婚約破棄。でも彼はその理由が分からないみたいだ(卯月・東京)②/月曜日の抹茶カフェ

文芸・カルチャー

公開日:2021/9/27

月曜日の抹茶カフェ

著:
出版社:
宝島社
発売日:

川沿いの桜並木のそばに佇む喫茶店「マーブル・カフェ」。ある定休日の月曜日、1度だけ、京都の茶問屋のひとり息子によって 「抹茶カフェ」が開かれる……一杯の抹茶から始まる、東京と京都をつなぐ12ヵ月の心癒やされるストーリーが試し読みに登場! 恋人・雄介との結婚も商社マンの彼についてカナダへ行くこともやめた佐知。友人の光都とゆったり過ごしながらも、頭をよぎるのはつい一週間前の記憶――雄介に別れを切り出した際のことだった。

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月曜日の抹茶カフェ
『月曜日の抹茶カフェ』(青山美智子/宝島社)

 あるとき、町のお祭りで広場で歌っていた私に、俺の店で歌わないかと声をかけてきたのがマスターだ。おでこに大きなほくろのある小さなおじさんで、一瞬うさんくさいとは思ったものの、どうしてだか警戒心がすぐにほどけた。そしてクリスマスイベントの出演者のひとりとして参加して以降、折に触れ単独でライブをさせてもらうようになった。

 たいした宣伝もせず、不定期にこっそりと行われるマーブル・カフェのイベントはいつもどこかちょっとマニアックで、でも楽しくて優しくて、不思議なくらい「ちょうどいい感じ」にお客さんが入るのだった。

 私は出演者としてだけでなく、一般客としてイベントに足を運ぶようになった。そこで「紙芝居」をしていたのが、光都だ。

 拍子木が打たれ、始まったのは宮沢賢治の『オツベルと象』だった。声色が見事に変わるのでびっくりした。知っていたような知らなかったようなその寓話は、光都の語りによって私の中にぐいぐいと食い込んできて、胸の奥が甘くふるえた。

 この人と仲良くなりたいと思った。でも私から気安く働きかけることはできなかった。それは誰に対しても。だから、次に私がライブをしたとき、客席に光都の顔を見つけてどれほど嬉しかったか知れない。そういう意味でも、私はマスターに感謝している。

「マスターって、あの人、不思議だよね」

「ほんと。何者なんだろうね」

 メニューを見たままそう答え、光都は抹茶わらび餅を注文した。

 詳しくは知らないけど、光都の実家は京都の和菓子屋さんだと聞いたことがある。光都という名前も、どこぞの有名なお坊さんがつけたらしい。

 でも光都はまったく関西弁が出ない。滑舌の良い、魅惑の声のマジシャンだ。

 

 食事を終えると私たちはエレベーターで一階へ降り、大きく白い字で「女」と書かれた紺地の暖簾をくぐった。

 ロッカーの前で、光都はためらいなく服を脱いだ。私もひとつずつ、服をはいでいく。

「あ、それすてき」

 光都が私のブラジャーを見て言った。先月、ピー・バードというランジェリーショップで買ったものだ。

「きれいなシルエット。羽根の刺繍も、光の加減で見え方が変わるんだね」

 私はとても満たされる。彼女はいつも、ちゃんと気づいてくれる。私が大切にしているものに。

 光都は一糸まとわぬ姿になると、おなかのあたりに視線を落として言った。

「時々思うんだけど、人間だけ、なんで服着てるのかね」

 私はブラジャーを外しながら答える。

「最初は防寒とか保護的なことだったんだろうね。そのうち恥ずかしいって感情を覚えて」

「恥ずかしいっていうのはさ、理由はどうあれみんなで隠し始めちゃったからだよね。おっぱい出したまま暮らしてる民族もいるじゃん。周囲が隠すから自分も恥ずかしくなって、恥ずかしいから隠してっていうループだよね」

 光都はロッカーのカギを閉める。私も長い髪をさっと簡単にゴムでまとめた。道すがらに光都が言う。

「裸じゃなくなったのって、いつからなんだろうなあ。前、テレビでやってたけど、ネアンデルタール人も服らしきもの着てたんだって」

「ってことは、人類が全裸だったのはその前? その前ってなんだっけ」

「うーんと、アウストラロピテクス?」

 滑り止めの小さな突起がついたゴムシートを踏みながら、大浴場に入る。あかるくて広くて、いろんな音が響いていた。湯が流れ、桶がぶつかり、女たちがしゃべっている。

 シャワーを軽く浴びて、一番広めの高濃度炭酸湯につかった。じわっと温かな湯にくるまれて、思わず目を閉じた。気持ちいい。

 ああ、知らなかった。私はこんなにも、冷えていた。

 手足や体をゆったりと伸ばしていると、自然に言葉がこぼれ落ちてくる。

「…………たまにさ、プロのオーディション受けてみればとかCDデビューできるといいねとか言われることあるけど、私が望んでいるのはそういうことじゃないんだよね。ただ歌いたいだけ。私の歌をほんとうに聴いてくれる人に聴いてほしいだけ」

「うん、私も。女優になりたいとかじゃなくて、紙芝居やりたいだけ」

「歌ってると、体の芯がふるえるの。ただそれが、気持ちいいの。聴いてる人たちに届いた何かが私に返ってきて、それを共有する感じ。一体感というか」

「わかる。紙芝居しててそれ感じる。きっと同じだ」

 私は「だよね」とうなずき、ぶくぶくと鼻のあたりまで湯舟につかった。

 光都は戯れるようにお湯を手ですくったり流したりしたあと、浴場の奥にすっと指をさした。

「あそこに、寝湯あるじゃん。見て、天井に穴が開いてるの。行ってみよう」

 言われてみれば、ほんとうだ。天井の一部が雲形にくりぬかれている。ふたりで歩いていき、浴槽に入って見上げると、薄青い空が見えた。

「今日は開けっ放しなんだね。雨、降らないかな。室内にいながら全裸で雨に打たれるっていう、貴重な経験ができるじゃん」

 光都がちょっと興奮気味に言った。

 寝湯というだけあって、湯舟は浅い。腰を沈めてちょっと足を曲げると、膝小僧がぷかりと姿を現す。淡い乳白色の湯は清らかで、隣にいる光都の足先が透けて見えた。爪に深紅のネイルが塗られている。肌の白さが際立っていた。

 光都はシンプルなファッションが多くて、色もモノトーンばかりだ。黒とかグレーとか。なのにどうしてだろう。このディープな赤を見て、私はまったく違和感を持たなかった。光都らしい、とさえ思った。

 誰にも見せないところで、鮮やかに燃えているから?

「おおー、いい感じに曇ってきたぞ。雨、くるかも」

 雨乞いをするように、光都は両手を合わせて拝んだ。瓢箪みたいな曲線を描く穴は空の絵を入れた額のようであり、あるいはユニークな形のタブレットで映像を見ているようでもあった。灰色の雲が、もったりと重みを持って見える。

 じりっと、胸の奥が疼いた。この空はカナダと繋がっているんだなあと、雄介に対して未練がましい想いを引きずっている自分に気づいたからだ。

 いやだ。いやだけど、でも、そうなのだ。こんなにウェットでセンチなものを、私は隠し持っている。

 先週一時帰国した雄介に、別れたいと言ったとき、彼はまるで言葉が理解できないというふうに、見たことのない険しい表情を見せた。

 何度も理由を問われた。私なりに気持ちを話したつもりだけど、どうにも伝わらなくて、最後はごめんなさい、ごめんなさいと謝ることしかできなかった。

<第3回に続く>

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