「先生なのに、苦手なことがあるんだって」五年三組の生徒たちとの出会い【『かたばみ』試し読み#05】

文芸・カルチャー

公開日:2024/1/20

うちのぼりさんの『かたばみ』が第10回山中賞を受賞しました!

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【山中賞とは】
高知市の「TSUTAYAなか店」の書店員であり、フリーペーパー「なかましんぶん」の編集長を務める山中由貴さんが、お客様に「どうしても読んで欲しい」と思った本の中(翻訳書も含め、ジャンルは問わず)から独自に選出する「山中賞」。年に2回、芥川賞・直木賞よりひと足早く発表され、受賞によって販売数が10倍になった書籍も!

本作は太平洋戦争中から戦後にかけての日本を舞台に、血の繫がらない親子が向き合い、生きていく様を描いた笑いと涙のホームドラマです。新聞連載時から大きな反響を呼び、数多くの感想が寄せられました。
この度、山中賞の受賞を記念して試し読みを公開! 全5回の連載形式で毎日配信します。気になる物語の冒頭をお楽しみください!

第10回山中賞受賞記念
直木賞作家・木内昇が描く笑いと涙の家族小説
『かたばみ』試し読み#05

 五年三組の教室に踏み入って、悌子は思わず「うっ」と肩を引いた。たらいに隙間なく浮かんだジャガイモのごとく、坊主頭とおかっぱ頭がひしめいている。一学級に五十六人も詰め込むと、教壇から眺めるだけで窒息しそうな光景ができあがるのだ。
 自己紹介をするよう吉川に促され、気を取り直して黒板に自らの名を大きく書く。生徒たちに向き直り、
「山岡悌子と申します。どうぞ、よろしくお願い致します」
 第一印象が大事だと思い切り胸をそらし、目一杯声を張った。生徒たちは、度肝を抜かれた様子で、こちらを見詰めている。
「山岡先生には、この学級の副担任をしていただきます。みなさん、よく言うことを聞くように」
 吉川のしゃがれ声が響くと、全員速やかに起立し、「よろしくお願い致します」と声を揃えて一礼した。その折り目正しさと行儀のよさは、泥だらけで遊び回り、無謀な探検をしては、しょっちゅう近所の大人たちから雷を落とされていた悌子の小学生時分とは、だいぶ隔たりがあった。
 教員としての経験がないため、悌子は翌日からしばらくの間、教壇の脇に控えて授業を見学することに終始した。
 初等科高学年の授業は、修身や国史を扱う国民科、算数や理科を学ぶ理数科、体操、武道の体錬科、習字、音楽、図画、工作とその他あらゆる教育をひっくるめた芸能科の四つに大別される。国民学校がもっとも力を入れているのが国民科で、他の科の倍の時間数が割り振られていた。
 授業に臨んで悌子は、注意深く生徒たちを観察し、座席表と照らしてひとりひとりの顔を頭に刻んだ。眺めているうち、それぞれの個性がうっすら透けて見えてくる気がする。
 机上に帳面を広げる生徒はほんの一握りで、ほとんどの子供は石盤を用いており、カツカツと書き写す音が高く響き渡っている。このところの紙不足で、帳面も手に入りにくくなっているのだ。教科書すらも薄くなる一方なのだと、教員面接の折に聞かされた。
 それにしても、五年生ともなると子供らしさが抜けてくるのか、授業での受け答えもめいりよう、中には大人顔負けの物言いをする子までいる。体育専門学校で全国から集まってきた十代後半の精鋭たちを指導するのと違って、としのいかぬ子供を教えるのなら心安いだろう、とあんのんと構えていた悌子だったが、だんだんと不安になってきた。
 とりわけ、三限目の算数の授業で、吉川の教える計算法に異を唱える生徒が出たことにはまったく肝をつぶした。
「先生、つるかめ算はXやYを使った公式に置き換えたほうが、計算しやすいと思います」
 彼は、耳につけるようにしてまっすぐ手を挙げると、りんと声を張って言ったのである。慌てて確かめた座席表には、あおゆういち、といかにも賢そうな名が刻まれている。
「兄さんの教科書を見たら、そんな数式が載っていたんです。つるとかめを出さなくても、もっと簡単に答えが導き出せます」
 議員の演説さながらの口振りである。悌子は、つるかめ算ってなんだったっけ、と冷や汗をかきながら懸命に記憶をたどる。
「君の言う通り、そういう方法もありますね。では、その公式を前に来て説明してください」
 生徒の発言以上に、吉川の対応にぜんとなった。てっきり、「授業の邪魔をしてはいかん」と叱るものだとばかり思っていたが、案に相違して彼は青木優一を教壇に立たせたのだ。
 優一はとして、大きな字でXとYを用いた数式を板書し、ハキハキした口調で至極わかりやすい説明を施した。あぁそういえば、そんなことを習ったな、と情けなくも悌子はようやく思い出せたが、当然ながら生徒たちはだいぶ難解に感じたようだ。
「そんなの、かえってややこしいよ。つるとかめのほうがいい」
 ひとしきり解説が終わったところで、図抜けて体の大きな生徒が口を尖らせたのだ。しまけい、と座席表にある。
「私もつるとかめのほうが親しみやすいから、そっちに戻してください」
 目鼻立ちのやけに整った女の子が、声をあげた。あれは自分が美人だってわかってるね、その自信に裏打ちされた物言いだね──よねさちと名前を確認してから、悌子はきようで深くうなずく。
 自分の提案が不評だったことにがっかりしたのだろう。優一はあからさまに肩を落とし、とぼとぼと席に戻った。最前は大人びて見えたが、泣きそうな顔でうつむいているところを見ると、まだまだ子供だ。
「山岡先生」
 不意に吉川に呼びかけられ、悌子はビクリと身を震わせた。
「ただいまの、青木君の解説はいかがでしたか?」
 訊かれてとっさに立ち上がる。学級中の目がこちらに集まる。
「あの……」
 緊張で声が詰まった。競技を見物されることには慣れているが、発言が注目されるというのは思いがけず恐ろしいことだった。
「私、数を数えるのが苦手でして、学校の授業でも算数は大の不得手でした。ですが、ただいまの青木君の解説で、XとYの公式の意味がとってもよくわかりました」
 しばし沈黙があった。変なことを言ったろうかと案じたところで、生徒たちがドッと笑い声をあげたから、ますますうろたえた。いったい、なにがおかしかったのだろう。
「先生なのに、苦手なことがあるんだって」
 笑いの波間から、ささやき声が聞こえてくる。悌子はついムッとなる。別段教師は神ではない。苦手なものも、できないこともそりゃあるだろう。一方で、もしや先ほどの感想は教師の発言としてふさわしくなかったろうか、と冷や汗が流れる。
「はい、静かに。授業に戻りますよ」
 吉川が手を打つと、教室はあっさり静まった。悌子はとく要領のまま腰掛ける。
 と、そのとき、こちらを見ている者があるのに気が付いた。優一だった。さっきのしおれ具合はどこへやら、彼は顔一杯に、さもうれしげな笑みを浮かべていた。
 終業後、職員室に戻ってから、悌子は吉川に切り出したのだ。
「あの、先ほどの授業のことですが」
 吉川は、こちらに向いて小首をかしげた。
「算数の授業で発言を求められたとき、私、おかしなことを申しましたでしょうか」
 吉川は笑みを浮かべ、かぶりを振った。
「いいえ。むしろ、素晴らしいお答えでしたよ。私は感心しました」
「でも、みなさん笑っていましたので」
「苦手なことを苦手と言うのは、勇気がいります。あなたはそれを事も無げに為した。むしろ立派な発言だったと私は思いますよ」
 そんなたいそうなことだろうか、と眉根が勝手に寄った。槍投げの習練は、苦手なことを克服するためのものだ。これはいずれの競技も同じで、毎日欠かさず飽くほど習練することで欠点を補い、理想の動きを体に覚え込ませる。つまり、苦手なことやできないことを、常に意識するのは当然のことなのだった。
 けれど教師たるもの、生徒の模範になるべきだから、そう簡単に弱みを見せてはいけないのかもしれない。
「ご迷惑をおかけしていないのなら、いいのですが……。でも、なにか間違っていることがあれば、遠慮なくおっしゃってください。怒られるのには私、とっても慣れておりますから。かえって怒られないと不安になるくらいなんです」
 真剣に頼んだつもりが、吉川はたるんだまぶたを押し上げ、ホッホッホとお上品な女学生のような笑い声をあげた。
「ここ一、二年で学校は大きく変わって、文部省から日々様々な通達が届きます。私はこっそり日替わり定食と呼んでおりますが」
 吉川は、シワの深く刻まれた顔に薄く戸惑いを浮かべた。
「子供たちも、ことに高学年は、学校にあがってから諸々方針が変わりましたからね。なにがよくて、なにが悪いのか、常に様子をうかがっています」
 それから、わずかに顔を引き締め、あたりをはばかるように声を潜めて言ったのだった。
「ですが、私はできるだけ、子供たちには本音で生きてほしいと願っています。せめて教室の中だけでも、思ったことを思ったように言える環境を作りたいと努めているんです」

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介

かたばみ(KADOKAWA刊)
著者:木内 昇
発売日:2023年08月04日

「家族に挫折したら、どうすればいいんですか?」
太平洋戦争直前、故郷の岐阜から上京し、日本女子体育専門学校で槍投げ選手として活躍していた山岡悌子は、肩を壊したのをきっかけに引退し、国民学校の代用教員となった。西東京の小金井で教師生活を始めた悌子は、幼馴染みで早稲田大学野球部のエース神代清一と結婚するつもりでいたが、恋に破れ、下宿先の家族に見守られながら生徒と向き合っていく。やがて、女性の生き方もままならない戦後の混乱と高度成長期の中、よんどころない事情で家族を持った悌子の行く末は……。

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