【正解の挫折】人生って、なんなんだ/松尾スズキ『人生の謎について』

文芸・カルチャー

公開日:2021/10/30

「たられば」の話はするなとよく人は言う。そうは言ってもと私は思う。人生というものは選択の連続で、あの時「こうしていたら」「こうしていれば」という思いは、どうやったって発生する。我慢できない。私は連載第一回を目の前にして「たられば」を我慢できない。

 子供の頃、将来は普通にマンガ家になるものだと思っていた。絵が得意だった。いや、得意だと思っていたのだ。小学生の頃は、ノートに鉛筆でマンガを描いていた。赤塚不二夫先生に強烈に影響を受けていたので当然ギャグマンガだ。高校にあがるとケント紙にペンを使って墨汁で描くというプロと同じスタイルで描き、初めて描き上げた作品を少年ジャンプに投稿したら佳作候補になった。誌面に名前が載っただけだが、お調子者の私は簡単に舞い上がった。十六歳で佳作候補なら、もう二十歳くらいになればプロになれてんじゃないの?

 私はそれから一切勉強をしなくなった。

 で、貧乏な親に無理を言って地元九州の美大のデザイン科に行かせてもらった。大学では当然マンガ研究会に入った。そして、私は人生初めての、やけにくっきりした挫折を味わうのである。九州には美大はその一校しかない。よって、その美大には九州中の絵のうまいやつが集まり、美大の漫研には、さらによりすぐりのうまいやつが集まるのである。そこでは、十六歳で慢心してデッサンの勉強をしなかった私の古臭い絵なんて、てんで通用しなかった。勉強もダメ体育もダメ、唯一の心の拠り所だった絵もさほど、ということになると私のプライドはズタズタである。で、そんなときに、漫研の斜め前にあった演劇研究会の部室から凄い音量で発声練習の声が聞こえてきて、なぜだかそれに不思議な興味が湧き、見学に行ったら部員が数名しかおらず、非常に居心地が良さそうなので入部することになった。二回生になるとさらに部員が減り、いきおい私は、作・演出・出演を一手に担うという、今やっていることとまったく同じスタイルを十九歳の頃から手に入れてしまったのである。そして私の芝居はどういうわけか大ウケし、福岡中の演劇人が見に来るようになった。

 が、もちろん芝居で食っていけるなんて当時は微塵も思わないから、四回生の頃にはスパッとやめバイトと就職活動に専念した。しかし、芝居にかまけ勉強を怠けていた私は、デザイン会社への就職もままならず、ほとんど誰でも入れるような印刷会社に就職し、触ったこともない印刷機のオペレーターをやることになった。ところがその仕事がかなり過酷で、腱鞘炎を患い、わずか十カ月で退職してしまった。それから私は、細々とイラストの仕事をしながら、夢よもう一度とばかりに、出版社に出向きマンガの持ち込みを始めたのである。結果、当時いがらしみきお先生に影響を受けていた私の作風は、「シュールすぎる」とことごとく門前払いをくらい、まんまとまた挫折したのだ。が、正解の挫折だった。今、ギャグマンガはほとんど衰退しているからだ。

 気がつけば二十五歳になっていた。

 追い詰められた私は、「どうせ食えないんなら芝居でもやるか。ダメだったら野垂れ死にだ!」と、半ばやけくそで大人計画を旗揚げした。そうしたらどういうわけか次々と面白いやつや優秀なスタッフが集まってきて、倍々ゲームで客が増え、今もまだ増え続けている。それが三十年続いている。

 もし、十六歳でマンガ賞をとれていたら、美大に行かせてもらえなかったら、劇研の発声練習が聞こえてこなかったら、会社で満足に働けていたら、マンガの持ち込みが成功していたら…。数々の「たられば」のトラップを、野垂れ死にをチラチラ視野に入れつつギリギリでかわしてなんとか生きている、という事実に、朝起きて時々身震いする。

 危なかった…と。

 偶然の「たられば」に私は生かされている。つくづくそう思う。

 

 人生って、なんなんだ。

<次回は【ほしたらな】>

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