読み終えたとき、きっとはじめての感情があふれ出す…心震えるショートストーリー/一穂ミチ『回転晩餐会』前編

文芸・カルチャー

更新日:2022/2/9

注目作家・一穂ミチの最新刊『スモールワールズ』に未収録の特別掌編「回転晩餐会」。切ないのにほんのりとあたたかい気持ちになるひとひらの物語を、本書に先駆けてお楽しみください。

スモールワールズ
スモールワールズ』(一穂ミチ/講談社)

回転晩餐会 一穂ミチ

回転晩餐会
写真:下村しのぶ 立体:北原明日香

 回りながら食事をしよう、などと、誰が最初に考えたのか知らない。地球は自転し、我々も常に回転の上で生きているのでさほど酔狂な思いつきでもないのかもしれない。

 ビルの十五階にある、回転展望レストランで働き始めてもう半世紀近くが経つ。大学生時代、小遣い稼ぎのアルバイトのつもりで入ったのだが何となくそのまま就職し、古株になり、フロアのチーフになり、マネージャーになり、支配人になった。水平に回転し、席にいながらにしてパノラマの景色を楽しむことができるこの店はもはや私の人生の一部になった。客として訪れた女性と交際から結婚に至り、子どもをもうけたので、大げさでも何でもなく、今の自分があるのはレストランのおかげだ。ここが地についた回らない店だったら、妻が物珍しさで足を運ぶこともなかっただろう。軽食だけを提供する昼間は一周六十分、夜はコースディナーのオードブルからデザート・ドリンクまでサーブする時間を考えて一周八十分。微妙な速度の違いを身体で味わいながら、せっせとグラスや皿を運び、暇な時には全面ガラスの外に広がる街並みや空をぼんやり眺める、私はここの仕事が好きで、ここを気に入って通ってくださるお客さまも好きだった。

 四十年以上の常連客がいる。私がまだ平のウェイターの頃から、年に一度だけいらっしゃるご夫婦だった。最初は恋人同士だったのかもしれないが、「毎年決まった日にやってくるお客さま」と認識した時点で、互いの左手薬指には指輪があった。だいたい一ヵ月前に奥さまから電話で予約が入り、夏の終わりのディナーに西向きの席を指定する、それがご夫婦の毎年のルーティンだった。まぶしくて目を開けられないほど強烈な西陽がきょうという日をようやく諦めたように沈みゆき、天頂からゆっくりと群青に染まり始めるころ、彼らの八十分は始まる。べったりと傍に控えているわけではないので詳細は分からないが、向かい合うふたつの横顔はいつも和やかに笑っていて、サーブやチェックのタイミングでは「ありがとう」「とてもおいしかったです」とちょっとした言葉をかけてくれる。気張りすぎずカジュアルすぎないジャケットやワンピースを身につけ、穏やかで礼儀正しいご夫婦はスタッフの間でも人気があった。

 ――奥さんがさ、ちょっと足が悪いのかな? 引きずってるじゃん。でも、旦那さんがいつも優しく手引いて、絶対急かしたりしないの。見てるだけで癒されるっていうか、憧れ。毎年くるのって、どっちかの誕生日か結婚記念日なんだろうね。

 ――分かるー。うちの彼氏ひどいもん、こないだ道で転んじゃった時なんか『恥ずかしいからさっさと立てよ』だよ? 人としてありえない。

 お客さまの噂話なんかするんじゃない、とたしなめながら、内心では深く同意していた。彼らの全身からにじみ出る思いやりは控えめだからこそよく分かり、私はたびたび自分の妻に対する甘えや無神経を反省させられた。細かい諍いは数え切れないほどあったが、総じて仲のいい夫婦としてやってこられた(少なくとも私はそう思っている)のは、彼らのおかげだ。そんなひそやかな感謝を伝えたくて、四十年目の夏にはささやかなサプライズを行った。パティシエに頼んでデザートのケーキをちょっと豪華にし、チョコペンでプレートに「Anniversary」と描いてもらった。その前の年、彼らが「来年で四十回目だね」と話していたのを小耳に挟んだ時に思いつき、予約日の一週間前から天気予報を気にしてそわそわしていたので妻に笑われた。「あなたはそのご夫婦のファンなのね」と。そう、「ファン」という呼称は正しいのかもしれない。彼らについて深く知らないし、詮索したいとも思わないが、年に一度来てくれることが私の張り合いで、楽しい八十分を提供することが私の誇りだった。慇懃な営業スマイルの裏でどきどきしながら、私はデザートのプレートをそっとテーブルに置いた。

 ――あの、これは……。

 ――当店からのサービスでございます。去年いらした時に、今年が四十回目だとお聞きしまして。いつもありがとうございます。

 頭を下げ、上げた時には、奥さまの目に涙が浮かんでいた。泣かれるほどのおもてなしではなかったので私がすこし驚くと、奥さまは照れたようにほほ笑んで「ありがとう」と言った。

 ――嬉しいわ。

 ご主人がそっとハンカチを差し出す。その手つきにも、やはりいつもと変わらない優しさがにじんでいた。

 

 四十年。その間にここから見える眺めは変わり、高いビルがにょきにょき生えて夕陽の行方を追えなくなった。私は年を取り、ご夫婦も年を取った。回転展望レストランはいつしか「昭和レトロ」というジャンルに分類されるようになった。

 

 いつもの予約が「一名」で入った時、私は、首の後ろから冷たい定規を差し込まれたようにひやっと背を逸らした。ご夫婦はおそらく私より年上なので、もしものことがあっても何ら不思議ではない。去年は元気そうだった、なんていうデータはこの年になるとあてにならないものだ。もちろん、どうしても外せない用事があるのかもしれないし、病気や怪我で入院しているのかもしれない。何にせよ心配で、そして残念だった。

 果たして当日、奥さまはひとりで店に現れた。杖をつき、例年よりもいっそう慎重な足取りで「ごめんなさいね」と周囲に気遣いながら西向きのテーブルにつく。私はそっと椅子の背を引き「ごゆっくりお過ごしください」と例年通りに声をかけた。奥さまの背中は驚くほど小さく、華奢に見えた。去年もそうだったのだろうか。ディナーコースのメインに肉を選ばなくなったのは、ワインの量が減ったのは、いつからだっただろう。レストランは同じ軌道を回り続けているけれど、人間は変わっていく――いや、レストランだって。

「本日は、お越しくださりありがとうございます」

 デザートの後のコーヒーを飲んでいるタイミングで、さりげなくテーブルに近づいた。

「こちらこそ、きょうもおいしかったわ。ごちそうさまでした」

「すこし、残念なお知らせがございまして」

後編に続く>

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