日本ポップスの源流「民謡」とは/ みの『戦いの音楽史』

音楽

公開日:2022/2/10

みの

 第2回では、アメリカのポップス黎明期について、1930年代~40年代を中心に振り返ってみました。今、私たちが楽しんでいる音楽ジャンルのルーツすべてに、「アフリカン・アメリカン」たちの文化がかかわっていたことが、おわかりいただけたと思います。

 それではここで、同時代の日本ではどのような音楽が聴かれていたのかを探ってみましょう。

外国の旋律+日本的歌詞=「翻訳唱歌」

 ポップスやヒット曲という視点で語るにはやや違和感があるもしれませんが、日本における共通の音楽の広がりという点で、「文部省唱歌」について触れておきたいと思います。

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 19世紀後半、急速な近代国家の設立を迫られた明治政府は、学校教育制度を作るにあたって音楽の指導法を欧米諸国に学ぶことになります。派遣留学生としてアメリカで学んだ伊澤修二は帰国後、文部省唱歌の制定に取り組みました。そして、外国曲の旋律を採用して、日本的な内容の歌詞をつける「翻訳唱歌」が生まれます。代表曲には、「仰げば尊し」「埴生の宿」「蛍の光」などが挙げられます。

 やがて、唱歌の作曲は、西洋音楽を勉強した日本人の作曲家が担うようになります。唱歌の歌詞は文語体で書かれ、内容も難解だったため、子どもたちは馴染めず、学校の外に広がっていくことはありませんでした。ただ、誰もが教科書や授業で習うことで、全国の子どもたちが同じ曲を共有する機会になりました。

 また、のちのポップスやロックにつながる外国のメロディと日本語の融合の試みは、ここから始まったといえるかもしれません。

日本のポップスの源流の一つ、民謡

 文部省唱歌の導入以降、学校教育の現場では西洋音楽が支配的になります。しかし、一般の人々のあいだで民謡などの伝統的な音楽への関心が無くなったわけではありません。

 本来、民謡は自然発生的に生まれ、口伝で伝えられ、地域間の人の移動によって伝播し、その土地で定着、郷土化したものです。作業の最中や休憩時に歌われた労作歌(仕事歌)、神事や行事で歌われた神事歌(祭歌・祝歌、踊歌・舞歌)、門付や遊芸人たちが聴かせた芸事歌(放浪芸歌)などがあります。

 民謡は、参勤交代の藩士や徒士、北前船の船頭や水夫、行商人、旅芸人によって各地に伝播しました。無伴奏あるいは手拍子を伴って歌われていた民謡は、江戸時代になって都市や港町の花街や遊郭に持ち込まれて、三味線などの伴奏がつき「はやり歌」へと進化します。

 大正時代の終わりに本放送を開始した現在のNHKラジオの前身は、番組で民謡を取り上げていました。同じ頃、明治以降の急激な西洋音楽への傾倒の反省から、詩人や作曲家による「新民謡運動」が起こります。

 この民謡ブームでプロの民謡歌手が生まれ、レコードが発売され、歌謡曲(流行歌)としての「民謡」のジャンルができます。地方で埋もれていた民謡が発掘されて歌謡曲として発表され、作詞家、作曲家によって作られた今でいう“ご当地ソング”にあたる「新民謡(創作民謡)」が生まれます。

 この頃、「はやり歌」は「流行歌」と称されるようになっていましたが、1930年代後半のNHKのラジオ番組で、「歌謡」という冠のついた番組が生まれます。NHKが「流行歌」という名を嫌い、自ら独自のヒット曲を生み出そうと考えたためといわれています。そして、「歌謡曲」という言葉が定着するきっかけとなりました。

 第二次世界大戦後には、1946年に放送が開始されたNHKラジオ『のど自慢素人音楽会』(翌年「のど自慢素人演芸会」に改称。現在のテレビ番組『NHKのど自慢』の前身)は素人にマイクを開放し、民謡ブームが再来します。昭和30年代には三橋美智也が歌謡曲だけでなく、自身のルーツでもある民謡のレコードも出して人気を博しました。地方のものだった民謡が、全国区のヒット曲へと発展したのです。

服部良一による、民謡とジャズのミクスチャー

 昭和に入り、1937年に「山寺の和尚さん」という曲が発表されます。作詞は久保田宵二、作曲は服部良一で、中野忠晴が男性コーラスと歌いました。ジャズ的な要素と純日本的な要素を組み合わせた、当時としてはかなり尖った楽曲で、タイトルからは想像できないミクスチャーっぷりです。私が知っている限りでは、これが日本土着の音楽と外国の流行音楽とが融合した最初期の例といえます。

 “日本ポップスの父”と称される作曲家の服部良一は、大阪出身。家族の影響で、郷土の民謡を子守歌代わりにしながら育ちます。幼い頃から音楽の才能を発揮し、19歳でラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。指揮者のエマヌエル・メッテルに和声や作曲を学びました。

 一方、オーケストラでの活動のかたわら、ジャズ喫茶でピアノも弾いています。1936年に日本コロムビアの専属作曲家となり、「別れのブルース」「雨のブルース」「蘇州夜曲」といったヒット曲を生み出しています。

 日本の伝統的な音楽の旋律の特徴を、日本の民族音楽学者、小泉文夫はテトラコルドを使って理論づけています。簡単にいうと、連続した三つの音からなる旋律では、最後の音は必ず真ん中の音になるという規則性です。たとえば、となえうた「かみさまのいうとおり」に節をつけて言うとき、最後の音は真ん中の音になります。これは、三味線音楽や筝曲、民謡やわらべ歌などにもみられる法則です。

楽譜
テトラコルドを使った「となえうた」
小泉文夫『日本の音 世界のなかの日本音楽』(平凡社、1994年)より作成。

 服部良一は「山寺の和尚さん」で、このテトラコルドを使っています。おそらく、ジャズを聴きやすくするために、日本的な旋律とのブレンドを試みたと考えられます。

 日本の作曲家たちは歌謡曲を手がけるにあたって、ある日突然、日本土着の音楽を捨てて、海外の音楽のコピーばかりをするようになったわけではありません。そして、今も日本にあるポップスがすべて海外のコピーというわけでもありません。歌謡曲であれ、J-POPであれ、日本土着の音楽の影響は必ずあって、ミクスチャーの音楽になっているといえます。

ラジオから始まるヒット曲の定着

 誤解されがちですが、日本のポップスは第二次世界大戦後に突然人気が出たわけではなく、戦前からヒット曲、今でいう“昭和歌謡”がたくさん生まれています。代表的な歌手に、松平晃や淡谷のり子が挙げられます。

 松平晃は、1933年に古賀政男の作曲による「サーカスの唄」が大ヒットし、一気にスターの地位へ上りつめました。淡谷のり子は1931年に古賀政男の作曲による「私此頃憂鬱よ」をヒットさせ、1937年には服部良一作曲の「別れのブルース」が大流行となっています。

 古賀政男は、服部良一と並ぶ昭和を代表する作曲家で、数々のヒット曲を生み出し、これらは“古賀メロディ”と称されています。

 1930年代半ばになると、ラジオをはじめとするメディアが楽曲を取り上げ、それがヒットに結びつく構図が定着します。当時の全国のラジオ聴取契約者は、1935年に200万人、1939年に400万人となります。

敵性音楽と目されたジャズ

 戦前はジャズのヒット曲も多く、1920年代からジャズバンドも活躍していました。

 1923年の関東大震災以降、大正から昭和初期にかけて多くの財界人や文化人が大阪、神戸に移り住んだこともあり、「阪神間モダニズム」といわれるモダンな西洋文化を取り入れたライフスタイルが築かれます。日本のジャズシーンも関西に移動し、港町で特に西洋的な建築が多くたち並ぶ神戸が、ジャズの中心になります。

 戦時下は軍歌歌謡がもてはやされ、ジャズは敵性音楽として演奏できなくなりますが、ミュージシャンたちは、当時日本統治下にあった上海に渡って演奏を続けました。

 戦後になると進駐軍放送でジャズがかかるようになります。ただし、レコードは入手困難で、闇取引や進駐軍から入手するなど限られた人が聴いていました。

 進駐軍キャンプや将校専用のナイトクラブでは、日本人のジャズバンドが演奏するようになります。軍楽隊出身者が多く、マーチやクラシックを演奏していた人たちが、戦後ジャズに転向。ほかにも学生たちが主催するパーティーでのジャズ演奏の需要もありました。

 1950年には、戦前から淡谷のり子のバックバンドで活躍し、戦後は進駐軍で演奏していた日系アメリカ人のティーブ・釜萢が、日本ジャズ学校を設立。この日本初のジャズ専門学校では、ペギー葉山、ミッキー・カーチス、平尾昌晃らが学んでいます。

 戦後、同時期にデビューした同い年の“三人娘”として人気を博した人気少女歌手、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみもジャズのカバー曲を歌います。この当時のカバーは、英語詞と日本語詞を交互に歌うものが主流でした。

“歌謡秩序”の餌食となるロカビリー

 日本のポップス史を振り返る際、私は二つの大きなテーマがあると考えています。

①“歌謡秩序”の問題
②言語の問題

 歌謡秩序とは、歌謡界での風潮を指しています。新しいジャンルが生まれると、作詞家、作曲家といった専業作家によってその要素を用いた曲が作られ、歌謡化(大衆化)を狙います。

 言語の問題は、舶来の音楽ジャンルにいかに日本語歌詞を乗せるか、という試みのことです。これは、後の「日本語ロック論争」にもつながっていきます。

 1950年代半ば、アメリカからロカビリーが入ってきます。ロカビリーは、ロックンロールとヒルビリー(カントリー)が融合して生まれた言葉で、エルヴィス・プレスリーのヒット曲もリアルタイムで日本に入ってきます。小坂一也がプレスリーの「ハートブレイク・ホテル」をカバーしますが、歌詞はやはり英語詞と日本語詞が併存している状態でした。

 当時のダンスホールでは、ハワイアン、カントリーウエスタンのバンドが人気を博していましたが、ロカビリーがそれらにとって代わります。また、渡辺プロダクション主催で「日劇ウエスタンカーニバル」が開催され、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎らが出演してロカビリー旋風を起こし、その人気は決定的になりました。

 カバー曲中心のロカビリーで、1950年代の終わりに平尾昌晃がオリジナル曲をヒットさせます。ところが、ロカビリーは専業作家によってすでに“手垢のついたコンテンツ”になりつつあり、まもなく下火を迎えることになります。ロカビリーはまさに歌謡秩序の餌食になった代表例といえるでしょう。

 1960年代に入り、ビートルズ旋風の前にベンチャーズが人気を博します。本国よりも日本で売れる洋楽ミュージシャンを指して“ビッグ・イン・ジャパン”と称したりしますが、その先駆けといえます。ベンチャーズは日本の音楽史に大きな影響を与えますが、これも歌謡化します。ベンチャーズが書き下ろした曲を日本の歌手が歌う“ベンチャーズ歌謡”が生まれました。

 ベンチャーズ人気と、値段的にも手に入りやすいエレキギターが出てきたことで、エレキブームも起こります。この頃にエレキギターと出会った人たちがその後の日本の音楽シーンを担いますが、「ロックは不良の音楽」として、保守的な人たちから敬遠されます。

(第4回につづく)

1990年シアトル生まれ、千葉育ち。2019年にYouTubeチャンネル「みのミュージック」を開設(チャンネル登録者数34万人超)。また、ロックバンド「ミノタウロス」としても活躍。そして2021年12月みのの新しい取り組み日本民俗音楽収集シリーズの音源ダウンロードカードとステッカーをセットで発売中!
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YouTube:みのミュージック
Twitter:@lucaspoulshock