友人が「思ったようにしていい。これからもずっと」と言ってくれたから(卯月・東京)③/月曜日の抹茶カフェ

文芸・カルチャー

更新日:2021/9/28

月曜日の抹茶カフェ

著:
出版社:
宝島社
発売日:

川沿いの桜並木のそばに佇む喫茶店「マーブル・カフェ」。ある定休日の月曜日、1度だけ、京都の茶問屋のひとり息子によって 「抹茶カフェ」が開かれる……一杯の抹茶から始まる、東京と京都をつなぐ12ヵ月の心癒やされるストーリーが試し読みに登場! つい一週間前に結婚まで誓った雄介と別れた佐知。彼女が別れを切り出したのは、とある会話が発端だった。

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月曜日の抹茶カフェ
『月曜日の抹茶カフェ』(青山美智子/宝島社)

 彼にしてみれば青天の霹靂だったのだと思う。私は雄介の言うことにノーと答えたことはなかった。嫌われたくなかったから、失いたくなかったから。彼の転勤、私たちの結婚、そして私自身の、これからの生活。すべて雄介のシナリオにうなずいていた。殻の中に身をひそめて。

 後戻りできない亀裂が殻に入った一撃は、「東京でのライブ、あと何回できるかな」と言った私に雄介が返した答えだと思う。

「そんなことより、英語の勉強しておけよ。歌なんかで食えるわけでもないんだし」

 私にとっては「そんなこと」じゃなかった。「歌なんか」じゃなかった。

 決定的なのはそこだった。もう無理だ、一緒にいられないと、はっきり心が決まった。

 私にも、大事に育てて守ってきたものがあった。楽しみにしてきたことがあった。ささやかで温かなライブ、にこにこと聴いてくれるお客さん、大学時代からの相棒ギター。仕事だってそうだ。肝っ玉母さん的な先生のことを私は大好きで、病院に来る子どもたちに元気になってほしいと願い、成長を見るのも嬉しかった。

 雄介のことも、好きだった。だった、じゃない。今でもまだ、やっぱり好きだ。

 負けず嫌いで努力家で、勢いよく人を引っ張っていくエネルギーの強さに、私は惹かれた。反面、雷が怖いことを必死で悟られないようにしているようなところが愛しかった。

 ただ、違ったのだ。手に入れたいもの、守りたいものが。着たいもの、飾りたいもの、そしてたぶん、隠したいものが。

 もう人間は、服や靴を身につけずに生きていくことはできないんだろうか。肌を隠して、心を隠して、飾り立てて、嘘ばかりついて、何者かになろうとして。自分でもこんがらがってしまうぐらい、こんなに複雑になって。

 私たちがアウストラロピテクスだったら、よかった。

 何もまとわず、決め事に囚われず、おなかがすいたら草原の葉を食べ、愛しくなったら抱き合って、ぐっすり眠って朝が来て。完全にはなりえない言葉で傷つけ合ったりもしないで。

 お互いを好きっていうだけじゃ、だめだった。

 

「いいんだよ」

 

 光都が不意に言った。ぼんやりしていた私は、え、と顔を上げる。

 

「自分が一番大事だって感じることをちゃんと大事にできたんだから、それでいいんだよ。佐知は、思ったようにしていい。これからもずっと」

 

 体の芯を揺さぶられた。歌うときにふるえるのと、同じ場所だった。

 奥に隠しすぎて、自分でもわからなくなっていた。それでいいんだよって、誰かにただそう言ってもらいたかったこと。

 そしてそれはぜんぜん、恥ずかしくなんかないってことも。

 

 次の瞬間、湯の上でパッ、パッと、何度か点がはじけた。雨だ。

「きたっ!」

 

 光都が喜び勇んで叫び、両腕を広げる。

 雲形に切り取られた空から、いくつもの雫が落ちてきた。こうして見ると、雨はドロップ形でも線でもなく、楕円の玉なのだった。気前よくばらまかれた透明のキャンディみたいなそれを、私はどこか呆然とした気持ちで、うっとりと眺めた。

 薄あかるい陽が差してくる。お天気雨だ。ぽっかりと開いた穴から、光を受けた雨粒はきらきらと裸の体に落ちて、私をつたった。

 

 泣いてはいけないと、ずっと思っていた。

 私が約束を破ったのだから。雄介を傷つけたのだから。勝手に好きな生き方を選んだのだから。だけど。

 私は今、泣くことを自分に許そう。泣いていい。雨に打たれて、汗にまみれて、お湯に流して、ぜんぶ、ぜんぶ。ここで思う存分、泣いてしまおう。

 そしてお湯から上がって体を拭いて、お気に入りの下着を身につけ、服を着て靴を履こう。私はもう、胸を張って歩き出せる。

 この雨が、やんだらきっと。

<第4回に続く>

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