【生きちゃってどうすんだ】故郷の母/松尾スズキ『人生の謎について』

文芸・カルチャー

公開日:2021/11/3

 六年前、五十歳になった記念に一人芝居を書いて自分で演じた。

 期限付きの高級老人ホームに入った元芸人が、百歳になるまで生きたあげく、入所期限が尽き、追い出されてホームレスになる、という話だ。『生きちゃってどうすんだ』という、そのまんまのタイトルの芝居だ。最初に数千万円の入所金を支払えば、二十年ほど優雅な介護生活を保証されると謳う高級老人ホームの広告を見て、ん? まてよ、そこで二十年以上生きてしまった場合、その老人はいったいどうなるのだ? という疑問から、この芝居は生まれた。

 人生百年時代と政府の人は言う。もはやそんな老人ホームの預かり期限が切れてもかつ長生きする老人が出るのもあり得ない話ではない。確かに医療の発達は喜ばしいが、引き伸ばされた命を持て余す人々は、どんなモチベーションで生きていけばよいのだろうか。

 この間、NHKのドキュメンタリーでなかなか衝撃的な番組を見た。重い神経難病にかかった女性が、苦痛に耐え家族の世話になりながら生きる未来を拒絶し、自らの「尊厳」を守るため、安楽死が認められた国スイスに渡り、薬によって医師の立ち会いのもと自らの命を絶つさまを、まざまざと描いたものだった。一方、同じ病気にかかるが、人工呼吸器をつけ、喋ることもままならず、まばたきでしか意思を表示できない人生を、生き続ける選択をした女性の姿も並行して追う。

 姉妹に見守られながら、自ら致死薬が投入された点滴のストッパーを外し、まだ意識のあるうちに「ありがとう。幸せだったよ」と言い残し死んでいった彼女。人が死にいくさまを初めて目撃したというのもあるが、死というものが、あんなにも静かで荘厳であることが、とにかく衝撃だった。正直、ゴールデンで流していい番組なのかとすら思ったが、どうにも説明のつかない涙が私の目から流れたのは確かだった。尊厳死、日本では認められてないが、この先重いテーマになるだろう。

 また、生きることを選んだ女性が物言えぬ中、咲き誇る桜の花を見て涙するさまにも、言葉にできない感動があるのだった。

「生きちゃってどうすんだ」

 そんなことは、とても彼女には言えない。

 この撮影に踏み込んだNHKのディレクターの勇気を尊敬する。

 そして、私はその番組を見てまた故郷の母のことを思わざるをえなかった。

 八十七歳になる私の母は、今、特別養護老人ホームにいる。その費用は今、遺族年金でまかなえている。父のことはまったく尊敬したことはないが、遺族年金を残してくれたことだけはとても感謝している。

 しかし、そのことを母は知らない。

 何度か書いたことだが、元々要介護五の重度のアルツハイマーだったうえに、六年前に脳出血をやってからは、寝たきりで、喋ることも自分の意思を表現することもできない。いや、意思があるかどうかすら、もはや誰にもわからない。ドロドロに溶かした食事を口に入れられ、排泄し、眠るだけの日々を、六年続けている。前述の女性なら間違いなく尊厳死を選んでいるパターンである。

 ただ、母には食欲がある。

 目の前にスプーンを差し出すとそれを無条件にくわえようとするのだ。食べて、味わおうとするのだ。その姿を見るとぞくぞくする。母は、八十七歳になり、喜びもなく苦悩もない「生きるのみ」という世界で、ピュアな、命の塊になったのだ。そこに、命の本質そのものがあるような気がして、なんだかそれは美しい様子にも見えて、もう、生きろ生きろ、このまま百まで生きてしまえ、と思ってしまうのだ。

 ただ、あえて身内だからというのもあって、

「でもだよ。…母ちゃん、生きちゃってどうすんだ」

 と、聞けるものなら聞いてみたい。

 コー、という呼吸音しか返ってこないのはわかりきっているにしてもだ。

 

 人生って、なんなんだ。

<次回は【阿部サダヲの謎について】>

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