七月隆文『100万回生きたきみ』/特別試し読み #1『プロローグ』

文芸・カルチャー

公開日:2021/10/13

人気作家・七月隆文の文庫書き下ろし『100万回生きたきみ』から厳選して全4回連載でお届けします。今回は第1回です。美桜は100万回生きている。さまざまな人生を繰り返し、今は日本の女子高生。終わらぬ命に心が枯れ、何もかもがどうでもよくなっていた。あの日、学校の屋上から身を投げ、同級生の光太に救われた瞬間までは。100万の命で貫いた一途な恋の物語。『100万回生きたきみ』発売を記念して作品の一部を特別に公開!

100万回生きたきみ
『100万回生きたきみ』(七月隆文/KADOKAWA)

プロローグ

 安土美桜は、100万回生きている。

 いろんな時代の、いろんな国で生きた。様々な人と出会った。蝶を飼い、鳥を飼い、猫を飼った。

 けれどもう、ほとんど覚えていない。100万回も生きたせいで、心はすっかり擦り切れてしまった。

 今の美桜は、日本に住む十七歳の高校生。

 クラスメイトたちは、なんのために勉強しているのだとか、なんのために生きているのだろうとか、十七歳だから青春らしいことをしなきゃいけないんじゃないかとか、そういうことに瑞々しく悩んでいる。

 でも、100万回生きた美桜にはどうでもいい。

 枯れることさえ諦めた植物の心地だ。

 思う。

 自分はもう、これから永遠に、何かに心を揺るがされたり、たいせつなものが生まれたりすることはないのだろうと。

 思っていた。

第1章 1000001回目の青春

1

 美桜は今日も学校へゆく。

 いつもの国道沿いの舗道を自転車でまっすぐ。

 十月にしては寒い。

 けだるさを覚えながらふと、どうしてこんなことをしているのだろうという思いがわく。

 でもそれは、逆らわず平凡に生きるのが結局いちばん楽だからだろう。抗い、大胆な人生も送ったはずなのだ。

 はるか昔の外国で歌っていた気がする。

 海の戦場にいたこともあったかもしれない。

 すべては靄のかかった忘却の彼方だ。

 ペダルを踏んで輪を描く。

 書店のあとにできたリサイクルショップを過ぎ、おっぱいばばあが出るという都市伝説のあったお城のようなホテルを過ぎ、川の橋に差しかかると、その先に美桜の通う公立高校が見下ろせる。偏差値五十の、お手本のような普通の高校。

 橋を渡った先の横断歩道で信号待ちをしていると、隣で何台かの自転車が止まる。

 見知った影に振り向くと、三善くんだった。

 幼い頃にハルカと三人で遊んだことがある。小中高と同じだが、その後の接点はほとんどない。幼なじみと言えるほどなじんでいない。知り合いだ。

 目が合うと、彼はちょっとだけ遅れて、

「おう」

 と気さくに挨拶してきた。

「おはよう」

 こうして声を交わすのも、けっこう久しぶりだ。

 彼はさらりと笑んで、それ以上は何も言わず、信号が青になるのを待つ。

 ナチュラルな短髪、学ランにパーカー、明るい目と口角の上がった唇。

 三善くんはちょっとチャラくて、勉強ができる。ハルカによると、かなりモテるらしい。

 青に変わった。

「じゃあな」

 三善くんはペダルを踏み、彼の登校仲間と横断歩道を渡り、裏門につながる下り坂を気持ちよさそうに滑っていく。

 

 美桜が教室に入ると、空気がざらりと毛羽立った。

 クラスメイトたちが向けてくる、あるいは向けてこないまなざし。浮かべる表情。

 十七年しか生きていない彼らは、こんなにも幼くわかりやすい。

 彼らの感情が透明な空間を歪ませているように感じた。好奇心に撓み、軽蔑に冷え固まる。そのまだら模様。

 そういうものに全身を撫でられながら、美桜は自分の机に鞄を置き、椅子に座った。

 教科書を机に入れていると、頑なな無視という視線がふれる。

 窓際の列、二番目の席に座る、男子の背中。

 昨日まで付き合っていた相手だ。

 自分を取り巻く空気の理由に、彼との話も加わったのだろう。

 どうでもいい。

 心底思うほどの気力もなく。

 無表情に黒板に目を置きながら、100万回生きても考えることをやめられない心がいつもの空想を始める。

 明日、自分が消えていてほしい。

 苦痛もなく、何ごともなかったかのように、すっとこの世から消えていたら。

 

 いつものパンは、いつもの味がする。

 美桜は食堂のテラス席で一人、購買で買ったパンを食べていた。

 ピークは過ぎたとはいえ、まだ賑わう食堂でそういうことをするとそれなりに目立つ。だが美桜はそよ風ほども気にせず、空いていればその席に座る。

 グラウンドの向こうに、いつも自転車で通っている裏門からのメタセコイヤ通りが見える。

 いつもの席、いつものパン。習慣を決めると楽だ。よけいなことに頭を使わずにすむ。

「美桜」

 振り向くと、ハルカがいた。

 髪を少し明るく染めた緩いギャル。黒目がちのまなざしが人なつっこく、リップを塗った唇がふっくらしている。

 今も続く幼なじみだ。ハルカが誘い、美桜は諾々とついていく。そんな関係。

 隣のイスをガガッと引き、ハルカが無造作に腰を落とす。いつも使っている甘い香りが攪拌され、美桜の鼻にふれてきた。

 挨拶も世間話もしない。ハルカとはそういう距離感だ。美桜はストローでカフェラテを吸う。

「なに? ヤッたの?」

 ハルカがざっくり聞いてきた。

「キスはされた」

 美桜はありのままを答える。

「前と一緒?」

「そう」

「マジかー」

 アメの袋を開け、口に入れる。

「告られて、OKして、キスはどんな感じ?」

「送ってもらってる途中に、駐車場の前で突然」

「青春。必死じゃん。――で、美桜は」

「…………」

「そんな感じで無だったんだよね。一緒」

 ウケる、とつぶやく。

「そういうので傷つくピュア男子に好かれんだよね美桜は。まーわかるけど」

 左手を伸ばし、美桜の黒髪を飾った爪に絡める。

「サラッサラの黒髪で、おとなしくてちょっと神秘的な清楚系。おもいきって告ったらOKもらって、有頂天で付き合いだしたら無で。あせってキスしたらやっぱ無で。みたいな」

 小さくて厚い唇が不機嫌な形になる。

「それで『誰とでもヤラせる』みたいな噂になってるし」

「頼まれれば断らないと思う」

「なんで」

「どうでもいいから」

 最後まで言い切る前に、ハルカが髪をわしゃわしゃっとした。それから、乱れた毛束を撫でて直しつつ、

「どうでもいいとかないわー」

「ハルカもたくさんの人と付き合ってるじゃない」

「付き合ってるっていうか。あたし、かわいいっしょ? 一緒にいたり、さわらせたげたら喜ぶじゃん」

 お金をもらっているわけではなく、ただ喜ぶから、という動機でそうしているらしい。ハルカはかなり独特の感性で生きていて、だから今も美桜から離れずにいるのかもしれない。

「でも美桜には向いてないって。真実の愛をみつけなよ」

 真実の愛、という大仰な語句に、美桜は瞬きをする。

「光太とかどうよ?」

 コンビニでお菓子を買うような調子で聞く。

「三善くん?」

「呼んでみんね」

 ハルカがスマホの画面に親指を滑らせる。

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