警部長、内務省書記官兼衆議院書記官、高等文官試験委員、内務省参事官などを経て、更に広島、宮城、大阪の書記官に歴任し、後福島県知事に進み、前樺太長官熊谷喜一郎氏が、施設を誤り為に朝野の反対を受くるや、氏は前内閣の末路に当り、原内相に抜擢せられて其後任となる」。

 すなわち、三島の祖父・定太郎は、樺太長官にまで上っていったのだ。

「成り上がり者」と言われればそれまでだろう。しかし、成り上がり者といっても起業や株によって成り上がったのではなく、官僚としての道を真面目に栄進していったとすれば、必ずしも三島が嫌うような「成り上がり者」とは言えないのではないだろうか。三島自身も大蔵省に官僚として就職しているのである。

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