近代日本の黎明、この男にあり――『薩摩燃ゆ』安部龍太郎 文庫巻末解説【解説:町田明広】

文芸・カルチャー

公開日:2024/3/8

明治維新のきっかけを作り上げた傑物の、燃えたぎるような一生を描いた歴史巨編。
『薩摩燃ゆ』安部龍太郎

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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『薩摩燃ゆ』文庫巻末解説

解説
まち あきひろ(歴史学者・神田外語大学教授)

 本書の主人公である調しよひろさと(一七七六~一八四八)は、どのような時代を生き抜いたのであろうか。生まれたのは、十代将軍とくがわいえはるもとで絶大な権力をふるったぬまおきつぐの全盛時代(てんめい年間、一七八一~八九)であり、十代のころはまつだいらさだのぶによるかんせいの改革が実施されていた。これ以降、調所が六十代になるまで、幕府は十一代将軍いえなりによる大御所時代(ぶんぶんせいてんぽう、一八〇四~四四)が続いた。調所が藩政改革に着手したのは文政十年(一八二七)であり、五十一歳という年齢は、当時では老境の域に達しており、大御所時代が末期に差し掛かっていた。なお、調所が自殺したえい元年(一八四八)は、ペリー来航のわずか五年前であった。
 まずは、調所広郷の生涯を概観しておこう。あんえい五年(一七七六)二月五日、鹿しま城下の下級武士かわさき家に生まれ、後に調所家の養子となった。幼名はせいはち、その後、しようえつしようもんと改めた。一般的には、調所笑左衛門で知られている。調所は城下士の中では最下層の御小姓与に属しており、郷士を加えたさつ藩全体の武士層では、中くらいに位置した家格であった。ちなみに、西さいごうたかもりおおとしみちと同じ家格である。
 寛政二年(一七九〇)、調所は茶坊主として出仕したが、その時は九代藩主しまなりのぶの治世であった。しかし、前藩主島津しげひでが絶対的な権力を保持しており、しかも「高輪たかなわ下馬将軍」として、幕府にも大きな影響力を持っていた。文化六年(一八〇九)、両者の間で財政問題の確執が発生し、重豪は斉宣を隠居させて孫のなりおきを藩主の座に据えた。いわゆる、文化ほうとう事件である。
 寛政十年(一七九八)から、調所は重豪の茶坊主となっていたが、その能力が極めて高く評価され、文化十年(一八一三)に藩主側役の配下であるなんに任命されて、蓄髪を許された。文化十二年(一八一五)には、小納戸頭取兼御用御取次見習に昇進し、藩政の枢要の一角を占めた。その後、調所は長崎商法の拡大などが高く評価され、累進して文政八年(一八二五)には、四十九歳にしてそばようにんばつてきされた。しかし、調所が過酷な運命に立ち向かいながら、その能力をいかんなく発揮する機会を得たのはそれからであった。
 というのも、薩摩藩では重豪が隠居したころから、積極的な藩政改革とごうしやな暮らしぶりによって、急速に藩債、つまり借金が増加しており、文政年間(一八一八~三〇)には五百万両の巨額に達していた。文政十年、重豪は唐突に調所を財政改革の責任者に任命した。調所の抜擢は、まさに重豪のけいがんであった。これ以降、調所は薩摩藩の財政再建のため、そして本書で繰り返し描かれたように、重豪のために死力を尽くして改革にまいしんすることになった。
 調所が多大な成果を挙げた具体的な方策としては、あま大島、とくしまかいがしまの三島の砂糖専売政策を最初に取り上げなければならない。ここで精製される砂糖の売買を藩が独占し、島民による売買を厳禁した。違反者は容赦なく処罰し、中には死刑に処せられたものも少なからず含まれていた。島民に上納をさせた後、余分の砂糖についても、大坂市場価格の四分の一ぐらいに見積もって、日用品と強制的に交換させており、過酷極まりない収奪を行った。
 また、藩債五百万両を年二万両ずつ返済する藩債二百五十年賦償還法を大坂町人に強制し、さらに、米や種子たね、その他の国産品の改良および密貿易などで利益を上げた。加えて、にせがねの鋳造も見逃せない。借金踏み倒しや密貿易、過剰な奄美大島など三島からの搾取や贋金作りと言った、手段を選ばない方法によって、見事に財政改革に成功した。これは、調所の武士らしからぬ経済的センス、不退転の決意とらつわんがなければ到底不可能であった。調所による財政改革によって、天保年間(一八三〇~四四)の末期には、藩庫備蓄金五十万両のほか、諸営繕費用二百万両余を備蓄するに至った。奇跡以外の何物でもなかろう。
 成功を収め続ける調所の家格や役職は、うなぎ登りであった。天保二年(一八三一)十二月に大番頭に昇格して三百五十石を加増され、翌三年(一八三二)一月に役料は若年寄格の三百石三十人賄料となり、二月には大目付格に昇進して家格も寄合に上昇した。同年うるう十一月に家老格、役料千石となり、天保四年(一八三三)三月と天保七年(一八三六)三月には、それぞれ五百石の加増がなされた。天保九年(一八三八)八月、満を持して家老に就任し側詰兼務となった。これだけの大出世は、江戸時代を通じても希有なレベルである。しかし、世子なりあきらと対立し、かつ幕府より密貿易の嫌疑を受けたことから、えい元年十二月十八日に自刃したとされる。
 さて、調所は島津重豪・斉興・斉彬という三代の藩主と関わることになるが、その三人を紹介しながら、調所との関係に触れていこう。まずは、調所を登用した重豪(一七四五~一八三三)である。えんきよう二年十一月六日、領主島津氏の鹿児島邸に生まれ、ほうれき五年(一七五五)に十一歳にして宗家を継いで藩主となった。天明七年(一七八七)に隠居して、栄翁と称した。
 重豪は士風の開化と文化の発展を図ることに意を用い、薩摩の言語や風俗が粗野であることを改めるため、上方風俗の移入に努めるなどした。また、藩校ぞうかんえんかんを創設して藩士の文武教養を高めることを企図し、加えてがくいんめいかん、薬園などを設けて実学の導入も計り、農業百科全書などをへんさんさせるなど文化事業にまで手を伸ばした。こうした重豪の多方面にわたる積極的な行動には、当然のことながらばくだいな資金が必要になった。重豪時代に累積した藩債は、もはや天文学的なレベルとなり、その打開を図った家老秩父ちちぶすえやすらは重豪を無視して緊縮政策を実行したことから、先述した文化朋党事件がぼつぱつして秩父一党は徹底的に弾圧された。
 なお、その後の財政は急速に窮迫し、重豪は調所を起用して財政改革にあたらせる決断をした。しかし、重豪自身は最後まで見届けることなく、天保四年一月十五日に逝去した。下屋敷(高輪邸)に重豪の霊をまつる「護国権現」が作られ、調所は都度ここを訪ねて一時間ほど平伏して、重豪が目の前に居るかのように報告していた。重豪は生前に改革のしんちよく状況を報告するように命じており、調所は重豪の御霊が恐ろしいため実行していると述べている。実際には、自分を抜擢した重豪に対する恩義と調所自身が実感していた重豪へのけいの念や尊奉の思いがなさせた業ではなかろうか。
 次に、長期にわたって調所とタッグを組んだ島津斉興(一七九一~一八五九)である。寛政三年十一月六日、九代藩主斉宣の長男として江戸で生まれた。文化六年、文化朋党事件によって藩主となったが、祖父重豪が実権を握っていた。重豪は調所を抜擢して、財政改革を実行し始めたが、斉興は重豪の死後も調所を重用し続けた。実際には、その改革のほとんどは斉興時代のものであり、五百万両の負債を二百五十年賦無利子返済とし、砂糖・薬用植物などの専売制強化やりゆうきゆう貿易を隠れみのにした抜け荷、加えて国産品の改良を行って莫大な貯蓄ができるまでに、薩摩藩の経済を生き返らせた。
 ところで、調所は積極的な近代化を主張する嫡子斉彬の考えは、藩財政をたんさせるものと危険視したことなどから、斉彬への家督譲渡に反対であった。調所没後、斉彬の子どもが相次いで病死し、斉興の側室おじゆしているという噂が広まり、斉彬の支持者たちが調所派重臣の暗殺を計画した。事前に察知した斉興は、斉彬派を処罰した(たかさき崩れ・お騒動)。老中まさひろはこの事態につけ込み、嘉永四年(一八五一)に斉興は隠居に追い込まれ、不本意ながら斉彬に家督を譲った。あんせい五年(一八五八)に斉彬が急死すると、孫の十二代藩主ただよし(一八四〇~九七)の後見を務めて実権を握るが、翌六年九月十二日に逝去した。
 斉興は斉彬になかなか藩主の座を明け渡さず、陰湿で神経質であり、当時から現在に至るまで、必ずしも評価は高くない。しかし、実際の斉興は極めてれいで思慮深く、大胆不敵な面も持ち合わせた非凡な人物であった。調所も常に鬼神の如く斉興を恐れる風に接し、極端に言行を謹んでおり、昼夜を問わず何事に関しても斉興への報告を怠らなかった。本書では、実は斉興が調所を警戒し、様々なかんぼうを企てたと描かれているが、実際には、調所は斉興に対して畏敬の念をもって極めて忠実であり、斉興も最も優れた忠臣として遇していたのではなかろうか。
 最後に、調所と対立を深めた島津斉彬(一八〇九~一八五八)である。文化六年九月二十八日、十代藩主斉興の長男として江戸の芝藩邸で生まれた。斉彬のそうめいえいまいさは広く流布しており、藩主になると「三百諸侯英才随一」とけんでんされた。お由羅騒動を経て、嘉永四年二月、斉彬は四十三歳にして正式に薩摩藩主を拝命し、これ以降約七年半にわたって、薩摩藩を統括して殖産興業・富国強兵に邁進した。
 特筆すべきはしゆうせいかん事業であり、反射炉・溶鉱炉・さんかいだいを建設して大砲の一貫生産を可能にし、製鉄所・農具工場・工作機具工場・刀剣工場・ガラス工場・陶器工場や地雷・水雷製造所などを稼働させた。さらに、幕府に大船建造の解禁ならびに日章旗を日本の総船章とすることを建議して採用された。また、老中阿部正弘や徳川なりあきまつだいらよしながやまうちようどう伊達だてむねなりら諸侯と親交をもち、未来じようひようぼうしながら将軍継嗣問題ではひとつばしよしのぶを推した。大老なおすけたいする直前の安政五年七月十六日、コレラを発症し鹿児島で急死した。
 ここで問題となるのが、斉彬と調所の関係であろう。本書では斉彬を廃嫡して異母弟の島津ひさみつを後継藩主とすることを目論み、調所の家族へ刃を振るうことも辞さない斉興に対する調所の憎しみが見て取れる。斉彬を高く評価して連携を図りながら、命をしてでも藩主の座を斉彬にすべく、様々な謀略を謀る調所の姿が描かれる。一方で、通説となっている、本書とは異なる関係性を指摘しておこう。先述の通り、調所は斉興に過剰なまでに気を遣いながら誠実に仕えており、斉興も最も優れた忠臣として好意的に遇していた。つまり、調所は斉興と気脈を通じ、久光擁立を謀るグループにくみしていたことになる。
 調所にとって、最も忌避すべきことは財政が再び悪化することであり、斉彬によって再び悪夢を見ることは是が非でも回避したかった。調所は斉彬を評して、極めて洋癖に凝り固まって知識・才能を見せびらかし、かつ誇らしげに振る舞い、無用の冗費を尽くして国庫を空にしてしまうと酷評している。一方で、斉彬も調所の権勢が強大であることを誠に憎むべきこととしており、両者の関係がとても円滑であったとは思われない。ただ一点、調所は重豪に心から心酔して支持しており、その重豪ができあいしていた斉彬であるだけに、調所が斉彬を尊重することはあり得るかもしれない。いずれにしろ、著者にお目にかかれたら、このストーリー展開の根拠や狙いを伺ってみたい。
 最後に、調所を歴史的にどのように評価するかについて、その死後から現代に至るまで、余りに過小評価されていることに絶望感を覚える。調所は超一流の政治家であり、テクノクラートであり、重豪・斉興・斉彬という名君と渡り合って薩摩藩の財政再建と藩政を牛耳った傑物であった。調所による改革が失敗していれば、薩摩藩は財政が破綻した状態で幕末維新期を迎えざるを得なかった。しかし、薩摩藩はこの時期の主役になり得ており、それを可能にしたのは、調所が財政を立て直していたからに他ならない。島津斉彬・久光が国政レベルでの周旋活動や薩摩藩の殖産興業・富国強兵にまいしんできたのは、調所の業績があって初めて可能になった事実は極めて重い。
 つまり、調所が存在しなければ、薩摩藩は幕末維新史の主役にはなり得ず、日本の近代も違った形になったとしても過言ではない。それだけ、調所の存在は日本近代史に計り知れない影響を与えたと言えよう。調所は大河ドラマの主役になったとしても不思議ではない人物であり、その調所がまったく忘れ去られていることは地団駄踏む思いである。本書によって、調所のすさまじいまでの異能を多くの読者に知っていただき、調所復権の一助になればと期待して止まない。

作品紹介・あらすじ

薩摩燃ゆ
著 者:安部龍太郎
発売日:2024年02月22日

近代日本の黎明、この男にあり
主命に背くならば腹を斬れ――。薩摩藩の下級武士に生まれた調所広郷は、多年の功を認められ、藩主の側用人を務めるようになっていた。七十七万石の権勢を誇っていた薩摩藩も、かつての藩主・重豪の失策によって、いまでは五百万両という莫大な借金を抱えている。財政改革主任に抜擢された広郷は、非合法も厭わぬ強引な手腕で藩の立て直しに挑む。明治維新のきっかけを作り上げた傑物の、燃えたぎるような一生を描いた歴史巨編。

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