純粋さの塊のような生き方と、ありあまる将棋への情熱――【大崎善生『聖の青春』試し読み】
公開日:2024/3/21
2024年3月の角川文庫仕掛け販売タイトルとして、新オビでの展開(※)がスタートした大崎善生さんの『
ぜひこの機会に、気になる物語の冒頭をお楽しみください!
※新オビの展開状況は書店により異なります。
第1章がまるごと読める!
大崎善生『聖の青春』(角川文庫)試し読み
あらすじ
重い腎臓病を抱えつつ将棋界に入門、名人を目指し最高峰リーグ「A級」で奮闘のさなか生涯を終えた天才棋士、村山聖。名人への夢に手をかけ、果たせず倒れた“怪童”の生涯を描く。
プロローグ
どうしても気になるのは、いちばん後ろからちょこちょことついてくる、もうすぐ4
しかし、3歳の
「たいしたもんじゃ」とその姿を確認するたびに祐司は弟の体力と気力に感心した。
近所の子供たちで編成されたパーティーは家から6キロほど
昭和48年、広島の初夏のことである。
茶臼山はそんなに険しい山ではないが、何しろ家からは遠く道のりは長い。しかし、何度となく山登りをともにしている祐司は聖のことをそんなには心配していなかった。
「ぎゃーっ」
川で何度目かの沢蟹捕りをしているとき、後方から
祐司は
「お兄ちゃん、これ何じゃ」
聖は目をまん丸くして祐司を振りかえった。
「これ何じゃ」と指す聖の指先が
弟の震える指先のわずか30センチ先の岩の上で、大きな
暗い灰色をしたその蛇は、身体中が
「動くなよ、聖」
ごくりと
「わあー、まむしじゃー」
子供たちは
川辺には二人の兄弟と一
聖はことの重大さが理解できずにきょとんとしている。
祐司はまむしを興奮させないように少しずつ聖ににじり寄っていった。全身から
「聖、じっとしとけよ」
「どうしてじゃ」
「いいから。じっとしとけ」
「わかった」
目の前で子供に指を差されたまむしは興奮状態にあり、いつでも
「いいか、聖。そいつから目を離すな」
「ああ」
「そいつをにらんだままそこから少しずつゆっくり後ずさりせい」
「こうか?」
「そうそう。油断するなよ」
そろりそろりと近づいていく祐司の手が、後ずさりする聖の背中にやっと届いた。まむしはまるでわずかなすきをうかがうような目で
祐司の足はがくがくと震えた。しかし弟を思う気持ちが恐怖心を行動に変えさせていた。
聖を後ろから
安全な場所に立って沢を見下ろすと、まむしは
それをきっかけに子供たちが一斉に投石をはじめた。しかし、見た目より
祐司も大きな石を拾い、力いっぱい投げつけた。するとどうしたことか、祐司の投げた石だけはまるでそうなることが運命だったかのように一直線にまむしに向かって飛んでいき、
「やったー」
子供たちが
まむしの
そのようすを祐司と聖は
岩の上には無残に分断されてしまった胴体と、まるで悲鳴のかわりのような真っ赤な
しかし、まむしは動きはじめた。ちぎれた下半身を振りかえろうともせずに岩から
祐司が計画を立てたこの日のハイキングは無事に終わった。沢蟹も大漁で子供たちはそれぞれの家へ戦果を持ち帰った。
聖も最後まで誰に
しかし、その夜に異変が起きた。
3歳の子供には確かにきつすぎる山登りだった。もちろんその
この日を境に聖と病気との長い長い
そして祐司は祐司で自分の投げた石が弟に
まむしの
*
平成10年8月8日、一人の
村山は幼くしてネフローゼを
村山は多くの愛に支えられて生きた。
肉親の愛、友人の愛、そして
もうひとつ、村山を支えたものがあったとすればそれは将棋だった。
将棋は病院のベッドで生活する少年にとって、限りなく広がる空であった。
少年は大きな夢を思い
夢がかなう、もう一歩のところに村山はいた。果てしない競争と
しかし、どんな障害も乗り
進行性
私は昭和57年に日本将棋連盟に入り、十数年にわたり将棋雑誌編集者として将棋界のもっとも近くで生活してきた。昭和57年といえば、村山がはじめて将棋界の門を
その中でも、強く心に残っている棋士が村山聖である。
やさしさ、強さ、弱さ、純粋さ、
村山はその豊かな人間性で人を
父
つらい日々もあった。
胸
本書はその愛と闘いの記録である。
これは、わずか29歳で他界した
第一章 折れない翼
発病
昭和44年6月15日午後1時15分、広島大学付属病院で
臨月の
「
しかも、トミコには
帝王切開という医者の
精神と肉体の限界すれすれの苦痛が何時間もトミコを
母と子の長い長い闘いがやっと
「男の子ですよ」という看護婦の声がトミコの
広島の
6月の木々の緑はそんな
次男誕生の知らせを伸一は広島市内にある会社で聞いた。昼食を終え、自分のデスクでぼんやりと雨の
昭和11年に大阪で生まれた伸一は、その後父親の仕事の関係で広島に引っ
大学を卒業し県立の研究所に入所した後、
聖が生まれたころ伸一は人生の絶頂期ともいうべきときを
雨の音を聞きながら、伸一は生まれてきたばかりの次男の名前を考えていた。今日も徹夜明けだが、頭はしゃっきりしている。
職場や雀荘で「わしの
しかし、キヨシとかヒジリとかいう読みかたはどうもピンとこない。
「どうしたもんじゃろう」
窓外に広がる6月の緑を
しばらくそうしているうちに漢和辞典で読みかたを徹底的に調べ上げてみたらどうだろうかというアイディアが
伸一はデスクの漢和辞典を無我夢中で
これだ、と伸一は心の中で
6月の雨のように迷う必要は何もなかった。
村山聖が生まれた昭和44年はアポロ11号で人類がはじめて月面に降り立った年である。
日本国内では東大
日本は急激な経済成長下にあった。
そのことを
広島の街も空前の好景気に
マツダの車が
100年は草木も
そんな活気ある広島の
夜泣きもせず、お乳はぐいぐいと飲んだ。腹を下すことも、熱を出すこともなく健康そのものだった。まったく手のかからない、親にとってはこれ以上ないくらいに愛らしい赤ん坊だった。
歩けるようになると、いつも近所の友達の家で遊ぶようになった。人見知りもせず、
聖が2歳のときに伸一は家を買った。それまで住んでいた
新居は府中町の
3歳になるころには、祐司は聖をどこにでも引っ張り回すようになる。野に山に川に、兄弟は風のように
幼少時の聖がほかの子供と変わったところがあったとすれば、それは集中力である。一度何かに集中するとすさまじい力を発揮した。
大人でもふうふういうような山を登ることができたのも、兄の背中についていくというその一点に集中していたからである。聖にとってそれは登山ではなく、兄から
じっとしておれ、と伸一が
「
聖が
トミコはそんな聖がいとおしくてたまらなかった。こんな母と子の幸せな時間がいつまでもつづくことを密かに
こうして両親と二人の兄姉の愛に囲まれて、聖は
しかし、それはあまりにも短い期間だった。3歳の初夏、
生まれてはじめてまむしに
朝を待ち、近所の医者に駆けこんだ。
それからはまたいつもの元気な聖が戻ってくるはずだった。しかし、どうもようすがおかしい。あんなに元気だった聖がしょっちゅう熱を出すようになっていた。そのたびに医者に連れていくのだが、医者の診断はいつも判で押したように風邪だった。
熱を出しては医者にいき、風邪薬をもらって帰ってくるということが何度かつづいた。その間も無理をして聖は保育所へ通い、近所の子供たちと遊んだ。しかし、3歳の夏、山に登り高熱を出す前の聖とはどこかが
体の
昭和49年の6月、5歳の誕生日を迎えたばかりの聖は、ひときわひどい高熱に襲われた。
はしかだった。しかし、それもほどなく完治した。ところが、治った後もどこかようすがおかしい。生まれてからただの一度も病気らしい病気もせずにすくすくと育ってきたこと、
初夏のある日、仕事から帰宅した伸一は聖の顔を見て背筋に
見慣れているはずの聖の顔の形が違っているように見えたのだ。伸一は確かめるために聖を目の前に立たせてみた。そしてさらに
熱のせいか薬のせいか、聖の顔は風船玉のように
「しまった」と伸一は心の中で舌打ちをした。聖の再三にわたる発熱を、わが子が送る危険信号を
翌日、トミコは聖の手を引いて広島市民病院へと向かった。わが子の顔を見ればもう、風邪薬しか処方しない町医者にいく気にはなれなかった。そこでトミコは思わぬ病名を聞かされることになる。
「お母さん、これは大変ですよ」
「ネフローゼです」
そして、
「お母さん、大変な病気にさせてしまいましたねえ」
そうか、とそのときトミコは思った。この若い医者は私に向かってこう言っている。母親であるあなたがこの子をこの病気にさせたのですよ。子供が病気になったのではなくて、親であるあなたがそうさせたのですよと。
この言葉をトミコは胸に深く刻みこんだ。そして、一生忘れないでおこうと決心した。
家に帰りトミコは伸一に聖の病名を報告した。それは、伸一にとってもはじめて耳にする病名だった。
伸一は自分の
「あっちこっちいっておれば、医者の見立ても違っていたじゃろうに……」
こうして父は父、母は母、兄は兄で、聖の病気に対する
昭和49年7月、村山聖5歳。
広島のある長い夏の夜のことである。
7月19日、聖は広島市民病院に
腎臓の果たす大きな役割のひとつに
血液中の蛋白質には
腎臓の濾過能力が低下し、血液中の蛋白濃度が
最悪のケースは肺に水分が流れこむ、
蛋白質は細胞の
最高の良薬は安静にすること。何もせず何も考えずにジーッと
広島市民病院に入院した聖は1週間もしないうちに尿から蛋白がスーッと消え、たちまち元気を取り戻した。
しかし、それからがこの病気の難しいところである。熱も引き体のだるさからも解放された子供は病気が治ったと思ってはしゃぎ回る。そして少し回復しては、遊ぶことに体力を使い果たしまた発熱という
聖のはじめての入院もそんなことを何度か繰りかえし、結局退院したのは年の
病院から戻った聖は近所の元気な子供たちの先頭に立って、坂道を朝から晩まで駆け上がったり駆け下りたりの日々を送った。山に
「安静が第一じゃ」と伸一がいくら口を
それはある意味ではしかたのないことなのだろう。子供は子供同士で
聖は人気者だった。特に自分より年下の子供たちへのやさしさやいたわりは誰もが感心するほどだった。くる日もくる日も、近所の
しかし、人間的な成長をするためには結局のところ聖は大きな
そのどうしようもない矛盾が、子供を
暴れては発熱、少し休んではまた暴れて発熱。そんなことを何度か繰りかえし、とうとう聖は一歩も動けなくなってしまった。
不思議なゲーム
昭和50年8月5日、6歳になった聖は広島市民病院に再入院することになる。
腎ネフローゼの再発であった。
このころから聖は夢中で本を読みはじめる。
トミコは毎日のように児童文学書を買い求めては病院に届けた。図書館からも借りた。しかし、あっという間に図書館の児童文学書は借りつくし、気がつけばもう一冊も残っていなかった。
知人が17冊まとめて貸してくれたこともあった。しかし、それもそう長くはもたなかった。本を読むスピードが
この年の9月に聖と同じ部屋に入院していた女の子が死んだ。みゆきちゃんという、聖よりもまだ幼い子だった。6歳の聖に死の意味を正確に理解できたかどうかはわからない、ただ確かなことは
常に死と隣り合わせの
少しでもそんな入院生活の気晴らしになればと、伸一は聖にいろいろなゲームを教えてやった。
トランプや花札や
ある日、伸一は将棋
聖はベッドの上に、伸一は来客用の丸い
「とりあえず一局やってみようや」と伸一が言うと聖の目がキラキラと
こうして病院のスチールベッドの上で、村山聖にとってはじめての対局が行われた。いつもは熱にうなされ体のだるさにひたすら
聖はもちろん、伸一もまったくの初心者なので、一局の将棋があっという間に終わってしまう。
それでも二人で1時間ほど指しただろうか、それは初心者同士のめちゃくちゃな、それでいて何とも
その夜、聖は不思議な
「またやってみたい」と思った。
昼間に父親と指したシーンが
「今度父ちゃんいつきてくれるんじゃろう」
そう思うたびに目が
広島市民病院の同室の女の子がいなくなったベッドの上で、聖は生まれてはじめて将棋を指し、その興奮に眠れない長い夜をすごしていた。それは将棋という小さな
腎ネフローゼに
村山聖、6歳の初秋のことであった。
2度目の入院は8月5日から11月29日まで4ヵ月に
退院して家に帰ってきた聖はどうしようもないほどの
自分に襲いかかった病気という
特にトミコへの
ちょっとしたことで
さすがにまずいと思ったのか、聖は隣の家に
どうしたらいいのか、トミコは困り果ててしまった。
隣のお兄さんが
「聖君、ここにのらくろを置いておくぞ」
しばらくすると、押し入れの戸がわずかに開き、聖の手が
何にしても一度「いやじゃ」と言い出すと、もうおしまいだった。てこでも動かなくなる。それは、聖が手にしている
いつもテレビのアニメにかじりついていた。あまりにも度がすぎるので祐司が聖の
聖の顔色がさっと変わり、外へ飛び出していった。しばらくすると、まるで
何事かと思い
あるときは
反抗することでも聖は
そんな聖の横暴ぶりを伸一はすべて許した。祐司や緑には厳しすぎるほどに厳格な伸一だったが、どうしても聖を
母は母で、父は父でそして兄は兄で、それぞれにどこかで聖に対する後ろめたさを持ちつづけていた。聖の抑えきれない苛立ちは、ある意味では自分たちの責任であるといつも感じていた。
重い病気の子供を持つ家庭特有の勢力地図が知らないうちに村山家にもでき上がっていた。聖はその力関係の上に君臨する王様のようにふるまい、またそうすることしかできなかったのである。
昭和51年4月1日、聖は府中町立府中小学校に入学した。学校は村山家から坂道を15分ほど歩いたところにあった。
小学校に入学しても聖の
お前は病気なのだから無茶しちゃいかんと伸一はことあるごとに言い聞かせたが、聖は耳を貸さない。3歳のころから兄の後をついて、山や川を駆け回った経験がいまは完全に裏目となっていた。思う存分に体を動かすことの喜びを幼いころに聖は知ってしまっていた。
そんな調子だったから聖が3度目の入院を
成長していくこととまるで反比例するかのような病気を、育ち盛りの聖はうまくコントロールすることができないでいた。ちぎられたまむしの
ちょうどこのころ、入院先の広島市民病院に院内学級が開設された。
府中小学校に入学してわずか1ヵ月で聖は地元の友達と別れ、広川学級という病院内の学校に転校することになったのだった。
学校といっても実態は入院生活そのものだった。
ある日、トミコが見舞いにいったとき、聖がぼそりと注文を出した。
「将棋の本を
トミコはいささか慌てた。
聖に本を買い
とりあえず広島でいちばん大きな古本屋にいってみることにした。そして、将棋の本を探した。
やがて、トミコは将棋の本が並んでいる一角を見つけ立ちどまった。そこにはトミコが想像していたよりもはるかに多くの、多種多様の将棋の本が並べられていた。トミコはその中からあまり迷うこともなく一冊の本を手にした。何の予備知識も情報もあるわけではなかった。ただ、病に
『将棋は
しかし、聖は白いシーツの上でむさぼるように読みつづけた。
「わかるんか。漢字なんか一つも読めんじゃろうが」と見舞いにいった伸一はある日、聖に
「漢字は読めんけど、でも大体のことは前後を何度も読みかえせばわかるんじゃ」と聖は
くる日もくる日も聖は『将棋は歩から』を読みふけった。それは少し進んでは前に戻り一字一字をかみ砕いてはまた進んでいくという、気の遠くなるような作業だった。
しかも、聖は伸一と何度か将棋を指したことがあるだけのまったくの初心者、あるいはそれ以前だった。
漢字も読めない小学1年生の聖がそれを読み進めることは、出口の決められていない海底トンネルを
しかし、聖は持ち前の集中力でそのトンネルを掘り進めた。そこに聖はいままでに何冊も読んだ物語にはない面白さを感じていた。書いてある内容を正確に理解することはできないが、子供なりに将棋というものの奥行きの深さや広がりを予感するのだった。
「母さん、また将棋の本を買うてきてくれ」
『将棋は歩から』を読破した聖はさっそくトミコに新しい注文を出した。そしてトミコは古本屋にいき当てもなく次の本を探す、そんなことが何度となく繰りかえされるようになった。
そのたびにトミコは古本屋の将棋の書棚の前で立ちつくす。とにかく、子供にもわかりやすそうな本、それだけがトミコが手にしているたった一本の
昭和52年3月、聖は小学2年生を目前にしていた。
病状は一進一退をつづけていた。
ちょっと元気になっては、はしゃいでまた熱を出す。くるくると同じ輪の中を走りつづけるはつか
主治医は病院の看護態勢に限界を感じはじめていた。子供たちにとって病院の広く長い
3月のある日、伸一は広島市民病院から呼び出しを受けた。
「病院で、聖君は少しもじっとしていてくれません」と医師は言った。
「このまま入院していても、悪くなることはないにしても
くるくるといつまで回りつづけても、結局は同じ場所を走っている、そのことに医者も本人も気づき苛立ちはじめている。環境を変えて、その輪の中からいったん降ろしてやるべきではないかというのが、主治医の見解であった。そして、国立
そこは広島市内から車で西へ1時間ほどの
そこで聖が本当に輪の中から降りられるかどうかは、伸一にはわからない。しかし、環境を変えたほうがいいという主治医の言葉に反論すべきものが何もないことも否定できない事実だった。
昭和52年6月6日、小学2年になったばかりの聖は伸一の運転する車に乗せられ原療養所に入院することになる。入院と同時にそれは聖にとって、早くも2度目の転校でもあった。
国立原療養学校は国道2号線を
第1、第2病棟は
第1病棟の5号室が聖の新しい生活の場となった。
闘病、遊び、勉学、子供たちの生活のすべては施設という閉ざされた空間で営まれ、ほとんどのことをその中で学んでいく。
建物の中が子供たちの世界であり、社会であった。友情やいたわり、けんかや
小学2年で入所した聖も最初のころは、けんかをしたり大事なおもちゃが
毎日の生活は規則正しいタイムスケジュールで営まれていた。
朝6時、
8時30分に隣の
10時から10時30分までは安静時間といって体を動かさずにベッドの上でじっとしていなくてはならない。
11時、自由時間。12時、昼食。
午後は1時から2度目の安静時間。
2時、午後の授業。4時、自由時間。5時、夕食。
6時から7時まで3度目の安静時間。7時、おやつと
8時、自由時間。9時、
自分に許される自由なスペースは、大部屋に並べられた6つの白いスチール製の小さなベッドのうちの一つ。
そこが聖の王国だった。
兵隊のような生活である。ただ、闘う相手が自分自身の中にあるということが大きな違いだった。
聖はありとあらゆることを、その小さなベッドの上で営まなければならなかった。しかし、5歳のころから入院生活に慣れている聖にとってそれはそんなに難しいことではなかった。
週に1度、伸一とトミコは面会を許され、自家用車で聖に会いにいった。毎週土曜日、それは聖が6年生になり退院するまで、ただの一度も欠かすことなくつづけられた。
療養所の生活に慣れてきた聖は再び将棋の本を読みはじめる。それも毎日、6時間から長い日は7時間。安静時間や自由時間を拾い集めて、そして時には就寝後の寝静まった部屋のベッドの上で、聖はむさぼるように将棋の勉強をつづけた。
なぜ、こんなに夢中になるのか誰にもわからなかった。もちろん本人にもわからない。ただそうすることに、聖は
このころ、聖は毎日、日記をつけている。
3月11日 はれ 22ど。
今日おかあちゃんが来たので話しを、ちょっとしました。そして、つぎにつめしょうぎを、一もんやりました。そして、やる間におかあちゃんは持ってきてくれたものをせいりしたりもってかえるものを出したりしました。そしてつめしょうぎをやっていると食じになったので食どうに行って食じを食べました。そして食べおわると、またへやにもどってつめしょうぎのつづきを、しました。おかあちゃんが答えを、見て王の方になってくれました。
そしてふと時計を見ると一時八、九分前なのでおかあちゃんといちおうサヨナラをしました。そしてちょっとたつとあんせい時間になったのでねました。そしておきると、ちょうどだったので手をあらってクーポンけんをもらって店へ行きました。おかあちゃんもついて来てくれました。そして二十五分ぐらいたつと、ぜんぶ買いました。そして用がすんだのでおかあちゃんとへやに帰りました。そしてつめしょうぎの答えを見るとあっていました。おかあちゃんが「ちがう」といってくれたのでわかりました。そしてクーポンで買ったおやつは百円のおこさませんべいと五十円のガムと十円のガムです。そして店のおばちゃんが十円オーバーしてくれました。
3月12日 はれ 22ど。
今日もスピードをたくさんの人としました。まず寺おかくんと、しました。つぎにハットリくんと、しました。そしてさいごに、石地くんとしました。そしてしょうぎのれんしゅうを朝から夕がたまで四、五時間しました。よるもしようと思います。
3月13日 はれ 22ど。
今日もしょうぎのれんしゅうを六、七時間しました。朝から夕がたまでです。そしてまだ、のこっているので夜、やろうと思います。あと二もんです。だから時間はあと一時間です。
3月14日 はれ 22ど。
今日十三ごうにいる山下くんとしょうぎをたくさんしました。ぜんしょうしました。そしてささきくんともやりました。これもまたぜんしょうしました。そして五手づみを三つやりました。そして今日戸田くんがかえって来ると一ばんにしょうぎをたのもうと思います。それはなぜかというと戸田くんがじょうせきをしっているので。
3月15日 はれ 22ど。
今日寺川君としょうぎを一かいだけしました。かちました。そしてたいくつなので外の方のしょうぎをたくさん見ました。そして人がしょうぎをしない時しょうぎのせめ方という本をべんきょうしました。そして今日、戸田くんとしょうぎを一かいしました。かちました。
日記には将棋のことばかりが
時を同じくして、病院のベッドと自室の蒲団の中という大きな違いはあるものの、同じようなスタイルで将棋にのめりこんでいく少年。
羽生と聖だけではない、全国にそのような少年たちが
聖は小学2年の終わりころにこんな作文を書いている。
ぼくはこの一年間のうちだいぶんしょうぎが強くなりました。それはなぜかというとたぶん、れんしゅうを何回もやったり、ぼくよりも強い人としょうぎを、たくさんやったせいだと思います。
だからこんどからもこれをつづけて行こうと思います。
そして、ぼくが今日の国語のノートと前の国語のノートを見るとかん字がすごくちがいます。なぜちがうかというと毎日かん字れんしゅうをやったからです。だからこれも、ずっとつづけようと思います。そしてぼくはいちばんはじめ日記をめんどうくさがって書きませんでした。
でも今ごろはちゃんと書くようになりました。
これもずっとつづけようと思います。そして今ごろからだんだん人がたいいんするのでさびしくなります。
でもそれはいっ時だけですぐに新しい人がはいって来ると思います。
たいいん、という言葉が病気の回復だけを意味しないということを聖は知っていた。
療養所の生活には身近で日常的な死があった。
幼い命はまるでプラモデルのように簡単に
それも
そのことに聖は気づいている。聖だけではなく施設の固いベッドの上で暮らす子供たちは
施設の隅にひっそりと建つ、
同室の男の子が死んだこともあった。
その子は重い
何時間かそんな時が流れた。やがて発作は収まり、苦しそうな呼吸音がピタリとやんだ。
部屋にはいつもの
朝、慌ただしい気配に目を覚ますと、子供はあとかたもなくどこかに連れ去られてしまっていた。
身近なそしてあまりにもあっけない死という現実を目の前にして、聖は静かに寝返りを打つしかなかった。
そんな現実に子供たちは苛立ち、大人への反抗は時として熾烈を極めた。
しかし、聖だけは少し違った。
将棋を知りそれにのめりこんでいくことによって聖の内面に大きな変化が現れていた。
聖が将棋という
聖にとって、将棋は大空を自由自在に駆け巡らせてくれる翼のようなものであった。
だから施設での生活もベッドの上の空間も、もうつらくはなかった。知れば知るほど、勉強すれば勉強するほどに広がっていく世界に聖の心は強くひきつけられた。しかも運のいいことに、聖が手に入れた将棋という翼は、多くの子供たちが
初心者向けの将棋の単行本を何冊も読破した聖は、小学2年の秋ごろに「将棋世界」という専門の月刊誌と出会う。それはトミコが聖の将棋の本を選ぶためにいつものように古本屋を
「将棋世界」に没頭し、そして相手を見つけては
毎日、何時間もかけて聖は「将棋世界」の詰将棋を解きそして
「将棋世界」を読みはじめたことをきっかけに、トミコは行き当たりばったりに将棋の本を探してさまよわなくてもすむようになる。ほしい本を聖が雑誌で見つけ注文をするようになったからだ。
たとえば『
それは週に一度しか会えないわが子に、少しでもさみしい思いをさせないように、母がいつも身近にいることを忘れないでいてもらおうと、トミコが考えついたことの一つだった。
どうしようもない癇癪持ちで、手を焼かせてばかりだった聖が将棋を知ったことによって明らかに変わっていた。療養所や病気というつらい現実も将棋にのめりこんでいく聖の集中力の前では、もう何の障害にもなっていないようにトミコには思えた。かえって、聖はその環境を将棋の勉強のために逆用しようとしているようにさえ見えた。
聖の姿に、病気や環境に負けない頼もしさが感じられるようになっていた。その強さも、結局は将棋に夢中になることで得たものなのかもしれない。
このころ、母の日に聖はトミコに
お母さん、一しゅう間に一ど来てくれてありがとう。いそがしいのによく来てくれます。そして電話も一しゅう間に二どもかけてくれるので、いっとき思いついたこともちゃんと電話でお母さんに言うことができます。
聖に指示されるままにトミコは将棋の本を買って歩いた。新聞の
子供が夢中になることに親が
小学3年の終わりの3月、聖は
最初はなかなか勝てなかったが、すぐにいい勝負をするようになった。聖の相手をしている大人の顔色がみるみる変わっていった。自分が苦戦しているからではない。実戦らしい実戦をほとんど指したことがないたった9歳の子供が、すさまじいまでの読みを繰りひろげることに驚いたからだ。
自分は三段である。三段といえばアマチュアのトップクラスであり、9歳の子供とは飛車角に桂香を落としたって普通は負けないはずだ。
しかし、いま現実に
この子は天才だ。本当はそう
ただ毎日6時間、本を読んでいただけである。日常の将棋の相手はほとんどが療養所の子供たちで
しかし、聖にしてみれば何回か勝ったことよりも負けたことのほうが納得がいかなかった。療養所に帰り一人ベッドの上で、
もっともっと強くなりたい。そう心の中で強く念じた。
もっともっと強くなって、名人になりたい。
そう思った瞬間、聖の胸はわけもなく熱くなった。名人という言葉が
名人になりたい。
聖は心の中でもう一度そっとそう
ベッドの上にあぐらをかき聖は「将棋世界」を取りだした。強くなるにはまた毎日何時間でも勉強をするしかない。何千題も詰将棋を解くしかない。そう考えるといてもたってもいられなくなったのだ。寝静まった病室で聖は月の明かりだけをたよりに詰将棋に立ち向かった。
今度家に帰るまでにもっと強くなって、そして必ず大人たちに勝ってみせる。
聖の胸はそれまでにない高揚感と希望に満ちあふれていた。強い人間の存在を知ることにより、将棋の奥深さと面白さに改めて気づかされたのである。
ただやみくもに本を読みあさっていたいままでとは違い、大人たちに勝つという具体的な目標ができたことが聖の胸をますます膨らませた。消灯後の寝静まった病室での将棋の勉強は聖の日課となっていった。
揺籃期を終えた聖がその才能を開花させるのには、そんなに時間は必要としなかった。次に帰ったときには前回の相手を破り、そして近所のもっと強い大人を
その相手に敗れても、次の外泊のときにはやっつけてしまう。
そんなことを繰りかえしているうちにいつの間にか近所には相手がいなくなってしまっていた。三、四段ではなかなか聖に勝てないのである。そして、ここにいってみたらいいと紹介されたのが、広島市内の中島公園の近くにある
昭和54年7月、10歳になったばかりの聖はこうして篠崎教室の門を叩いたのである。
腕だめし
篠崎
月に3回の外出日は必ず教室で将棋の
「これは、絶対に強くなる将棋じゃ」と篠崎は伸一に
負かされたある強豪は伸一に向かってこう
聖は篠崎からアマ四段の認定を受ける。小学4年生のアマ四段も驚きならば、はじめて認定された段が四段というのも聞いたことがない。そして何といっても、最大の驚きはまったく将棋を知らなかった超初心者が、本を読んだだけでこれだけの棋力を身につけてしまったという事実である。
昭和55年、11歳になった聖は第14回中国こども名人戦に参加して優勝する。そして、その優勝は第18回まで連続して5回つづくことになる。中国地区の子供の大会では聖の力は抜きんでていてもはや競争相手はどこにもいなかった。
聖の篠崎教室通いはそう長くはつづかなかった。
「ここにいても強くなれん」と突然に聖が伸一に言い出したのである。
聖にとっては月にたった3日しかない貴重な外出日である。そのわずかな時間を最大限に有効に使いたいという聖の気持ちは伸一にはよくわかった。問題は教室にはもう聖の目標になるような強いアマチュアがいなくなっていること。そして教室にくる子供相手に、聖のほうが駒を落として対局させられるというような機会が増えたことなどであった。
「もうあそこじゃ勉強にならん」
聖は強く伸一にそう
どうしたもんかと困り果てている伸一に会社の
広島将棋センターは
しかも、聖が通いはじめたころは、田尻を中心とする学生の強豪が
朝、早くに家を出て1時間かけて聖を原療養所に迎えにいき、そして広島市内に戻り将棋センターに連れていく。そこで午前中から夜まで聖は何番も将棋を指す。その間、伸一は道場の片隅で何をするでもなく、へたりこんで息子の対局が終わるのを待ちつづけていた。
羽生善治も同じころ、毎週日曜日に八王子将棋センターに通いつめていた。母親と妹と三人で朝早くに家を出て、善治は道場へ、母と
昭和56年。小学5年の3月、伸一につきそわれて聖は生まれてはじめて東京にいく。全国小学生将棋名人戦に参加するためにである。
土曜日に出て日曜日に帰れば、普通の外泊許可で東京へいくことができた。
広島から新幹線に乗り、6時間かけて東京に着いた二人は
将棋会館にずいぶんと早くたどり着いた聖は、そこにいあわせた同じ年くらいのお下げの女の子と将棋を指した。
広島では県代表とも互角に戦うほどの実力をつけていた聖だったから、同じ年の女の子なんかに負けるわけはないと思った。しかし、聖は
小学生名人戦といえばプロ棋士への
聖の相手をした女の子は後に女流名人となる
「やっぱり東京はすごいもんじゃ」
広島では大人たちも相手にならないほどに強くなった聖を苦しめる女の子を見て、伸一は驚きを隠せなかった。しかも聖は小学生名人戦で
聖を本戦トーナメントで破ったのは後に名人となる佐藤康光。しかしその佐藤もそして1歳年下で小学5年で参加していた羽生善治ですらも、その大会では優勝することはできなかった。
昭和57年、将棋界は一大
名人戦9
その出現はさまざまな意味で革命的であり、先人たちが築き上げた数々の常識をいともたやすく
とうてい無理と思われた攻めを決然と
たった一人の天才の出現により将棋界が受けの時代から攻めの時代へと転換していったのである。谷川の
谷川の出現はファンにも強い
わずか21歳の青年名人の誕生である。
その天才谷川浩司ですら加藤玉に詰みを発見した瞬間、とめどもない
終盤の詰めの決め手となった7五銀。駒台から放たれたその銀を谷川は真っすぐに盤上に置こうとしたが、手が震えてどうしても
谷川浩司という若き天才の出現により、将棋の考えかたという盤上のできごとにとどまらない大きな変化が確実に起きつつあった。
全国の子供たちがヒーロー谷川の姿に憧れ将棋を指しはじめたのである。子供たちの間で将棋は大ブームとなる。そしてその結果、底辺の広がりと必然的な競争の激化が生まれてくる。
昭和57年、後の将棋界の勢力図をそっくりと
小学校6年になった聖は文字通り将棋
聖が教わる相手は森安九段、当時は棋聖位を保持しているトッププレイヤーの一人だった。
「何枚落ちにしようか」と森安に聞かれた聖は「飛車落ちでお願いします」と
「それでいいの?」と森安はもう一度やさしい声で聖に問いかけた。
「飛車落ちでお願いします」と聖は表情を一つも変えずに再び答えた。伸一はそのやりとりをどぎまぎしながら聞いていた。森安の顔が明らかにむっとしているように見えたからだ。
5面指しの指導対局がはじまり、聖の将棋が最後まで残った。ほかの将棋はスイスイと駒を進めていく森安も、聖のところだけは少考を繰りかえした。
聖は
指導を終え観戦していた大人たちが一斉にため息を
森安は
これが聖のはじめてのプロとの将棋であった。
聖にとっては指導なんて何の意味もない。思いはただ一つ、目の前にある将棋に勝つこと、ただそれだけだった。強くなりたい、そして勝ちたい、その
昭和57年1月、聖は小学校2年から5年間にわたり少年時代の日々をすごした原療養所を出て家に帰ることになった。成長とともに体力がついて病気にある程度抵抗できるようになったこと、薬の進歩により症状を
5年ぶりに家に帰った聖は明らかに変わっていた。近所を駆け回ることも、トミコに反抗することもなくなっていた。ただ静かにひたすら将棋の勉強をつづけるのだった。
聖は府中小学校に転入し、わずか3ヵ月後には同校を卒業する。小学校卒業を記念した寄せ書きには「努力」と書き残している。
昭和57年、桜の
「お父ちゃん」
とぼとぼと二人で将棋会館から千駄ケ谷駅へ向かう道すがら聖が言った。
「なんじゃ?」
「もっと将棋が指したい」と聖がぽつりとつづけた。
「悔しいんか」と伸一は聞いた。
「うん」と言って聖は
その顔を見ていると何だか急に伸一は聖のことが不憫に思えてくるのだった。不意に
「よし、聖、父さんが道場を探してやる。新幹線の時間まではまだだいぶあるから、ぎりぎりまで指せばええ」と伸一は言った。
「本当か?」
どんなにか嬉しかったのだろう、聖の顔がパッと明るくなった。
何のあてもない二人はとりあえず千駄ケ谷の駅の公衆電話に備えつけてある電話帳を繰って将棋道場を探してみることにした。そして
西日暮里将棋センターは駅の近くの雑居ビルの3階にある小さな将棋道場だった。「段級はどのくらいですか?」と女性の
「じゃあ、とりあえずこの人とやってみてください」と席主は顔色一つ変えず手合いをつけてくれた。東京では四段の中学生なんて
しかし、聖はそんな弱くなりかけた気持ちをかき消すかのように、そして自らの壁をうち破るかのように勝って勝って勝ちつづけた。気がつくと結局道場にいた四段全員をことごとくやっつけてしまったのだった。
もう道場に聖の相手はいなかった。帰り
「彼ならこのむやみに強い中学生をやっつけてくれる」
注がれた視線がそう言っていた。
その巨漢こそは
席主から話を聞いた小池はにこやかに聖に近づいてきた。そして「
聖も小池のことは「将棋世界」で知っていた。プロにいちばん近い、いやプロすらも
「一局やろう」とぶっきらぼうに小池が言った。もちろん聖に異存はなかった。
何も言わずにコックリとうなずいてみせた。
二人の対局をギャラリーがぐるりと取り囲んだ。その輪の外から伸一も
大きすぎる体を丸めるように一心不乱に将棋盤に向かう小池には何ともいえぬ雰囲気があった。やはり強豪といわれる人間にはオーラのようなものがあるんだなあと、伸一は
将棋は小池の
小池の指先に力がこもっている。聖も気合よく駒を打ちつけ少しもそれに負けていない。
長い長い戦いを制したのは中学生の聖だった。小池が
「僕、強いなあ」と小池は敗戦に何ら悪びれることなく聖を
「はあ」と聖は少し照れたように笑った。
「がんばれよ」と小池は聖をやさしく励ました。
道場でのオープン戦とはいえ、向かうところ敵なしと恐れられていた小池重明に勝ったことが聖にもたらした自信は計りしれないものがあった。
広島へ帰る終電の時間が迫っていた。伸一は聖を
そのとき、手合係の女性が大学ノートを取り出しそこにサインをしてくれと言った。小池重明に勝った人には必ずサインをもらうことになっているというのである。
聖はそこにサインをした。何だかとてもいい気分だった。
広島に向かう新幹線の中で、聖もそして伸一も
小池重明を破った。それも、長時間にわたる力将棋の末。その事実が折れかけていた聖の翼を蘇らせた。アマ名人を破り、そして「強い」とうならせた。「僕、強いなあ」という
親族会議
広島に帰り府中中学に通う聖の心に一つの
「プロになりたい」
口には出せないが、聖の気持ちは日ごとに大きく傾いていく。
体調は悪くなかった。むやみに自分の体を動かしたり、無理をして疲れを
休息と決めたときには自分の近くに
広島将棋センターで聖は腕をめきめきと上げ、それに正比例するように体調もぐんぐんとよくなっていった。
そしてついに「奨励会にいきたい」と聖は伸一の前で口にするようになる。一度、言ってしまえばそれはもう禁断の箱を開けたようなものだった。
「大阪にいって、奨励会に入りそしてプロになる」
聖はうわ言のようにその言葉を繰りかえすようになった。
伸一は困った。別にプロになることや、名人を目指すことに反対しているわけではない。
聖の病気を宣告されたあの日から、伸一には一つの決心があった。それは「聖にはとにかく何でも好きにやらせてやろう、好きなように自由に生きさせてやろう」というものだった。
聖の病気を甘くみて、こんな不自由な生活を
ただ、伸一が
そんなことを伸一は遠回しに言って聞かせようとするのだが、まるで効果がなかった。
そこで、伸一は一計を案じた。
親族会議を開き、そこで聖の奨励会入りに反対してもらおうというものである。幸い、自分の兄弟は皆学校の教師をしている。聖の
親族会議は昭和57年9月10日、伸一の妹の家で行われた。義弟は中学校長、部屋には教師がずらりとそろっていた。その席でまず、伸一とトミコは奨励会入りに反対した。理由は体調管理のことであった。集まった親戚たちも、それに同調し伸一の読み筋通りに会議は終わるはずであった。
と、そのとき。
「いかせてくれ」と聖が皆の前で頭を下げた。
「頼みます。僕を大阪にいかせてください」
しかし、そう言ってもなあ、健康がいちばんだからなあ、というようなことを誰かが言った。
そのとき、聖はひるむことなく教師をしている大人たちの前でこう言い放った。
「いかせてくれ」
そしてつづけた。
「谷川を倒すには、いま、いまいくしかないんじゃ」
それは、
会議は水を打ったように静まりかえった。伸一もトミコもどぎまぎして何も言い出せなかった。
聖はあせっていた。目標は谷川浩司ただ一人である。将来の名人を倒すには13歳の聖には一刻の
いまからでも
学生服を着た聖は
「谷川を倒すにはいまいくしかないんです。お願いです、僕を大阪にいかせてください」
その純粋で
「
長い
「中学1年生が自分の意志で自分の将来の目標を決めるなんてなかなかできないことだ」
広島市内のマンモス中学の校長をしている義弟は、当時急速に全国の学校に広がりつつあった校内暴力に頭を悩ませていた。それと同時に学校内に
「うちの学校によんで、皆の前で聞かせてやりたいぐらいじゃ。うちの学校にもこんな生徒がほしい」と、聖の強い意志と明確な目的意識に裏づけられた言葉に感服してしまったのだった。
その義弟の言葉を境にすっかり親族会議の雰囲気が変わってしまった。一人、二人と聖がそこまで決心しているのなら親として最大の支援をするべきではないかと、逆に伸一が説教される
会議という名目で聖の進路について話し合うために集まってもらった以上は、伸一としてもそこで提示された結論を無視するわけにはいかない。説得するために集まった大人たちが中学1年生の聖に逆に説得されたような形になってしまったのである。
〈谷川を倒すにはいまいくしかない〉。その言葉と強い信念をもって、聖は自らの力で自分の進むべき道の
そうと決まれば伸一も動かざるを得なかった。翌日にはさっそく、篠崎に連絡しプロを目指したい
しかし予期せぬ言葉が篠崎の口からこぼれ落ちた。
「まだ早い」というのである。もうちょっと、地元広島で力をつけてからでも遅くはないというのが篠崎の意見であり結論であった。
当然、聖は伸一に食い下がった。伸一も腹は決まっている。篠崎が
本多は聖の奨励会入りに賛成してくれた。そして、本多が幹事を務める、広島将棋同好会支部の
本多から広島の有望な少年がプロ入りを希望しているとの連絡を受けた下平は、その旨を東京奨励会幹事の
「広島の村山という子なんだけど、どうだね森君、君も弟子の一人ぐらいとってみてもいいんじゃないの」と滝はざっくばらんに森にもちかけた。
「わかりました。とりあえず会ってみます」と森は答えた。森のその答えは滝、下平、本多と伝わったルートを逆流して伸一のもとへ届けられた。聖はトミコに連れられて大阪の森を訪ねる。
昭和57年の初秋のことである。
大阪の関西将棋会館道場で、聖と森ははじめて対面した。
ネフローゼで青白い顔はむくんでいた。手も足も
「あのなあ」と森はやさしい声で言った。
「
それが森と聖のはじめての会話だった。
ワイシャツの
「はあ」と聖は頭をかいた。
「この子は冬でもこうなんです。
聖の代わりにトミコが答えた。しかし、師匠になろうかという人とはじめて面接するときに裸足で現れるものだろうか。一緒についている親は何で注意しないんだろう。
そんな森の疑問を
「この子、一度いやじゃといったら、私の言うことなんか聞くもんじゃなくて」
そう
森は不思議な感覚にとらわれていた。
お母さんは
森は
将棋のテストは行わなかった。
この子を弟子にする。森は会っただけで瞬間的にそう決めていたのだった。
それは師と弟子の不思議な、そして運命的な出会いだった。
11月に大阪で聖は森門下として念願の奨励会試験に
この日、大阪では佐藤康光、東京では羽生善治、森内俊之、郷田真隆、丸山忠久ら後の将棋界を
奨励会試験を終えて広島に帰った聖は、以前にも増して
「名人になるんだ」と叫びながら毎日毎日、
明確な目標があり、そのための努力があった。そんな単純な図式が心地よく、聖の心は
しかし、突然聖の体を蝕んだネフローゼのように、思わぬ問題が湧き上がり聖のゆく手に立ちはだかろうとしていた。
ある日、大阪の理事から森の部屋に電話が入った。そして、村山の入会は見合わされることになるかもしれないと言うのである。
森は耳を疑った。「何でですか」と言う自分の声が震えているのがわかった。
理事の説明によると、京都の
そう説明されても森には何がどうなっているのかさっぱり見当がつかない。「どういうことですか」と聞きながら、何か
理事の話によると、村山は森ではなく本来は灘の弟子なのだということである。
伸一が最初にプロ入りの相談をもちかけた篠崎が、奨励会時代からお
森にしてみれば
プロ入りはまだ早いと言いつつも、篠崎はきたるべき聖のプロ入りを準備していたのである。それに篠崎には、聖は自分が
灘蓮照九段といえば当時の関西を代表する名棋士である。
灘にしてみれば四段になりたての森はひよこのようなものであった。
自分が親友から頼まれて、弟子にしたはずの子供がなぜか、森門下で奨励会試験を受けている。それは灘には
森は困り果てた。篠崎や灘の怒りはもっともである。しかし、自分は何の事情も知らなかった。それに、それはすべて大人の世界の話であり村山君には何の罪もないじゃないか。そう思い、森は師匠の
だいたいの情報をつかんだ森はすぐに広島へ飛んだ。篠崎に会うためにである。
森は篠崎の教室を訪ね、そして
「何とか村山君を奨励会に入れさせてやってください」と何度も何度も頼みこんだ。
森の誠意が通じたのか、わかったと篠崎は言ってくれた。
胸の中の氷が解けるような思いで森は新幹線に乗り大阪へ帰った。「よかったなあ、村山君」と心の中で何度も叫んでいた。明日の朝、いちばんで電話をかけてやろうと思った。
しかし、森が電話をかけるより先に森の部屋の電話が鳴った。
妙な
「昨日はああ言ったけど、もうわしの力じゃどうにもならんのじゃ。この問題はわしの手の届かないところにいってしまっておる。悪いけどもうどうもできんのじゃ、わかってくれ」
そう言って電話は切れた。
それならば、と森は思った。残る手段はただ一つ、灘に直接かけ合うしかない。
森は意を決して灘に電話をかけた。電話口に出た灘は低い声で森にこう言った。
「あきらめろ。これ以上このことで
このひとことで森の腹は決まった。大人たちの
斬られようが、将棋界を追放されようが自分はどうなったっていい。もし村山君が将棋界に入れないようなことになれば、そのときは自分も将棋をやめよう、そう決心したのだった。
考えてみれば、この1週間ろくにものも食べずに、ほとんど
弟子という言葉が胸に
村山君はわしの弟子や。はじめてのわしの弟子や、どんなことがあっても守ってやらな……。
そう思う気持ちと自分の無力さ、その
翌日から森は作戦を変えた。
心の底から、怒りがこみ上げた瞬間、森は冷静になった。
不合格を受け入れよう。その代わり、来年の試験に何の
森は師匠の南口に調停を頼んだ。こちらの非を認め今年の入会は断念する。しかし、来年は水に流して自分の弟子として再度受験させてやってほしいというものだった。
その調停案は功を奏した。灘にしても、たかが子供一人のことにいつまでも
森は村山家へ無念の報告をした。
「今年は
伸一はそのことを聖に告げた。そして森から聞いたことを包み隠さず教えてやった。
森が聖を電話口に呼んだ。
「つらいだろうけど、
森の言葉をじっと聞いていた聖がはじめて口を開いた。
「どうして、どうして僕、奨励会に入れないの」
「しかたないんや。将棋界はいろいろ
「どうして?」と言った聖の声がみるみる涙ぐんできた。
「どうして、僕」と言ってとうとう泣き出してしまった。そしてわんわん泣きながらつづけた。
「奨励会に入れないの」
聖の無念の気持ちは森には痛いほどわかった。試験の成績は
「来年、来年や」と森は聖に語りかけた。
「どうして?」
泣きじゃくりながら、聖はやっとその言葉を振りしぼった。その言葉は森の心の奥深くを鋭くえぐった。
「とにかくいまは我慢してや」
そう言って森は静かに受話器を降ろした。
その夜、聖は血相をかえ伸一にいますぐ篠崎教室へ連れていってくれと言い出した。
「
もう、どうにもならないことは伸一にはわかっていた。しかし、大人の一方的な理屈で夢を打ち砕かれた聖の納得のいくようにしてやるしかないと思った。自分が篠崎に電話を一本入れていれば、何の問題も起きずにすんでいたのかもしれないのだ。そう思い、伸一は聖を車に乗せて、トミコと一緒に篠崎教室の近くの
篠崎が喫茶店に現れるなり聖は深々と頭を下げた。
「お願いします。一生のお願いです。僕を奨励会に入れてください。そうなるように、してください」
しかし、篠崎の答えはつれないものだった。
「そうしてやりたいのはやまやまだが、もうわしにもどうすることもできんのじゃ」
それは正直な篠崎の気持ちだった。
「わかってくれ」
そう言うと篠崎はそそくさと喫茶店を出ていってしまった。
沈黙の時が少しだけ流れた。
「僕は何も
喫茶店に残された聖は父と母の前でそう言った。
「何も恐くない」
もう一度そう言った目にみるみる涙があふれ、病気でむくんだ
「恐いのは大人じゃ」と言ってわんわんと泣き出した。
両手の拳を握りしめ、自分の
「僕は病気だって死ぬことだって恐くない。恐いのは人間じゃ、人間だけじゃ」
そう言ってとめどもなく流れる涙をぬぐおうともせずに泣き叫んだ。
「大人は
頭がおかしくなってしまうのではないかと心配になるほどに、聖は泣いて泣いて泣きじゃくった。
伸一もトミコも、気が触れたように泣くわが子をどうしてやることもできなかった。
幼い日から、病院で暮らしてきた聖のことを伸一は思った。
将棋を知るために、強くなるために自分をコントロールし、ありとあらゆる努力をただの一日も欠かさずにつづけてきた。誰の力も借りず、そうやって聖は自分の道をたった一人で切り開いてきた。しかしまるでそのゆく手を閉ざそうとしているかのような大人たち、そしてそれを
「人間は
どんなに泣いても叫んでも、聖の悲しみは止まらなかった。
木から
1年、と大人は簡単に言う。しかし、同じ1年でも意味が違う。自分にはわかっている。時間がないということが、健康な人間たちとは与えられている時間の絶対数が自分には不足しているということが。もしかしたら、生きてさえいられないかもしれない気の遠くなるような1年。それをいったいどんな思いで待てというのだろうか。
「大人は嫌いじゃ」
もう一度聖は体の奥底からしぼり出すような声でそう叫んだ。それは魂を揺るがすような切ない叫びだった。そして、聖の
ぜんまいが切れたおもちゃのように、聖はぐったりと気を失ったように静かになった。泣きやんだのではなく、もう泣くことすらできなくなったのである。
翌日から聖は寝こんだ。
奨励会入りを目前にして、光り輝いて見えた自分の道が突然姿を消した。名人位が目に見えないところに遠ざかってしまったように思えた。その夜を境に中学入学以来、何の問題もなかった聖の体調に異変が起きた。熱がつづき、体は重く動かない。悔しさと
そのすきを
ネフローゼ再発。
病院で医師から
いまいかなければ間に合わない、それどころか自分が歩く道すら閉ざされてしまっていた。
病院のベッドの上で、窓から差しこんでくる月の光をぼんやりと聖は眺めていた。何をする気力も起きなかった。ただ、時間がすぎてくれることだけを願っていた。
あまりにもつらい、秋。
昭和57年、聖は13歳の落ち葉の季節をどうしようもない
聖の翼はもう少しで折れてしまいそうだった。
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