純粋さの塊のような生き方と、ありあまる将棋への情熱――【大崎善生『聖の青春』試し読み】

文芸・カルチャー

公開日:2024/3/21

2024年3月の角川文庫仕掛け販売タイトルとして、新オビでの展開(※)がスタートした大崎善生さんの『さとしの青春』。これにあわせて、第1章がまるごと読める試し読みを公開!
ぜひこの機会に、気になる物語の冒頭をお楽しみください!

※新オビの展開状況は書店により異なります。

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第1章がまるごと読める!
大崎善生『聖の青春』(角川文庫)試し読み

あらすじ
重い腎臓病を抱えつつ将棋界に入門、名人を目指し最高峰リーグ「A級」で奮闘のさなか生涯を終えた天才棋士、村山聖。名人への夢に手をかけ、果たせず倒れた“怪童”の生涯を描く。

 プロローグ

 ゆうは何度も何度も後ろをりかえりながら緑深い山道を登っていった。10人の子供たちは、元気に自分の後ろを歩いている。
 どうしても気になるのは、いちばん後ろからちょこちょことついてくる、もうすぐ4さいになる弟の存在だった。広島市に囲まれたぐんちゆうちようの自宅から歩きはじめて、もう3時間は経過している。11歳になる祐司でさえあしこしにけだるいろうを感じはじめていた。
 しかし、3歳のさとしはひょいひょいと軽快な足どりでぶように山道を歩いている。
「たいしたもんじゃ」とその姿を確認するたびに祐司は弟の体力と気力に感心した。
 近所の子供たちで編成されたパーティーは家から6キロほどはなれたちやうすやまの頂上をめざして、山深くのさわづたいを歩いていた。
 昭和48年、広島の初夏のことである。
 さわがにりながら山を登ろう、という祐司の呼びかけに近所のわんぱく10人が参加した。このようなかくを立てると、必ず「ついていく」と言い張る聖もいつしよだった。
 茶臼山はそんなに険しい山ではないが、何しろ家からは遠く道のりは長い。しかし、何度となく山登りをともにしている祐司は聖のことをそんなには心配していなかった。
 やまあいに流れる小川を見つけては、じゃぶじゃぶと入りこんで川石を引っくり返す。するとまるで蜘蛛くもの子を散らしたように、石のかげかくれていた沢蟹が縦横に走り出す。それを手でわしづかみするのである。そんな単純な方法ではあったが沢蟹はおもしろいようによく捕れた。捕るだけ捕ると、それをビンにめてまた山頂に向かって移動していく、そして手ごろな沢が見つかればまた沢蟹を捕る、そんなことをりかえすのである。
「ぎゃーっ」
 川で何度目かの沢蟹捕りをしているとき、後方からとつぜん切りくような聖の悲鳴が聞こえてきた。うつそうとした緑に囲まれ、静まりかえった山の中にその声はひびわたった。
 祐司はあわてて聖のところへけ寄っていった。
「お兄ちゃん、これ何じゃ」
 聖は目をまん丸くして祐司を振りかえった。
「これ何じゃ」と指す聖の指先がきようふるえていた。3歳の聖にはそれが何であるかは理解できなかったが、何かおそろしく危険なものであることは本能が教えていた。
 弟の震える指先のわずか30センチ先の岩の上で、大きなへびがとぐろを巻き、いまにもおそいかからんばかりにかまくびを上げていた。
 暗い灰色をしたその蛇は、身体中がとくちようのあるぜにがたもんようおおわれていた。
「動くなよ、聖」
 ごくりとつばを飲みこむと祐司は低い声で命令した。
「わあー、まむしじゃー」
 子供たちはいつせいさけび声を上げると、いちもくさんに沢からすぐ上を走る登山道まで駆け上がっていった。
 川辺には二人の兄弟と一ぴききよだいなまむしが残された。
 聖はことの重大さが理解できずにきょとんとしている。
 祐司はまむしを興奮させないように少しずつ聖ににじり寄っていった。全身からき出すあせがポタポタと川石の上に落ちた。
「聖、じっとしとけよ」
「どうしてじゃ」
「いいから。じっとしとけ」
「わかった」
 目の前で子供に指を差されたまむしは興奮状態にあり、いつでもしゆうげきできる体勢を整え、いつしゆんのすきも見せない。
「いいか、聖。そいつから目を離すな」
「ああ」
「そいつをにらんだままそこから少しずつゆっくり後ずさりせい」
「こうか?」
「そうそう。油断するなよ」
 そろりそろりと近づいていく祐司の手が、後ずさりする聖の背中にやっと届いた。まむしはまるでわずかなすきをうかがうような目でかくの動作をつづけている。
 祐司の足はがくがくと震えた。しかし弟を思う気持ちが恐怖心を行動に変えさせていた。
 聖を後ろからかかえ上げると、祐司はだつのごとくその場からげ去った。自分でもどこからそんな力が出てくるのかわからなかった。
 安全な場所に立って沢を見下ろすと、まむしはどうだにせずに、相変わらず岩の上でとぐろを巻いている。
 だれかが石を投げつけた。
 それをきっかけに子供たちが一斉に投石をはじめた。しかし、見た目よりきよがあるのか石はなかなか届かない。石が岩にぶつかる音だけが山の中にむなしくこだました。
 祐司も大きな石を拾い、力いっぱい投げつけた。するとどうしたことか、祐司の投げた石だけはまるでそうなることが運命だったかのように一直線にまむしに向かって飛んでいき、にぶい音をたてて命中した。
「やったー」
 子供たちがじやかんせいを上げた。
 まむしのどうたいがちぎれて吹き飛んだ。
 そのようすを祐司と聖はかたをのんで見守っていた。石が命中した瞬間、まむしは無機質な視線にいかりをこめ自分と聖をにらみつけたように祐司には思えた。
 岩の上には無残に分断されてしまった胴体と、まるで悲鳴のかわりのような真っ赤なせんけつが飛び散っていた。
 しかし、まむしは動きはじめた。ちぎれた下半身を振りかえろうともせずに岩からすべり降り、ぎくしゃくとやぶのほうへといはじめ、やがて深い緑の中へと完全に姿を消してしまったのだった。
 祐司が計画を立てたこの日のハイキングは無事に終わった。沢蟹も大漁で子供たちはそれぞれの家へ戦果を持ち帰った。
 聖も最後まで誰にめいわくをかけることもなく、5時間にもおよぶ行程を自力で歩き通したのだった。
 しかし、その夜に異変が起きた。
 ようしやない高熱が突然、聖に襲いかかったのである。それは手足がしびれて動かなくなってしまうほどのはげしい熱だった。
 3歳の子供には確かにきつすぎる山登りだった。もちろんそのつかれがあったのかもしれない。しかし、祐司は自分が投げた石によって体の半分をちぎられながら、藪の中に這いこんでいったまむしの姿を忘れることができなかった。
 この日を境に聖と病気との長い長いたたかいの日々ははじまることになる。
 そして祐司は祐司で自分の投げた石が弟にわざわいをもたらしたのではないかという疑念からのがれられなくなる。
 まむしののろい、そんなことがありえないとはわかっていても、まるでしつこい耳鳴りのように振りはらっても振り払っても、いやそうすればするほどその言葉が祐司の脳裏に焼きつき二度と離れなくなってしまうのであった。
    *
 平成10年8月8日、一人のが死んだ。
 むらやまさとし、29歳。しようかいさいこうほうであるA級にざいせきしたままの死であった。
 村山は幼くしてネフローゼをわずらいその宿命ともいえるしつかんとともに成長し、れつじゆんすいな人生をまっとうした。かれの29年は病気との闘いの29年間でもあった。
 村山は多くの愛に支えられて生きた。
 肉親の愛、友人の愛、そしてしようの愛。
 もうひとつ、村山を支えたものがあったとすればそれは将棋だった。
 将棋は病院のベッドで生活する少年にとって、限りなく広がる空であった。
 少年は大きな夢を思いえがき、青空を自由にそしてかつたつに飛び回った。それははるかな名人につづいている空だった。その空を飛ぶために、少年はありとあらゆる努力をし全精力をかたむけ、たぐいまれな集中力と強い意志ではばたきつづけた。
 夢がかなう、もう一歩のところに村山はいた。果てしない競争ととうを勝ちき、村山は名人へのとびらの前に立っていた。
 しかし、どんな障害も乗りえてきた村山に、さらに大きな試練が待ち受ける。
 進行性ぼうこうがん

 私は昭和57年に日本将棋連盟に入り、十数年にわたり将棋雑誌編集者として将棋界のもっとも近くで生活してきた。昭和57年といえば、村山がはじめて将棋界の門をたたいた年であり、よしはるとうやすみつが、その後の将棋界の地図を大きくえるしゆんえいたちが続々とプロ棋士の養成機関である奨励会に入会した年である。激動する将棋界を、将棋雑誌を作りながら間近で見つづけてきた。
 その中でも、強く心に残っている棋士が村山聖である。
 やさしさ、強さ、弱さ、純粋さ、ごうじようさ、ほんぽうさやせつなさといった人間のほんしようを隠すこともせずに、村山はいつも宝石の原石のような純情なかがやきを放っていた。
 村山はその豊かな人間性で人をりようしてやまなかった。
 父しんいち、母トミコ、師匠もりのぶ。村山のそばにはいつもけたはずれにがんな人間たちがいた。村山はその力を借りて、ときにはにんさんきやくのように、そしてときには自分だけの力で史上最強のライバルたちとの闘いを繰りひろげていった。
 つらい日々もあった。
 胸おどるときもあった。
 本書はその愛と闘いの記録である。
 これは、わずか29歳で他界したな天才棋士村山聖の青春の物語である。


第一章 折れない翼

 発病

 昭和44年6月15日午後1時15分、広島大学付属病院でむらやまさとしは誕生した。父しんいち、母トミコにとって長男ゆう、長女みどりにつづく3人目の子供だった。
 臨月のしんだんでトミコはレントゲン写真を医者から見せられた。そこにはたいの大きな頭がこつばんにつかえるようすがはっきりと映し出されていた。
ていおうせつかいになるかもしれません」とトミコは医者に念をされる。体重30キロ台の母親のきやしやな体には通常ぶんべんはぎりぎりの線だった。
 しかも、トミコにはかんぞうの持病があった。げんばくこうしようである。投下当日、12さいのトミコは広島県北の田舎いなかに集団かいをしていたために、最悪の事態はまぬかれた。しかし、その後広島市内にもどりそこでばくする。こうはんに広がった放射能の見えない手が確実に少女の体をむしばんでいたのだった。後遺症は主に肝機能障害という形で現れ、その後のトミコの人生はそれとのたたかいの日々でもあった。
 帝王切開という医者のすすめにトミコはついに首を縦にらなかった。うめき声を上げながらもかたくなに自分の意志をつらぬき通す母の姿にやがて医師も決意を固めざるを得なくなった。
 精神と肉体の限界すれすれの苦痛が何時間もトミコをおそった。しかし、トミコは医師もおどろくようなきよう<外字>じんな精神力でがんばりぬいたのである。
 母と子の長い長い闘いがやっとしゆうを打ったのは午後1時過ぎのこと。さんづいてから10時間がすぎようとしていた。
「男の子ですよ」という看護婦の声がトミコのもうろうとする意識のかたすみひびいた。
 ひときゆうおいて、赤んぼうは母をはげますかのように元気なうぶごえを上げた。3500グラムという母を苦しめた数字は、生まれてしまえばもう母のほこりへと変わっていたのだった。

 広島の梅雨つゆないかいからの湿しめり気を帯びた海風のえいきようでひときわ湿しつがひどく、まるでやむことを忘れたかのようにいつまでも雨が降りつづく。
 6月の木々の緑はそんないんれていた。
 次男誕生の知らせを伸一は広島市内にある会社で聞いた。昼食を終え、自分のデスクでぼんやりと雨のうたを聞いているときだった。
 昭和11年に大阪で生まれた伸一は、その後父親の仕事の関係で広島に引っす。そして広島県立工業高校から広島大学理学部物理学科へと進学し、エンジニアとなった。工業高校から広島大学に進学するのは年に一人かせいぜい二人、高校の授業しゆうりよう後に補習校に通い、古文や漢文や英語など学校では学べない勉強をしなければならなかった。そんなハンディを伸一は一つ一つこつこつとした努力でこくふくしていった。
 大学を卒業し県立の研究所に入所した後、なかば引きかれるような形で市内の会社に転職した。そこで、3歳年上のトミコと出会いこいに落ち、そしてけつこんした。
 聖が生まれたころ伸一は人生の絶頂期ともいうべきときをむかえていた。30歳までは勉強と仕事ひとすじの人生だったが、このころ急に酒の味を知り、マージヤンを覚えた。会社のどうりようと酒を飲んでは、てつで麻雀をしジヤンそうから出社という日々がつづいていた。はじめて知る遊びのけだるさが伸一にはしんせんな喜びに感じられ、そんな生活をしながらも職場では少しも手を抜くことなくバリバリと働く自分をひそかに誇りに思っていた。
 雨の音を聞きながら、伸一は生まれてきたばかりの次男の名前を考えていた。今日も徹夜明けだが、頭はしゃっきりしている。
 しようとくたいの中から一文字いただこうか、ふとそうひらめいた。
 職場や雀荘で「わしのおくりよくは聖徳太子のようなもんじゃい」といつも部下たちをからかったりったりしていた。そのことを不意に思い出したのである。その中でも、聖という文字の美しさに伸一はかれた。形といいふんといい、実にきれいな文字だと思った。机の上のメモ用紙に「村山聖、村山聖」といくつも書いてみる。何ともりゆうれいないい座りであると伸一は一人なつとくした。
 しかし、キヨシとかヒジリとかいう読みかたはどうもピンとこない。
「どうしたもんじゃろう」
 窓外に広がる6月の緑をながめながら伸一はうでを組み煙草たばこをくゆらせ、考えあぐねていた。
 しばらくそうしているうちに漢和辞典で読みかたを徹底的に調べ上げてみたらどうだろうかというアイディアがかんだ。何か見つかるかもしれない。
 伸一はデスクの漢和辞典を無我夢中でった。そして、聖と書いてサトシと読むことを知った。
 これだ、と伸一は心の中でかいさいを上げた。「むらやまさとし、むらやまさとし」と今度は何度も声に出してみる。いい響きだなと伸一は思った。
 6月の雨のように迷う必要は何もなかった。

 村山聖が生まれた昭和44年はアポロ11号で人類がはじめて月面に降り立った年である。
 日本国内では東大ふんそうが激化し、やすこうどう事件へと発展していった。のちのあささんそう事件につながるせきぐんの暴走が表面化し、若者を中心とするよく運動が大きなかべにぶつかった年でもある。
 日本は急激な経済成長下にあった。
 そのことをおうし、またある部分ではそのことにとまどっていた時代といえるのかもしれない。
 広島の街も空前の好景気にいていた。
 マツダの車がばくはつてきな売れ行きを示し、トヨタ、日産に次ぐ3番手にのし上がっていた。マツダには勢いがあり次々と設備投資の手を広げ、それが広島県全体に活気と富をもたらしていた。
 100年は草木もえないといわれた原爆投下の日から20年以上の月日がすぎ、広島の街は復興という言葉と現実にあふれかえっていた。
 そんな活気ある広島のぐんちゆうちようで聖はすくすくと成長をげていった。
 夜泣きもせず、お乳はぐいぐいと飲んだ。腹を下すことも、熱を出すこともなく健康そのものだった。まったく手のかからない、親にとってはこれ以上ないくらいに愛らしい赤ん坊だった。
 歩けるようになると、いつも近所の友達の家で遊ぶようになった。人見知りもせず、だれにでもあいきようよくふるまい、また誰からも好かれる子供だった。
 聖が2歳のときに伸一は家を買った。それまで住んでいたいそアパートという、ばんきん工場の2階にあった共同住宅では親子5人が暮らすにはぜますぎたからである。
 新居は府中町のさくらおかという新興住宅地に新築したいつけんだった。小さな山にうように広がる、日本国内どこにでもあるような住宅地で、村山家はそのてっぺん近くにあった。
 3歳になるころには、祐司は聖をどこにでも引っ張り回すようになる。野に山に川に、兄弟は風のようにけ回った。
 幼少時の聖がほかの子供と変わったところがあったとすれば、それは集中力である。一度何かに集中するとすさまじい力を発揮した。
 大人でもふうふういうような山を登ることができたのも、兄の背中についていくというその一点に集中していたからである。聖にとってそれは登山ではなく、兄からはなれないという作業だった。
 じっとしておれ、と伸一がたのむと何十分でもじーっとしていた。それは静かにすることに集中してしまった結果であった。
こいをつかまえるんじゃ」と言って池に飛びこんでしまったこともあった。ちゆうごしで水につかったまま、1時間以上も聖は手で鯉を探りつづけるのだった。
 聖がねむるときにトミコはいつも童話を読んで聞かせてやった。「りゅうの目になみだ」や「ごんぎつね」などである。聖は物語が好きで、何も言わずに聞き入っていた。あまりにも悲しい話で、読み手のトミコがつい泣き出すと、聖もいつしよになって泣き出してしまうのだった。
 トミコはそんな聖がいとおしくてたまらなかった。こんな母と子の幸せな時間がいつまでもつづくことを密かにいのらずにはいられなかった。
 こうして両親と二人の兄姉の愛に囲まれて、聖はへいぼんではあるが幸せな幼年期をすごした。
 しかし、それはあまりにも短い期間だった。3歳の初夏、ちやうすやまから下山したその日に聖のへいおんな日々はとつぜんしゆうえんを迎える。

 生まれてはじめてまむしにそうぐうした夜、はげしい高熱が聖を襲った。仕事から帰った伸一を待っていたのはうんうんとうなり声を上げる息子むすこの姿だった。ひたいに手を当てると、火にかけたやかんのように熱い。とりあえず、家に買い置いてあるはんねつざいを飲ませることにする。しばらくすると、熱は引くのだがすぐにまたそれ以上のもうでぶりかえすのである。
 朝を待ち、近所の医者に駆けこんだ。
 風邪かぜという診断だった。しばらくは医者に通いやがて風邪は完治した。
 それからはまたいつもの元気な聖が戻ってくるはずだった。しかし、どうもようすがおかしい。あんなに元気だった聖がしょっちゅう熱を出すようになっていた。そのたびに医者に連れていくのだが、医者の診断はいつも判で押したように風邪だった。
 熱を出しては医者にいき、風邪薬をもらって帰ってくるということが何度かつづいた。その間も無理をして聖は保育所へ通い、近所の子供たちと遊んだ。しかし、3歳の夏、山に登り高熱を出す前の聖とはどこかがちがっていた。
 体のおくそこから発散するような健康なかがやきはかげりを見せていた。元気といえば元気なのだがしかし、いつもどこかけだるそうで、何かをかばっているように見えた。
 昭和49年の6月、5歳の誕生日を迎えたばかりの聖は、ひときわひどい高熱に襲われた。
 はしかだった。しかし、それもほどなく完治した。ところが、治った後もどこかようすがおかしい。生まれてからただの一度も病気らしい病気もせずにすくすくと育ってきたこと、いつしゆんもじっとしていない4歳までの活発な印象が思わぬ油断を生み、かんせいとなって待ち受けていたのである。
 初夏のある日、仕事から帰宅した伸一は聖の顔を見て背筋にせんりつが走る思いをする。
 見慣れているはずの聖の顔の形が違っているように見えたのだ。伸一は確かめるために聖を目の前に立たせてみた。そしてさらにがくぜんとする。違っているように見えたのではなくて明らかに違っていたからである。
 熱のせいか薬のせいか、聖の顔は風船玉のようにふくれ上がってしまっていた。
「しまった」と伸一は心の中で舌打ちをした。聖の再三にわたる発熱を、わが子が送る危険信号をあまく見てしまっていたことにいまさらながらに気がついたのだ。約1年間、子供の発するサインをかんしてしまっていたのである。
 翌日、トミコは聖の手を引いて広島市民病院へと向かった。わが子の顔を見ればもう、風邪薬しか処方しない町医者にいく気にはなれなかった。そこでトミコは思わぬ病名を聞かされることになる。
「お母さん、これは大変ですよ」
 けん尿にようと簡単な診察を終えた後、白衣をまとった若いしようは顔色ひとつ変えずに言った。
「ネフローゼです」
 そして、ひとごとのようにつづけた。
「お母さん、大変な病気にさせてしまいましたねえ」
 そうか、とそのときトミコは思った。この若い医者は私に向かってこう言っている。母親であるあなたがこの子をこの病気にさせたのですよ。子供が病気になったのではなくて、親であるあなたがそうさせたのですよと。
 この言葉をトミコは胸に深く刻みこんだ。そして、一生忘れないでおこうと決心した。
 家に帰りトミコは伸一に聖の病名を報告した。それは、伸一にとってもはじめて耳にする病名だった。
 伸一は自分のかつさをいた。聖の元気さを過信していた自分。風邪と高をくくり尿検査もしてくれない町医者にたよりきっていた自分。その夜、伸一はどこの中でもんもんと自分を責めつづけた。
「あっちこっちいっておれば、医者の見立ても違っていたじゃろうに……」
 こうして父は父、母は母、兄は兄で、聖の病気に対するこうかいと責任の思いがそれぞれの胸の奥深くに根を張りめぐらせることになる。そして誰もがねむれない夜をすごす。
 昭和49年7月、村山聖5歳。
 広島のある長い夏の夜のことである。


 7月19日、聖は広島市民病院にきんきゆう入院することになる。ようだいはかなり重くわずかな予断も許さなかった。
 じんネフローゼは極度のろうや発熱がゆういんとなって起こる腎臓の機能障害である。はっきりとした原因はいまだに解明されていない。
 腎臓の果たす大きな役割のひとつにたんぱくしつを血液中に取りこむというものがある。ネフローゼを発病するとその装置に異変をきたし、血液中に取りこまれるべき蛋白の大半がはい尿にようという形で体外に流出してしまうことになる。
 血液中の蛋白質にはしんとうあつの調整という重要な役割がある。体内の水分は蛋白質ののうの低いほうから高いほうへと流れていく。
 腎臓の濾過能力が低下し、血液中の蛋白濃度がうすれることによって浸透圧のバランスがくずれ、水分が各さいぼうへと流出しはじめる。その結果、顔や手足が異様にむくみ出すのである。
 最悪のケースは肺に水分が流れこむ、はいすいしゆ。呼吸困難におちいり死亡することが多い。
 蛋白質は細胞のばんでもある。その蛋白質が不足すると白血球をはじめ、身体を守るめんえき細胞の供給が減少し、ていこうりよくが低下する。そのために、ちょっとしたことで高熱を発しやすくなるのだ。
 最高の良薬は安静にすること。何もせず何も考えずにジーッととんに横たわっているのが、もっとも効果のあるりよう方法なのである。しかし、それは同時に遊びたい盛りの子供たちにとっては、もっとも困難な治療方法でもあった。
 広島市民病院に入院した聖は1週間もしないうちに尿から蛋白がスーッと消え、たちまち元気を取り戻した。
 しかし、それからがこの病気の難しいところである。熱も引き体のだるさからも解放された子供は病気が治ったと思ってはしゃぎ回る。そして少し回復しては、遊ぶことに体力を使い果たしまた発熱というあくじゆんかんを繰りかえすことになるのだ。
 聖のはじめての入院もそんなことを何度か繰りかえし、結局退院したのは年のも押しせまった12月28日。入院した日からもう5ヵ月の月日が流れていた。
 病院から戻った聖は近所の元気な子供たちの先頭に立って、坂道を朝から晩まで駆け上がったり駆け下りたりの日々を送った。山にうように造られた桜ケ丘団地は、坂で成り立っているといっても過言ではなく、それは安静という宿命をかかえる聖にとって決して快適なかんきようではなかった。
「安静が第一じゃ」と伸一がいくら口をっぱくして言っても聖は何一つ耳を貸さない。
 それはある意味ではしかたのないことなのだろう。子供は子供同士でつかれ果て動けなくなるまで遊び、そうすることによって体力と社会性を身につけていくのである。それはねこたちがじゃれあいながらしゆりようの方法を覚えていくように、人間らしく成長していくために欠くことのできないことなのかもしれない。
 聖は人気者だった。特に自分より年下の子供たちへのやさしさやいたわりは誰もが感心するほどだった。くる日もくる日も、近所のわんぱくを引き連れて、病気なんかどこく風と活発に遊び回っていた。そんな聖を見ていると、伸一もトミコもこのまま順調に育っていってくれることを祈らずにはいられなかった。
 しかし、人間的な成長をするためには結局のところ聖は大きなだいしようはらわされることになる。子供の病気の最大の悲劇がそこにあるのかもしれない。成長していくという本能が、自分の抱える病気という現実との間に大きなじゆんを生んでしまうのである。
 そのどうしようもない矛盾が、子供をいらたせ、結果的に必要以上にあばれさせることになる。
 暴れては発熱、少し休んではまた暴れて発熱。そんなことを何度か繰りかえし、とうとう聖は一歩も動けなくなってしまった。

 不思議なゲーム

 昭和50年8月5日、6歳になった聖は広島市民病院に再入院することになる。
 腎ネフローゼの再発であった。
 このころから聖は夢中で本を読みはじめる。
 トミコは毎日のように児童文学書を買い求めては病院に届けた。図書館からも借りた。しかし、あっという間に図書館の児童文学書は借りつくし、気がつけばもう一冊も残っていなかった。
 知人が17冊まとめて貸してくれたこともあった。しかし、それもそう長くはもたなかった。本を読むスピードがけたちがいに速いのだ。何よりも聖には病院のベッドというへいたんぼうだいな時間があった。
 この年の9月に聖と同じ部屋に入院していた女の子が死んだ。みゆきちゃんという、聖よりもまだ幼い子だった。6歳の聖に死の意味を正確に理解できたかどうかはわからない、ただ確かなことは今朝けさまでとなりていた女の子が動かなくなってしまったということ。そして、どこかへ連れ去られ、もう二度とは戻ってこないだろうということだった。
 常に死と隣り合わせのかんきようで、そして自分自身もいつも死のすぐ横にいる。それは、病気で入院しているということのげ場のない現実だった。
 少しでもそんな入院生活の気晴らしになればと、伸一は聖にいろいろなゲームを教えてやった。
 トランプや花札やもくならべ、その中の一つにしようがあった。
 ある日、伸一は将棋ばんこまを雑貨屋で買って聖の病室を訪ねた。そして並べかたと駒の動かしかたを教えてやった。伸一も将棋は動かしかたとルールを知っているくらいである。
 聖はベッドの上に、伸一は来客用の丸いに腰かけて二人ははじめて盤をはさんで向かい合った。駒の動かしかたもおおざつなルールも聖は15分ですぐに覚えた。
「とりあえず一局やってみようや」と伸一が言うと聖の目がキラキラとうれしそうに輝いた。
 こうして病院のスチールベッドの上で、村山聖にとってはじめての対局が行われた。いつもは熱にうなされ体のだるさにひたすらえ、そして少し元気が出てくると膨大な時間をもてあまし、そうやって一日の大半をすごすベッドの上で聖はぎごちない手つきで駒を動かしたのだった。
 聖はもちろん、伸一もまったくの初心者なので、一局の将棋があっという間に終わってしまう。
 それでも二人で1時間ほど指しただろうか、それは初心者同士のめちゃくちゃな、それでいて何ともかいな将棋だった。
 その夜、聖は不思議なこうようかんでうまく寝つくことができなかった。
「またやってみたい」と思った。
 昼間に父親と指したシーンがせんめいよみがえり、なぜか顔が熱くなった。
「今度父ちゃんいつきてくれるんじゃろう」
 そう思うたびに目がえてくるのだった。
 広島市民病院の同室の女の子がいなくなったベッドの上で、聖は生まれてはじめて将棋を指し、その興奮に眠れない長い夜をすごしていた。それは将棋という小さなさかずきが音もなくかわに浮かべられたしゆんかんである。
 腎ネフローゼにおかされ1年の半分以上を病院のベッドの上で暮らさなければならない少年の胸がわけもなくときめいていた。少年はいま、将棋という不思議なゲームと出会い、新しいつばさを手に入れたのである。
 村山聖、6歳の初秋のことであった。

 2度目の入院は8月5日から11月29日まで4ヵ月におよんだ。
 退院して家に帰ってきた聖はどうしようもないほどのかんしやくちになっていた。ちょっとでも自分に納得がいかないことがあると気がれたように暴れた。
 自分に襲いかかった病気というじんな運命を、幼い聖には理解することもまたうまくおさえこむこともできなかった。心の奥底からき上がる苛立ちがまとわりついて離れない。それを無理矢理ふりほどこうとするかのように聖はくるった。
 特にトミコへのはんこうれつきわめた。
 ちょっとしたことでごとを言った瞬間、聖はほつを起こしたようにドアをありったけの力でドンドンとたたきはじめた。やめろと言えば、ますます激しく暴れる。隣の部屋に立ててあったトミコのよめり道具の三面鏡がたおれ、鏡が粉々にくだけ散った。
 さすがにまずいと思ったのか、聖は隣の家にだつのごとく逃げこみ押し入れの中にかくれてしまった。バタンと戸を閉めて、それっきりいくら呼んでも出てこない。
 どうしたらいいのか、トミコは困り果ててしまった。
 隣のお兄さんがまんののらくろの本を持ってきて押し入れに向かってこう言った。
「聖君、ここにのらくろを置いておくぞ」
 しばらくすると、押し入れの戸がわずかに開き、聖の手がびてさっとのらくろをひったくってまた閉じた。それからどのくらいったのだろうか、やっと落ち着きを取り戻した聖がのらくろを片手に押し入れから出てきてくれた。
 何にしても一度「いやじゃ」と言い出すと、もうおしまいだった。てこでも動かなくなる。それは、聖が手にしているゆいいつの最終兵器のようなものであった。
 いつもテレビのアニメにかじりついていた。あまりにも度がすぎるので祐司が聖のているテレビをバシッと切ったことがあった。
 聖の顔色がさっと変わり、外へ飛び出していった。しばらくすると、まるでしんのように家がれはじめた。ドーン、ドーンと地鳴りのような物すごい音がする。
 何事かと思いあわてて外へ出てみると、聖が野球のバットを持って全力で家をなぐっているのだった。壁には大きなあながあいていた。
 あるときはさいなことで癇癪を起こして家中の本を外に放り投げはじめた。手に持てるだけの本を持ってげんかんまで走りそこから外へぶん投げる。投げ終えるとまた部屋にい戻り本を持つ、そんなことを延々と繰りかえすのだ。後で集めると、放り投げられた本はみかん箱5箱分もあった。
 反抗することでも聖はたぐいまれな集中力を発揮し、そのはくりよくは子供とはいえ迫るものがあった。
 そんな聖の横暴ぶりを伸一はすべて許した。祐司や緑には厳しすぎるほどに厳格な伸一だったが、どうしても聖をおこる気持ちにはなれなかった。怒るどころか、そうやって自分の中にあるどうしようもない宿命と闘っている息子がびんに思えてならないのだ。
 母は母で、父は父でそして兄は兄で、それぞれにどこかで聖に対する後ろめたさを持ちつづけていた。聖の抑えきれない苛立ちは、ある意味では自分たちの責任であるといつも感じていた。
 重い病気の子供を持つ家庭特有の勢力地図が知らないうちに村山家にもでき上がっていた。聖はその力関係の上に君臨する王様のようにふるまい、またそうすることしかできなかったのである。


 昭和51年4月1日、聖は府中町立府中小学校に入学した。学校は村山家から坂道を15分ほど歩いたところにあった。
 小学校に入学しても聖のかんしようは一向に治まる気配を見せない。学校ではいつも腕白たちの先頭に立って走り回り、家に帰っては暗くなるまで坂道をじゆうおうじんに駆け巡っていた。
 お前は病気なのだから無茶しちゃいかんと伸一はことあるごとに言い聞かせたが、聖は耳を貸さない。3歳のころから兄の後をついて、山や川を駆け回った経験がいまは完全に裏目となっていた。思う存分に体を動かすことの喜びを幼いころに聖は知ってしまっていた。
 そんな調子だったから聖が3度目の入院をなくされるまでに、そんなに多くの時間は要さなかった。それは、小学校に入学してわずか1ヵ月後のことであった。
 成長していくこととまるで反比例するかのような病気を、育ち盛りの聖はうまくコントロールすることができないでいた。ちぎられたまむしのどうたいつぐないをするかのように、聖はただ思いの向くままに遊び、発熱とどうしようもないけんたいかんを繰りかえすしかなかったのである。
 ちょうどこのころ、入院先の広島市民病院に院内学級が開設された。
 府中小学校に入学してわずか1ヵ月で聖は地元の友達と別れ、広川学級という病院内の学校に転校することになったのだった。
 学校といっても実態は入院生活そのものだった。
 ある日、トミコが見舞いにいったとき、聖がぼそりと注文を出した。
「将棋の本をうてきてくれ」と言うのである。伸一に教えられた将棋というゲーム、それをはじめて体験し、その夜に覚えた胸のときめきが聖の心の奥底でうずきつづけていた。もっともっと知りたい、自分の心をむずむずさせる将棋というものの正体はいったい何なのだろうかと聖は思い、それを少しでも知るために自分にできることはとりあえず本を読むしかないと直感したのである。
 トミコはいささか慌てた。
 聖に本を買いあたえるのは自分の役目である。しかし、どこにいけば将棋の本が手に入るのか、本当にそんな物が売っているのか、そんなことすらも知らなかった。
 とりあえず広島でいちばん大きな古本屋にいってみることにした。そして、将棋の本を探した。ほんだなの隅から隅まで、将棋の二文字だけを頼りにトミコは歩いて回った。
 やがて、トミコは将棋の本が並んでいる一角を見つけ立ちどまった。そこにはトミコが想像していたよりもはるかに多くの、多種多様の将棋の本が並べられていた。トミコはその中からあまり迷うこともなく一冊の本を手にした。何の予備知識も情報もあるわけではなかった。ただ、病にせるわが子のために、トミコは無心で何十冊も並ぶ中から一冊の本を選び出したのだった。
『将棋はから』というのがその本の題名だった。
 とうろうめい九段の著になるその本は、初心者のために駒の効率的な使用法や局面での考えかたなどをやさしく解説した名著であった。題名『将棋は歩から』はねつきようてき将棋ファンだったきくひろしの命名であり、そうていうめはらりゆうざぶろうが担当した。昭和23年に発行された同書は内容の平明さが受けて大ロングセラーとなった。発行から30年の月日をても、はんもとをかえ版を重ねていたのである。
 びようしようで聖は生まれてはじめて将棋の本を手にした。小学1年生が読むにはあまりにもそれは難しい本だった。『将棋は歩から』は戦前に「将棋世界」にれんさいされていたものである。漢字にしても言い回し一つにしても格調が高く、とても子供の手に負えるようなしろものではない。
 しかし、聖は白いシーツの上でむさぼるように読みつづけた。
「わかるんか。漢字なんか一つも読めんじゃろうが」と見舞いにいった伸一はある日、聖にたずねた。
「漢字は読めんけど、でも大体のことは前後を何度も読みかえせばわかるんじゃ」と聖はまんげに答えた。「おもしろいのか」の問いには「ああ、面白い」と心底嬉しそうに笑った。
 くる日もくる日も聖は『将棋は歩から』を読みふけった。それは少し進んでは前に戻り一字一字をかみ砕いてはまた進んでいくという、気の遠くなるような作業だった。
 しかも、聖は伸一と何度か将棋を指したことがあるだけのまったくの初心者、あるいはそれ以前だった。じようせきも、つめしようの存在すらも知らなかった。『将棋は歩から』は初心者向けの本とはいえ、単純な入門書とは一線を画し、駒の効率性といった難解ながいねんずいしよにちりばめられている。
 漢字も読めない小学1年生の聖がそれを読み進めることは、出口の決められていない海底トンネルをり進めていくような難作業だっただろう。
 しかし、聖は持ち前の集中力でそのトンネルを掘り進めた。そこに聖はいままでに何冊も読んだ物語にはない面白さを感じていた。書いてある内容を正確に理解することはできないが、子供なりに将棋というものの奥行きの深さや広がりを予感するのだった。
「母さん、また将棋の本を買うてきてくれ」
『将棋は歩から』を読破した聖はさっそくトミコに新しい注文を出した。そしてトミコは古本屋にいき当てもなく次の本を探す、そんなことが何度となく繰りかえされるようになった。
 そのたびにトミコは古本屋の将棋の書棚の前で立ちつくす。とにかく、子供にもわかりやすそうな本、それだけがトミコが手にしているたった一本のじようだった。

 昭和52年3月、聖は小学2年生を目前にしていた。
 病状は一進一退をつづけていた。
 ちょっと元気になっては、はしゃいでまた熱を出す。くるくると同じ輪の中を走りつづけるはつかねずみのように、聖の病状もいつも同じところでつまずき結局は堂々巡りを繰りかえしていた。
 主治医は病院の看護態勢に限界を感じはじめていた。子供たちにとって病院の広く長いろうは、駆けっこの直線コースのようなものである。どんなものでも、遊びや探検の道具にしてしまえる小学1年生の男の子にとって、逆に病院は格好の場所でもあった。そして何よりもそんな子供たちを管理するには、広島市民病院は医者も看護婦も絶対数があまりにも少なすぎた。
 3月のある日、伸一は広島市民病院から呼び出しを受けた。
「病院で、聖君は少しもじっとしていてくれません」と医師は言った。
「このまま入院していても、悪くなることはないにしてもつうの生活に戻すことは難しいかもしれません。だから、もっとしっかりとした看護をできるところに移したほうが本人のためにいいのではないでしょうか」
 くるくるといつまで回りつづけても、結局は同じ場所を走っている、そのことに医者も本人も気づき苛立ちはじめている。環境を変えて、その輪の中からいったん降ろしてやるべきではないかというのが、主治医の見解であった。そして、国立はらりようよう学校を紹介された。
 そこは広島市内から車で西へ1時間ほどのいきぐん廿日はつかいちちよう原(現・廿日市市)にある、重病を抱えた子供たちのせつである。腎ネフローゼはもちろんのこと、きんジストロフィーや再生不良性貧血、白血病といった難病と闘う子供たちが寄りうようにひっそりと生活をし勉強をしていた。
 そこで聖が本当に輪の中から降りられるかどうかは、伸一にはわからない。しかし、環境を変えたほうがいいという主治医の言葉に反論すべきものが何もないことも否定できない事実だった。
 昭和52年6月6日、小学2年になったばかりの聖は伸一の運転する車に乗せられ原療養所に入院することになる。入院と同時にそれは聖にとって、早くも2度目の転校でもあった。
 国立原療養学校は国道2号線をみやじまより約5キロ手前で433号線に入り、約5分ほど走った山の手にポツンと建っている。周りは畑やビニールハウスが多く、民家はまばらにあるだけの静かといえば静か、さびしいといえば寂しいところである。施設は第1びようとう、第2病棟、あゆみ病棟、わか病棟、そして外来管理病棟、主にこの5つから成り立っていた。
 第1、第2病棟はかくてき軽い病気の子供たち、あゆみ病棟は筋ジストロフィー、そして若葉病棟はともいえる難病と闘う子供たちの生活の場所であった。
 第1病棟の5号室が聖の新しい生活の場となった。
 闘病、遊び、勉学、子供たちの生活のすべては施設という閉ざされた空間で営まれ、ほとんどのことをその中で学んでいく。
 建物の中が子供たちの世界であり、社会であった。友情やいたわり、けんかやにくしみ、出会いと別れ、そんなことのすべてをここで共有しながら生活していかなければならないのである。
 小学2年で入所した聖も最初のころは、けんかをしたり大事なおもちゃがくなったりとつらい思いをしたが、時とともに共同生活に適応していった。
 毎日の生活は規則正しいタイムスケジュールで営まれていた。
 朝6時、しよう。そして洗面と検温。7時、朝食。
 8時30分に隣のとうにある学校へ登校。8時50分、授業。
 10時から10時30分までは安静時間といって体を動かさずにベッドの上でじっとしていなくてはならない。
 11時、自由時間。12時、昼食。
 午後は1時から2度目の安静時間。
 2時、午後の授業。4時、自由時間。5時、夕食。
 6時から7時まで3度目の安静時間。7時、おやつとの時間。
 8時、自由時間。9時、しゆうしん
 自分に許される自由なスペースは、大部屋に並べられた6つの白いスチール製の小さなベッドのうちの一つ。
 そこが聖の王国だった。
 兵隊のような生活である。ただ、闘う相手が自分自身の中にあるということが大きな違いだった。
 聖はありとあらゆることを、その小さなベッドの上で営まなければならなかった。しかし、5歳のころから入院生活に慣れている聖にとってそれはそんなに難しいことではなかった。
 週に1度、伸一とトミコは面会を許され、自家用車で聖に会いにいった。毎週土曜日、それは聖が6年生になり退院するまで、ただの一度も欠かすことなくつづけられた。
 療養所の生活に慣れてきた聖は再び将棋の本を読みはじめる。それも毎日、6時間から長い日は7時間。安静時間や自由時間を拾い集めて、そして時には就寝後の寝静まった部屋のベッドの上で、聖はむさぼるように将棋の勉強をつづけた。
 なぜ、こんなに夢中になるのか誰にもわからなかった。もちろん本人にもわからない。ただそうすることに、聖はてつていてきに集中した。それはおそらく聖にとってのようらんだったのだろう。


 このころ、聖は毎日、日記をつけている。

 3月11日 はれ 22ど。
 今日おかあちゃんが来たので話しを、ちょっとしました。そして、つぎにつめしょうぎを、一もんやりました。そして、やる間におかあちゃんは持ってきてくれたものをせいりしたりもってかえるものを出したりしました。そしてつめしょうぎをやっていると食じになったので食どうに行って食じを食べました。そして食べおわると、またへやにもどってつめしょうぎのつづきを、しました。おかあちゃんが答えを、見て王の方になってくれました。
 そしてふと時計を見ると一時八、九分前なのでおかあちゃんといちおうサヨナラをしました。そしてちょっとたつとあんせい時間になったのでねました。そしておきると、ちょうどだったので手をあらってクーポンけんをもらって店へ行きました。おかあちゃんもついて来てくれました。そして二十五分ぐらいたつと、ぜんぶ買いました。そして用がすんだのでおかあちゃんとへやに帰りました。そしてつめしょうぎの答えを見るとあっていました。おかあちゃんが「ちがう」といってくれたのでわかりました。そしてクーポンで買ったおやつは百円のおこさませんべいと五十円のガムと十円のガムです。そして店のおばちゃんが十円オーバーしてくれました。

 3月12日 はれ 22ど。
 今日もスピードをたくさんの人としました。まず寺おかくんと、しました。つぎにハットリくんと、しました。そしてさいごに、石地くんとしました。そしてしょうぎのれんしゅうを朝から夕がたまで四、五時間しました。よるもしようと思います。

 3月13日 はれ 22ど。
 今日もしょうぎのれんしゅうを六、七時間しました。朝から夕がたまでです。そしてまだ、のこっているので夜、やろうと思います。あと二もんです。だから時間はあと一時間です。

 3月14日 はれ 22ど。
 今日十三ごうにいる山下くんとしょうぎをたくさんしました。ぜんしょうしました。そしてささきくんともやりました。これもまたぜんしょうしました。そして五手づみを三つやりました。そして今日戸田くんがかえって来ると一ばんにしょうぎをたのもうと思います。それはなぜかというと戸田くんがじょうせきをしっているので。

 3月15日 はれ 22ど。
 今日寺川君としょうぎを一かいだけしました。かちました。そしてたいくつなので外の方のしょうぎをたくさん見ました。そして人がしょうぎをしない時しょうぎのせめ方という本をべんきょうしました。そして今日、戸田くんとしょうぎを一かいしました。かちました。

 日記には将棋のことばかりがつづられている。それ以外は、聖にとって毎日が「はれ」で気温は「22ど」なのである。こうしてりかごは毎日毎夜、音もなく激しく揺れつづけていたのだった。
 よしはるもやはり小学1年で将棋と出会い、そしてひたすら本を読んで勉強した。村山家と同じように山を切りひらいて造った東京はちおうの新興住宅地。母親が夜部屋をのぞくと、いつもまるでかめのように蒲団から頭と手を出して将棋の本にぼつとうするわが子の姿があったという。しよくどきにも将棋の本を離さない善治に母はせめて、食事中は読むのをやめなさいと注文を出した。母と妹はそんな善治少年の将棋の相手をつとめた。ちゆうまで指すと善治が将棋盤をひっくりかえし、不利になっている母妹連合軍の側を持ってまた指しつづけたというのはあまりにも有名な話である。
 時を同じくして、病院のベッドと自室の蒲団の中という大きな違いはあるものの、同じようなスタイルで将棋にのめりこんでいく少年。
 羽生と聖だけではない、全国にそのような少年たちがいつせいに現れ、まゆのようにするときを待ちつづけていた。たとえば、とうやすみつもりうちとしゆきごうまさたかせんざきまなぶ
 聖は小学2年の終わりころにこんな作文を書いている。

 ぼくはこの一年間のうちだいぶんしょうぎが強くなりました。それはなぜかというとたぶん、れんしゅうを何回もやったり、ぼくよりも強い人としょうぎを、たくさんやったせいだと思います。
 だからこんどからもこれをつづけて行こうと思います。
 そして、ぼくが今日の国語のノートと前の国語のノートを見るとかん字がすごくちがいます。なぜちがうかというと毎日かん字れんしゅうをやったからです。だからこれも、ずっとつづけようと思います。そしてぼくはいちばんはじめ日記をめんどうくさがって書きませんでした。
 でも今ごろはちゃんと書くようになりました。
 これもずっとつづけようと思います。そして今ごろからだんだん人がたいいんするのでさびしくなります。
 でもそれはいっ時だけですぐに新しい人がはいって来ると思います。

 たいいん、という言葉が病気の回復だけを意味しないということを聖は知っていた。
 療養所の生活には身近で日常的な死があった。
 幼い命はまるでプラモデルのように簡単にこわれていく。聖はものごころがついたときからそんな命のはかなさにいやというほど直面してきた。子供たちは信じられないくらいにあっけなく自分の前から消えていく。ふーっとマッチの火を消すように簡単に。
 それもふくめて、退院なのだ。
 そのことに聖は気づいている。聖だけではなく施設の固いベッドの上で暮らす子供たちはみな知っている。友達が死ぬたびに子供たちは悲しみ、次は自分の番なのではないかとおびえた。
 施設の隅にひっそりと建つ、れいあんとうの存在もその意味も皆知っていた。
 同室の男の子が死んだこともあった。
 その子は重いぜんそくをわずらっていた。ひとばんじゆうせきとぜいぜいと苦しげな呼吸を繰りかえしていた。聖はすぐ横のベッドで眠れない夜をすごしていた。昨日までは一緒に食事をし、おやつを分けあった友達がベッドの上でのた打ち回っていた。しかし、聖には見て見ぬふりをする以外何をすることもできない。
 何時間かそんな時が流れた。やがて発作は収まり、苦しそうな呼吸音がピタリとやんだ。
 部屋にはいつものせいじやくが帰ってきた。いつの間にか聖は眠りについていた。
 朝、慌ただしい気配に目を覚ますと、子供はあとかたもなくどこかに連れ去られてしまっていた。
 身近なそしてあまりにもあっけない死という現実を目の前にして、聖は静かに寝返りを打つしかなかった。
 そんな現実に子供たちは苛立ち、大人への反抗は時として熾烈を極めた。へいされた空間とすぐそばにある死へのきようかん、動かしたくても動かせない体や広げたくても広がらない環境への怒り。そういうエネルギーが子供たちの中で個々に膨れ上がり爆発する、それはある意味ではどうしようもないことなのかもしれない。
 しかし、聖だけは少し違った。
 将棋を知りそれにのめりこんでいくことによって聖の内面に大きな変化が現れていた。
 聖が将棋というほうもなく深く広がりのある世界を自分なりにのぞきこみ、理解しようと努力したことがすべてのはじまりだった。自由に体を動かせないことからくる苛立ちや、身近にある友達の死という絶望感すらも自分自身の内に抑えこむことができるようになっていた。風を切って走り回る緑の草原よりも、春先の山よりもみきった川よりも、将棋は聖にとって限りない広がりを感じさせるものだった。
 聖にとって、将棋は大空を自由自在に駆け巡らせてくれる翼のようなものであった。
 だから施設での生活もベッドの上の空間も、もうつらくはなかった。知れば知るほど、勉強すれば勉強するほどに広がっていく世界に聖の心は強くひきつけられた。しかも運のいいことに、聖が手に入れた将棋という翼は、多くの子供たちがいだくはかなくあわのように消えていく夢とは違い、それは簡単には折れない翼だったのである。

 初心者向けの将棋の単行本を何冊も読破した聖は、小学2年の秋ごろに「将棋世界」という専門の月刊誌と出会う。それはトミコが聖の将棋の本を選ぶためにいつものように古本屋をはいかいしているときにぐうぜんに見つけたものだった。そこには聖にとって知りたい情報、歯ごたえのある詰将棋や次の一手の問題、定跡の知識などありとあらゆるものが詰まっていた。
「将棋世界」に没頭し、そして相手を見つけてはだれかれかまわず将棋を指すそんな毎日がつづいた。
 毎日、何時間もかけて聖は「将棋世界」の詰将棋を解きそしてしようだんコースの問題に取り組み、けんしようの問題には欠かさずおうした。病院のベッドの上で誰に教えてもらうわけでもなく、聖は本だけをしんばんにしてめきめきと将棋の腕を上げていく。
「将棋世界」を読みはじめたことをきっかけに、トミコは行き当たりばったりに将棋の本を探してさまよわなくてもすむようになる。ほしい本を聖が雑誌で見つけ注文をするようになったからだ。
 たとえば『なかはらしややぶり』『ぐらの考え方』などの定跡書や何冊もの詰将棋の本。それらの単行本を聖はたんねんみしめながら1週間かけて読破する。そして次に読みたい本をトミコに注文するのである。注文はトミコが訪ねていくたびにわたがきの中に書かれていた。あらかじめ住所とあてをトミコが書いておきそのたばを渡す。聖はえんぴつで身近に起こったことや、読みたい将棋の本などを書きこみ療養所の郵便物集積所に預ける。
 それは週に一度しか会えないわが子に、少しでもさみしい思いをさせないように、母がいつも身近にいることを忘れないでいてもらおうと、トミコが考えついたことの一つだった。
 どうしようもない癇癪持ちで、手を焼かせてばかりだった聖が将棋を知ったことによって明らかに変わっていた。療養所や病気というつらい現実も将棋にのめりこんでいく聖の集中力の前では、もう何の障害にもなっていないようにトミコには思えた。かえって、聖はその環境を将棋の勉強のために逆用しようとしているようにさえ見えた。
 聖の姿に、病気や環境に負けない頼もしさが感じられるようになっていた。その強さも、結局は将棋に夢中になることで得たものなのかもしれない。
 このころ、母の日に聖はトミコにてて一通の手紙を書いている。

 お母さん、一しゅう間に一ど来てくれてありがとう。いそがしいのによく来てくれます。そして電話も一しゅう間に二どもかけてくれるので、いっとき思いついたこともちゃんと電話でお母さんに言うことができます。

 聖に指示されるままにトミコは将棋の本を買って歩いた。新聞のしようらんをスクラップしてくれと頼まれれば毎日欠かさずノートにりこみ、それを聖のもとに届けた。聖の喜ぶ顔が目に浮かび、それはトミコにとって、とても楽しい作業だった。伸一は伸一で週刊誌の詰将棋の問題や次の一手などを見かけたら必ず切り取って、ノートに貼りつけた。身近にある将棋に関する情報はすべて聖に与えてやりたいし少しでも役に立つはずだと伸一は思っていた。
 子供が夢中になることに親がしみなくえんする。この構図は八王子の羽生家と非常によく似ている。将来何かのためになるとか芸を身につけるとかいうのではなくて、わが子が熱中するから親もできる限りの応援をする、そこにあるのはただそれだけの単純で明快な図式なのである。


 小学3年の終わりの3月、聖はがいはく許可を得て実家に戻ってきた。伸一はさっそく、聖の将棋相手を探してやった。トミコのしんせきに強い人がいると聞き、聖の外泊日に家まできてもらった。
 最初はなかなか勝てなかったが、すぐにいい勝負をするようになった。聖の相手をしている大人の顔色がみるみる変わっていった。自分が苦戦しているからではない。実戦らしい実戦をほとんど指したことがないたった9歳の子供が、すさまじいまでの読みを繰りひろげることに驚いたからだ。
 自分は三段である。三段といえばアマチュアのトップクラスであり、9歳の子供とは飛車角に桂香を落としたって普通は負けないはずだ。
 しかし、いま現実にひらで苦しまされている。ネフローゼでむくんだ青白い顔、赤ん坊のように膨らんだ指先から繰り出される切れ味するどい着手。その一つ一つに背筋がふるえるような戦慄を覚えた。じよちゆうばんは確かに雑だしすきだらけでそんなにうまくはない、しかし終盤のスピード争いになると驚くほどのかいりきを発揮する。特に詰む詰まないの段階での読みの正確さと深さは桁違いだった。
 この子は天才だ。本当はそうさけびたかった。しかし、それよりも何よりも目の前に座る子供のあまりの強さに、だまって駒を動かすよりなかった。
 ただ毎日6時間、本を読んでいただけである。日常の将棋の相手はほとんどが療養所の子供たちでちようしよしんしやだった。そんな環境の中で信じられないことに聖は、三段の大人とかくかむしろそれ以上に闘うほどのりよくを身につけていたのである。特に毎日必ず10題は解く詰将棋が知らず知らずのうちに終盤力を養っていたのだった。
 しかし、聖にしてみれば何回か勝ったことよりも負けたことのほうが納得がいかなかった。療養所に帰り一人ベッドの上で、くやしさを嚙みしめながら自分の敗因を必死に探し求めた。消灯時間はとっくに過ぎてまわりは静まりかえっていた。
 もっともっと強くなりたい。そう心の中で強く念じた。
 もっともっと強くなって、名人になりたい。
 そう思った瞬間、聖の胸はわけもなく熱くなった。名人という言葉がしやくねつの鉄の棒となり、身体を貫き通したような感覚に聖は襲われた。
 名人になりたい。
 聖は心の中でもう一度そっとそうつぶやいてみた。
 ベッドの上にあぐらをかき聖は「将棋世界」を取りだした。強くなるにはまた毎日何時間でも勉強をするしかない。何千題も詰将棋を解くしかない。そう考えるといてもたってもいられなくなったのだ。寝静まった病室で聖は月の明かりだけをたよりに詰将棋に立ち向かった。やみの深さと夜の静けさと、そして月の光のいつくしみをそのときはじめて聖は知った。
 今度家に帰るまでにもっと強くなって、そして必ず大人たちに勝ってみせる。
 聖の胸はそれまでにない高揚感と希望に満ちあふれていた。強い人間の存在を知ることにより、将棋の奥深さと面白さに改めて気づかされたのである。
 ただやみくもに本を読みあさっていたいままでとは違い、大人たちに勝つという具体的な目標ができたことが聖の胸をますます膨らませた。消灯後の寝静まった病室での将棋の勉強は聖の日課となっていった。
 揺籃期を終えた聖がその才能を開花させるのには、そんなに時間は必要としなかった。次に帰ったときには前回の相手を破り、そして近所のもっと強い大人をしようかいされる。
 その相手に敗れても、次の外泊のときにはやっつけてしまう。
 そんなことを繰りかえしているうちにいつの間にか近所には相手がいなくなってしまっていた。三、四段ではなかなか聖に勝てないのである。そして、ここにいってみたらいいと紹介されたのが、広島市内の中島公園の近くにあるしのざき教室だった。
 昭和54年7月、10歳になったばかりの聖はこうして篠崎教室の門を叩いたのである。

 腕だめし

 篠崎みずはプロを目指し大阪のしようれいかいざいせきした経験がある。体力的な問題で広島に帰り、地元の新聞に観戦記を書いたり将棋教室を開いたりしながら将棋のきゆうにつとめていた。
 月に3回の外出日は必ず教室で将棋のけいをして、それから実家に戻るというのが決まりのパターンになった。教室に出入りしている四段はもちろん、県代表クラスのきようごうとさえも聖は互角に渡りあった。月に3回、訪ねてくるたびに強くなっている10歳の少年の才能に篠崎は舌を巻いた。
「これは、絶対に強くなる将棋じゃ」と篠崎は伸一にたいばんを押した。伸一にはその言葉の意味することを正確には理解できなかった。ただ、県代表クラスの大人を負かすわが子を見て「大したもんじゃ」とあっけにとられて眺めていたというのが実情だった。
 負かされたある強豪は伸一に向かってこううなった。「この子の将棋は普通の子供やアマ強豪とは全然スケールが違う」と。
 聖は篠崎からアマ四段の認定を受ける。小学4年生のアマ四段も驚きならば、はじめて認定された段が四段というのも聞いたことがない。そして何といっても、最大の驚きはまったく将棋を知らなかった超初心者が、本を読んだだけでこれだけの棋力を身につけてしまったという事実である。
 昭和55年、11歳になった聖は第14回中国こども名人戦に参加して優勝する。そして、その優勝は第18回まで連続して5回つづくことになる。中国地区の子供の大会では聖の力は抜きんでていてもはや競争相手はどこにもいなかった。
 聖の篠崎教室通いはそう長くはつづかなかった。
「ここにいても強くなれん」と突然に聖が伸一に言い出したのである。
 聖にとっては月にたった3日しかない貴重な外出日である。そのわずかな時間を最大限に有効に使いたいという聖の気持ちは伸一にはよくわかった。問題は教室にはもう聖の目標になるような強いアマチュアがいなくなっていること。そして教室にくる子供相手に、聖のほうが駒を落として対局させられるというような機会が増えたことなどであった。
「もうあそこじゃ勉強にならん」
 聖は強く伸一にそううつたえるのだった。
 どうしたもんかと困り果てている伸一に会社のこうはいが、はつちようぼりに将棋センターがあることを教えてくれた。さっそく伸一はそこに聖を連れていってみることにした。
 広島将棋センターはほんとみはるが昭和53年にだつサラをしてオープンした将棋道場である。教室とは違い広島市内はもとより土曜、日曜となるときんりんの他県からも強豪を求めて多くの客が集まっていた。じりたかをはじめとする3人ものアマ名人をはいしゆつした、町道場の名門中の名門である。
 しかも、聖が通いはじめたころは、田尻を中心とする学生の強豪がおおぜい集まりしのぎをけずっている時期だった。そんな全国トップクラスのアマチュアたちの中に聖はすぐにけこみ、めきめきと腕を上げていった。ここでは相手に困ることも、覚えたばかりの子供に指導する必要もない。ただ目の前にいる強い相手を倒す、そのことにぜんしんぜんれいかたむければいいのである。
 朝、早くに家を出て1時間かけて聖を原療養所に迎えにいき、そして広島市内に戻り将棋センターに連れていく。そこで午前中から夜まで聖は何番も将棋を指す。その間、伸一は道場の片隅で何をするでもなく、へたりこんで息子の対局が終わるのを待ちつづけていた。
 羽生善治も同じころ、毎週日曜日に八王子将棋センターに通いつめていた。母親と妹と三人で朝早くに家を出て、善治は道場へ、母とむすめはデパートへ。そこで適当に時間をつぶし、夜道場へ善治を迎えにいって家に帰る、そんな月日を送っていたのだった。

 昭和56年。小学5年の3月、伸一につきそわれて聖は生まれてはじめて東京にいく。全国小学生将棋名人戦に参加するためにである。
 土曜日に出て日曜日に帰れば、普通の外泊許可で東京へいくことができた。
 広島から新幹線に乗り、6時間かけて東京に着いた二人はしなまちにある叔父おじの勤務先の厚生施設にまった。翌朝、そうせんに乗り隣駅のせんにある将棋会館に向かう。伸一にとっても不慣れな東京である。電車の路線図と将棋会館への簡単な地図だけが頼りだった。
 将棋会館にずいぶんと早くたどり着いた聖は、そこにいあわせた同じ年くらいのお下げの女の子と将棋を指した。かのじよのつきそいのおじいさんが練習に一局指してみなさいと言ったからである。
 広島では県代表とも互角に戦うほどの実力をつけていた聖だったから、同じ年の女の子なんかに負けるわけはないと思った。しかし、聖はねばりに粘ったものの結局は負かされてしまう。
 小学生名人戦といえばプロ棋士へのとうりゆうもんとなる伝統の大会である。東京、大阪はもちろんのこと北海道からおきなわまで、全国からりすぐりのエリートたちが集まっていたのである。
 聖の相手をした女の子は後に女流名人となるなかひろ、そして「一局指してみなさい」と声をかけてくれたのは、よねながくにえいせいせいたかはしみち九段をはじめとする数多くの棋士を育てためいはくらくゆう名誉九段であった。
「やっぱり東京はすごいもんじゃ」
 広島では大人たちも相手にならないほどに強くなった聖を苦しめる女の子を見て、伸一は驚きを隠せなかった。しかも聖は小学生名人戦でそうそうに敗れ去ってしまった。それは全国のレベルの高さを痛感させられる結果だった。
 聖を本戦トーナメントで破ったのは後に名人となる佐藤康光。しかしその佐藤もそして1歳年下で小学5年で参加していた羽生善治ですらも、その大会では優勝することはできなかった。

 昭和57年、将棋界は一大てんかんを迎えていた。おおやまやすはる十五世名人からなかはらまこと十六世名人へと引きがれた安定と伝統の系譜がとつじよ崩れはじめるのである。
 名人戦9れんぎようを成し遂げた中原誠がせんにちしようを含めた10番勝負による歴史的なだいとうの末、とうに名人位を明け渡してしまったのである。その前年、中学生でプロ棋士となり天才のほまれ高い一人の青年がA級しようきゆうを果たしていた。
 たにがわこうである。
 その出現はさまざまな意味で革命的であり、先人たちが築き上げた数々の常識をいともたやすくくつがえしていった。人生経験が将棋を強くするという常識。めだけではプロの中では通用しないという常識。そんな数々の常識も谷川にとってはそんなには高くないハードルだった。
 とうてい無理と思われた攻めを決然とかんこうし、谷川はまたたく間にA級に駆け上がり、棋界最強のリーグも順当に勝ち進んだ。
 たった一人の天才の出現により将棋界が受けの時代から攻めの時代へと転換していったのである。谷川のたいとうによって将棋の本質の何かが変質を遂げた。谷川以前とそして谷川以降、そこにはまるで違う理論によって立つ将棋が存在しているかのようでさえあった。
 谷川の出現はファンにも強いしようげきを与えた。時には風のように、時には光のようにたやすくてきぎよくを仕留める谷川将棋にファンはいしれ、かんたんの声を上げた。そして、昭和58年、第41期名人戦で谷川はまるであらかじめ決められていた約束だったかのように、いとも簡単に棋界最高位を手にする。
 わずか21歳の青年名人の誕生である。
 その天才谷川浩司ですら加藤玉に詰みを発見した瞬間、とめどもないきけに襲われてトイレに駆けこみからえずきを繰りかえした。名人という言葉の重さと、概念の深さが谷川を苦しめた。将棋をこころざし将棋にあこがれる人間が誰でも夢見る名人位、それが自分の手の中に入ろうとする瞬間、予期せぬ重圧がのしかかり、それに耐えるために谷川は洗面台に向かった。
 終盤の詰めの決め手となった7五銀。駒台から放たれたその銀を谷川は真っすぐに盤上に置こうとしたが、手が震えてどうしてもゆがんでしまったと後にじゆつかいしている。
 谷川浩司という若き天才の出現により、将棋の考えかたという盤上のできごとにとどまらない大きな変化が確実に起きつつあった。
 全国の子供たちがヒーロー谷川の姿に憧れ将棋を指しはじめたのである。子供たちの間で将棋は大ブームとなる。そしてその結果、底辺の広がりと必然的な競争の激化が生まれてくる。
 昭和57年、後の将棋界の勢力図をそっくりとえる多くの人材が奨励会の門を叩いている。羽生善治、佐藤康光、森内俊之、郷田真隆、まるやまただひさなど数えればきりがないほどだ。谷川浩司という一人の天才が降らせた雨をゆうしゆうな人材が吸収し、伸びやかに枝を伸ばしはじめていたのだった。


 小学校6年になった聖は文字通り将棋けの日々を送っていた。6年の秋に広島そごうで将棋のイベントがかいさいされ、米長邦雄、もりやすひでみつというスター棋士が指導対局を行った。いつものように伸一が聖を車で療養所へ迎えにいきそのイベントに参加した。
 聖が教わる相手は森安九段、当時は棋聖位を保持しているトッププレイヤーの一人だった。
「何枚落ちにしようか」と森安に聞かれた聖は「飛車落ちでお願いします」とおくすることなく答えた。その瞬間、森安は首をひねった。どんなに強い子供でも普通は飛車角落ちでもプロにはなかなか勝てない。まして自分はプロの中でも頂点に立つタイトルホルダーである。
「それでいいの?」と森安はもう一度やさしい声で聖に問いかけた。
「飛車落ちでお願いします」と聖は表情を一つも変えずに再び答えた。伸一はそのやりとりをどぎまぎしながら聞いていた。森安の顔が明らかにむっとしているように見えたからだ。
 5面指しの指導対局がはじまり、聖の将棋が最後まで残った。ほかの将棋はスイスイと駒を進めていく森安も、聖のところだけは少考を繰りかえした。
 聖はうわの攻めをたくみにかわし、するすると上部への脱出をくわだてる。プロの九段の鋭くかつ的確な攻めに少しもひるむようすもない。そしてついに聖の王様は安全地帯にまで逃げ延びた。それから一転、聖は森安じんもうこうけ、その姿からは想像もつかないようなふてぶてしい手つきであっという間にうわぎよくを仕留めてしまった。
 指導を終え観戦していた大人たちが一斉にため息をらした。森安はまるで勝負将棋を負けたように不愉快さを隠そうともしなかった。小学生とはいえ聖の将棋には勝負に対するしんらつさがあり、子供への指導とのんびり構えていたプロを熱くさせる何かがあったのだ。
 森安はひとことめなかった。ただこうすればどうするつもりだったかと聖に聞き、聖はかんはつを入れずにそれに答えるのだった。
 これが聖のはじめてのプロとの将棋であった。
 聖にとっては指導なんて何の意味もない。思いはただ一つ、目の前にある将棋に勝つこと、ただそれだけだった。強くなりたい、そして勝ちたい、そのじゆんすいな気持ちだけが聖を支えてきたのである。
 昭和57年1月、聖は小学校2年から5年間にわたり少年時代の日々をすごした原療養所を出て家に帰ることになった。成長とともに体力がついて病気にある程度抵抗できるようになったこと、薬の進歩により症状をおさえこめるようになったことがその主な理由である。
 5年ぶりに家に帰った聖は明らかに変わっていた。近所を駆け回ることも、トミコに反抗することもなくなっていた。ただ静かにひたすら将棋の勉強をつづけるのだった。
 聖は府中小学校に転入し、わずか3ヵ月後には同校を卒業する。小学校卒業を記念した寄せ書きには「努力」と書き残している。

 昭和57年、桜のく季節に聖は府中町立府中中学校に進学した。その7月に中学生名人戦に参加するために父に連れられて2度目の上京をする。
 市にある伸一の大学時代の友人の家に一晩世話になり、翌日千駄ケ谷の将棋連盟に向かった。しかし、全国の壁はやはり厚く、聖はベスト8まで勝ち進み敗退してしまった。優勝者はみやけんから参加したなかがわだいすけ現七段だった。
「お父ちゃん」
 とぼとぼと二人で将棋会館から千駄ケ谷駅へ向かう道すがら聖が言った。
「なんじゃ?」
「もっと将棋が指したい」と聖がぽつりとつづけた。
「悔しいんか」と伸一は聞いた。
「うん」と言って聖はくちびるんだ。
 その顔を見ていると何だか急に伸一は聖のことが不憫に思えてくるのだった。不意になみだがあふれそうになった。病気と闘いながら生きる聖があれほどに夢中に打ちこみ、自信と勇気の根源になりつつある将棋で打ちのめされた、そのことがせつないのだ。
「よし、聖、父さんが道場を探してやる。新幹線の時間まではまだだいぶあるから、ぎりぎりまで指せばええ」と伸一は言った。
「本当か?」
 どんなにか嬉しかったのだろう、聖の顔がパッと明るくなった。
 何のあてもない二人はとりあえず千駄ケ谷の駅の公衆電話に備えつけてある電話帳を繰って将棋道場を探してみることにした。そして西にしにつにある将棋センターを見つけ、そこへいくことに決めた。東京駅に電車一本で帰れて、迷わずにすみそうに思えたからだ。
 西日暮里将棋センターは駅の近くの雑居ビルの3階にある小さな将棋道場だった。「段級はどのくらいですか?」と女性のせきしゆに聞かれた聖は「四段です」と消え入りそうな声で答えた。
「じゃあ、とりあえずこの人とやってみてください」と席主は顔色一つ変えず手合いをつけてくれた。東京では四段の中学生なんてめずらしいものではないんだなと、席主の応対を見ながら伸一は思った。聖にしても伸一にしても、この大都会にされ、試合に敗れ、自信ががらがらと崩れていた。広島では強い強いと誉められたが、結局はの中のかわずだったんじゃないかとしんあんになりかけていた。全国には化け物みたいに強い子供がいっぱいいる。療養所のベッドの上で本だけを頼りに勉強してきた聖には、しょせん限界があるのではないかという不安が二人ののうをよぎっていた。
 しかし、聖はそんな弱くなりかけた気持ちをかき消すかのように、そして自らの壁をうち破るかのように勝って勝って勝ちつづけた。気がつくと結局道場にいた四段全員をことごとくやっつけてしまったのだった。
 もう道場に聖の相手はいなかった。帰りたくをしていると、玄関のドアが開き、一人のきよかんがふらりと店に入ってきた。聖に負かされたアマ強豪たちの眼が一斉にその男に注がれ、こころなしか皆の表情が明るくなったように思えた。
「彼ならこのむやみに強い中学生をやっつけてくれる」
 注がれた視線がそう言っていた。
 その巨漢こそはいけしげあきその人だった。
 しんけんとして全国にその名をとどろきわたらせていた小池は、昭和55年にアマ名人戦にはじめて参加しあつとうてきな強さで優勝、そして翌年も優勝をさらい2連覇の偉業を成し遂げていた。またアマプロ戦にも引っ張りだこで、しかもプロを相手に優に勝ち越すというきようてきな強さを誇っていた。その小池がふらりと西日暮里将棋センターに顔を出したのである。
 席主から話を聞いた小池はにこやかに聖に近づいてきた。そして「ぼく、強いんだなあ」と言った。
 聖も小池のことは「将棋世界」で知っていた。プロにいちばん近い、いやプロすらもおそいちもく置く存在であることも知っていた。
「一局やろう」とぶっきらぼうに小池が言った。もちろん聖に異存はなかった。
 何も言わずにコックリとうなずいてみせた。
 二人の対局をギャラリーがぐるりと取り囲んだ。その輪の外から伸一もかたをのんで見守った。
 大きすぎる体を丸めるように一心不乱に将棋盤に向かう小池には何ともいえぬ雰囲気があった。やはり強豪といわれる人間にはオーラのようなものがあるんだなあと、伸一はみように感心した。
 将棋は小池のしやあなぐまに聖がかんに急戦を仕掛けていった。決まったかに見えた聖の攻めをギリギリのところで小池がしのぎ、そして小池のはんげきを聖がいなしながら王様を逃げ回すという激戦になった。初心者の伸一が見ていても手にあせにぎる熱局だった。
 小池の指先に力がこもっている。聖も気合よく駒を打ちつけ少しもそれに負けていない。
 長い長い戦いを制したのは中学生の聖だった。小池がとうりようした瞬間、取り囲むギャラリーのかたの力がスーッと抜けたように思えた。伸一も知らず知らずのうちにホーッとため息を一つついた。
「僕、強いなあ」と小池は敗戦に何ら悪びれることなく聖をたたえた。先ほどまでのおにのようなぎようそううそのように、にこやかになっていた。
「はあ」と聖は少し照れたように笑った。
「がんばれよ」と小池は聖をやさしく励ました。
 道場でのオープン戦とはいえ、向かうところ敵なしと恐れられていた小池重明に勝ったことが聖にもたらした自信は計りしれないものがあった。
 広島へ帰る終電の時間が迫っていた。伸一は聖をうながして、道場を出ることにした。
 そのとき、手合係の女性が大学ノートを取り出しそこにサインをしてくれと言った。小池重明に勝った人には必ずサインをもらうことになっているというのである。
 聖はそこにサインをした。何だかとてもいい気分だった。
 広島に向かう新幹線の中で、聖もそして伸一もようようとしていた。中学生名人戦で敗れ、全国の厚い壁の存在を知りあんたんたる気持ちでいた昼すぎまでの二人がまるで噓のようだった。コミックを読みながら聖はごげんだった。
 小池重明を破った。それも、長時間にわたる力将棋の末。その事実が折れかけていた聖の翼を蘇らせた。アマ名人を破り、そして「強い」とうならせた。「僕、強いなあ」というくつたくのない小池のがおが何度も聖の脳裏をよぎっていつときも離れなかった。


 親族会議

 広島に帰り府中中学に通う聖の心に一つのばくぜんとした思いがつのり、それは日をおうごとに大きくなっていった。
「プロになりたい」
 口には出せないが、聖の気持ちは日ごとに大きく傾いていく。
 体調は悪くなかった。むやみに自分の体を動かしたり、無理をして疲れをめるようなことに聖はきよくたんしんちようになっていた。体調管理は徹底していた。ちょっとでも体がだるいときや、熱っぽいときは、ジーッと動かずにひたすら体を休めた。
 休息と決めたときには自分の近くに尿びんを用意してそこに用をたした。トイレに立つための体力すらも温存したかったからである。ネフローゼを完全にい慣らそうと聖は必死の努力を重ね、その努力は着実に実を結ぼうとしていた。それもこれも将棋のため。将棋を学び、強くなることと病気をふうじこめることは、聖の体の中で何の矛盾もなくいつした。
 広島将棋センターで聖は腕をめきめきと上げ、それに正比例するように体調もぐんぐんとよくなっていった。
 そしてついに「奨励会にいきたい」と聖は伸一の前で口にするようになる。一度、言ってしまえばそれはもう禁断の箱を開けたようなものだった。
「大阪にいって、奨励会に入りそしてプロになる」
 聖はうわ言のようにその言葉を繰りかえすようになった。
 伸一は困った。別にプロになることや、名人を目指すことに反対しているわけではない。
 聖の病気を宣告されたあの日から、伸一には一つの決心があった。それは「聖にはとにかく何でも好きにやらせてやろう、好きなように自由に生きさせてやろう」というものだった。
 聖の病気を甘くみて、こんな不自由な生活をいることになったのも、すべては自分の責任である。だから、自分が聖の生活や進路に対していったい何を強制することができるというのだろうか。
 ただ、伸一がなやんだことは二つ。まず第一はプロになるための仕組みや、そのための手続きがまるでわからないこと。もう一つは、プロを目指すために大阪に出ていけば、聖が体調を崩してもれんらくさえとれなくなってしまうのではないかという不安であった。
 そんなことを伸一は遠回しに言って聞かせようとするのだが、まるで効果がなかった。
 そこで、伸一は一計を案じた。
 親族会議を開き、そこで聖の奨励会入りに反対してもらおうというものである。幸い、自分の兄弟は皆学校の教師をしている。聖のこうとうけいな夢をきっと現実的な尺度でねのけてくれるだろう。
 親族会議は昭和57年9月10日、伸一の妹の家で行われた。義弟は中学校長、部屋には教師がずらりとそろっていた。その席でまず、伸一とトミコは奨励会入りに反対した。理由は体調管理のことであった。集まった親戚たちも、それに同調し伸一の読み筋通りに会議は終わるはずであった。
 と、そのとき。
「いかせてくれ」と聖が皆の前で頭を下げた。
「頼みます。僕を大阪にいかせてください」
 しかし、そう言ってもなあ、健康がいちばんだからなあ、というようなことを誰かが言った。
 そのとき、聖はひるむことなく教師をしている大人たちの前でこう言い放った。
「いかせてくれ」
 そしてつづけた。
「谷川を倒すには、いま、いまいくしかないんじゃ」
 それは、たましいの根源からしぼり出されたような純粋な叫びだった。
 会議は水を打ったように静まりかえった。伸一もトミコもどぎまぎして何も言い出せなかった。
 聖はあせっていた。目標は谷川浩司ただ一人である。将来の名人を倒すには13歳の聖には一刻のゆうもないと思っていた。これから奨励会6級で入会して、5年で卒業できたとしてプロ入りが18歳。それから、名人に挑戦するまでは5つのリーグを勝ち進まなければならない。仮に毎年優勝し、昇段昇級したとしても名人に挑戦できるのは最短で5年、23歳になってしまうではないか。
 いまからでもおそすぎるくらいだと聖は思った。まるで一日一日名人位が自分から遠ざかっていくようなさつかくに陥り、いてもたってもいられなかった。
 学生服を着た聖はたたみに手をつき、頭を下げたままでもう一度振りしぼるように言った。
「谷川を倒すにはいまいくしかないんです。お願いです、僕を大阪にいかせてください」
 その純粋でしんな情熱を前に誰も口を開くことができなかった。
りつじゃないか」
 長いちんもくを破ったのは、中学校の校長をしている義弟のひとことだった。
「中学1年生が自分の意志で自分の将来の目標を決めるなんてなかなかできないことだ」
 広島市内のマンモス中学の校長をしている義弟は、当時急速に全国の学校に広がりつつあった校内暴力に頭を悩ませていた。それと同時に学校内にまんえんする生徒たちの無気力化。一部の不良たちはまるで暴力団の予備軍のように校内をかつし、それ以外の多くの生徒は自分たちが勉強し生活していくことの意味を見つけられないでいた。そんな生徒たちにたいしていた義弟にとって聖の言葉は、何ともしんせんでたくましいものに思えた。
「うちの学校によんで、皆の前で聞かせてやりたいぐらいじゃ。うちの学校にもこんな生徒がほしい」と、聖の強い意志と明確な目的意識に裏づけられた言葉に感服してしまったのだった。
 その義弟の言葉を境にすっかり親族会議の雰囲気が変わってしまった。一人、二人と聖がそこまで決心しているのなら親として最大の支援をするべきではないかと、逆に伸一が説教されるに陥ってしまった。
 会議という名目で聖の進路について話し合うために集まってもらった以上は、伸一としてもそこで提示された結論を無視するわけにはいかない。説得するために集まった大人たちが中学1年生の聖に逆に説得されたような形になってしまったのである。
〈谷川を倒すにはいまいくしかない〉。その言葉と強い信念をもって、聖は自らの力で自分の進むべき道のとびらをこじ開けてみせたのだった。
 そうと決まれば伸一も動かざるを得なかった。翌日にはさっそく、篠崎に連絡しプロを目指したいむねを伝えた。奨励会試験を受けるには、まずプロ棋士のにならなければならない。元奨励会員の篠崎ならばきっとしかるべき棋士をしようとして紹介してくれるだろうと考えたのだ。
 しかし予期せぬ言葉が篠崎の口からこぼれ落ちた。
「まだ早い」というのである。もうちょっと、地元広島で力をつけてからでも遅くはないというのが篠崎の意見であり結論であった。
 当然、聖は伸一に食い下がった。伸一も腹は決まっている。篠崎がだと言うのなら広島将棋センターの本多に相談してみようとそくだんし電話をかけた。
 本多は聖の奨励会入りに賛成してくれた。そして、本多が幹事を務める、広島将棋同好会支部のはんであるしもだいらゆき八段に相談をもちかけてくれることになった。
 本多から広島の有望な少年がプロ入りを希望しているとの連絡を受けた下平は、その旨を東京奨励会幹事のたきせいいちろう七段に伝えた。大阪の奨励会入りを志望しているということなので、滝はこの話を自分のおとうと弟子でしであり大阪在住のもりのぶ六段へと伝えたのだった。
「広島の村山という子なんだけど、どうだね森君、君も弟子の一人ぐらいとってみてもいいんじゃないの」と滝はざっくばらんに森にもちかけた。
「わかりました。とりあえず会ってみます」と森は答えた。森のその答えは滝、下平、本多と伝わったルートを逆流して伸一のもとへ届けられた。聖はトミコに連れられて大阪の森を訪ねる。
 昭和57年の初秋のことである。

 大阪の関西将棋会館道場で、聖と森ははじめて対面した。
 ネフローゼで青白い顔はむくんでいた。手も足もとうのように真っ白だった。はにかんでいつもうつむきかげんではあったが、真っ黒く意志的なひとみがキラキラと輝いていた。
「あのなあ」と森はやさしい声で言った。
くつしたかんとあかんぞ」
 それが森と聖のはじめての会話だった。
 ワイシャツのそでをまくり上げ、ズックの中は裸足はだしだった。
「はあ」と聖は頭をかいた。
「この子は冬でもこうなんです。なものを身に着けるのがうつとうしいらしくて」
 聖の代わりにトミコが答えた。しかし、師匠になろうかという人とはじめて面接するときに裸足で現れるものだろうか。一緒についている親は何で注意しないんだろう。
 そんな森の疑問をかすようにトミコは言った。
「この子、一度いやじゃといったら、私の言うことなんか聞くもんじゃなくて」
 そうほがらかに笑うのだった。
 森は不思議な感覚にとらわれていた。
 お母さんはせていて小さくて、そしてとてもやさしく上品な雰囲気である。品のいい洋服をつつましく着こなしている。ところがその横にいる子供は、ワイシャツをだらしなく着こみ、だぶだぶの学生ズボンに裸足で、愛想の一つも見せずに立ちつくしている。そのくせ、病気のせいで膨らんだほっぺたは愛嬌たっぷりだ。
 森はひとで聖を弟子にすることにした。はじめて聖を見てからその決断をするまでに5秒もかからなかった。くつさがないのがよかった。重い病気と闘ってきた強い意志を感じさせる目がよかった。まくり上げたワイシャツも裸足でいることさえも、森にとってはすがすがしいものに思えた。ようぼうも態度も何もかもなっていなかったが、それがかえって森の心を大きく動かした。
 将棋のテストは行わなかった。
 この子を弟子にする。森は会っただけで瞬間的にそう決めていたのだった。
 それは師と弟子の不思議な、そして運命的な出会いだった。
 11月に大阪で聖は森門下として念願の奨励会試験にいどんだ。5級で受け、5勝1敗という文句なしの好成績をあげた。
 この日、大阪では佐藤康光、東京では羽生善治、森内俊之、郷田真隆、丸山忠久ら後の将棋界をせつけんするしゆんえいたちがプロの門を叩いていたのである。
 奨励会試験を終えて広島に帰った聖は、以前にも増してもうれつに将棋の勉強に打ちこんだ。
「名人になるんだ」と叫びながら毎日毎日、並べに没頭した。将棋の駒はみるみるうちにすり減り、盤はあっという間にささくれだった。しかしそんなことがすべて自分の血となり肉となっていくことを聖は実感していた。
 明確な目標があり、そのための努力があった。そんな単純な図式が心地よく、聖の心はたされていた。今の自分の努力は、自分の夢に直結している、やればやるほど確実に名人に近づいていく、その現実が聖のやる気をますます募らせるのだった。
 しかし、突然聖の体を蝕んだネフローゼのように、思わぬ問題が湧き上がり聖のゆく手に立ちはだかろうとしていた。


 ある日、大阪の理事から森の部屋に電話が入った。そして、村山の入会は見合わされることになるかもしれないと言うのである。
 森は耳を疑った。「何でですか」と言う自分の声が震えているのがわかった。
 理事の説明によると、京都のなだれんしよう九段から村山の入会に対してきようれつなクレームがつき、問題が持ち上がっているというのである。
 そう説明されても森には何がどうなっているのかさっぱり見当がつかない。「どういうことですか」と聞きながら、何かいやな予感で体中の血の気が引いていくような感覚にとらわれていた。
 理事の話によると、村山は森ではなく本来は灘の弟子なのだということである。
 伸一が最初にプロ入りの相談をもちかけた篠崎が、奨励会時代からおたがいにふんけいの友と認め合う灘に弟子入りを申しみ、許可されていたというのである。
 森にしてみればせいてんへきれきだった。
 プロ入りはまだ早いと言いつつも、篠崎はきたるべき聖のプロ入りを準備していたのである。それに篠崎には、聖は自分がはつくつし育てたのだという自負もあった。伸一のぎわというのはこくかもしれない。伸一には師弟関係のような将棋界のもろもろのとくしゆせいを知るすべもなかったのである。本多に師匠探しを頼むときに、そのことを篠崎にひとこと断っておくべきだったのだ。
 灘蓮照九段といえば当時の関西を代表する名棋士である。
 灘にしてみれば四段になりたての森はひよこのようなものであった。
 自分が親友から頼まれて、弟子にしたはずの子供がなぜか、森門下で奨励会試験を受けている。それは灘にはとうてい承服しかねることであった。
 森は困り果てた。篠崎や灘の怒りはもっともである。しかし、自分は何の事情も知らなかった。それに、それはすべて大人の世界の話であり村山君には何の罪もないじゃないか。そう思い、森は師匠のみなみぐちしげかず九段をはじめ、の棋士たちに根回しをはじめた。不合格はどうしても納得がいかなかった。
 だいたいの情報をつかんだ森はすぐに広島へ飛んだ。篠崎に会うためにである。くわしい事情を知らずに弟子にした自分のけいそつさを、まずは篠崎にあやまるしかないと考えたのだ。
 森は篠崎の教室を訪ね、そしてした。
「何とか村山君を奨励会に入れさせてやってください」と何度も何度も頼みこんだ。
 森の誠意が通じたのか、わかったと篠崎は言ってくれた。
 胸の中の氷が解けるような思いで森は新幹線に乗り大阪へ帰った。「よかったなあ、村山君」と心の中で何度も叫んでいた。明日の朝、いちばんで電話をかけてやろうと思った。
 しかし、森が電話をかけるより先に森の部屋の電話が鳴った。
 妙なむなさわぎがした。電話のぬしは篠崎だった。
「昨日はああ言ったけど、もうわしの力じゃどうにもならんのじゃ。この問題はわしの手の届かないところにいってしまっておる。悪いけどもうどうもできんのじゃ、わかってくれ」
 そう言って電話は切れた。
 それならば、と森は思った。残る手段はただ一つ、灘に直接かけ合うしかない。
 森は意を決して灘に電話をかけた。電話口に出た灘は低い声で森にこう言った。
「あきらめろ。これ以上このことでおれに何か言ったら、お前をるぞ」
 このひとことで森の腹は決まった。大人たちのくつを一方的に押しつけ、子供の未来を次にする、その論理が許せなかった。斬るならば、勝手に斬れと思った。
 斬られようが、将棋界を追放されようが自分はどうなったっていい。もし村山君が将棋界に入れないようなことになれば、そのときは自分も将棋をやめよう、そう決心したのだった。
 考えてみれば、この1週間ろくにものも食べずに、ほとんどすいみんらしい睡眠もとっていなかった。何とか事態を打開するためにただ走り回っているばかりだった。昼は駆け回り、夜は夜で一人悶々と打開策を練りつづけた。なぜ自分がこんなに追いつめられているのか不思議に思えた。
 弟子という言葉が胸にみこんでくるようだった。あの、かわいそうに病気で膨らんだほっぺたとクリクリとした瞳や低い鼻がいとおしくて、どうしようもなく涙があふれた。
 村山君はわしの弟子や。はじめてのわしの弟子や、どんなことがあっても守ってやらな……。
 そう思う気持ちと自分の無力さ、そのきよの開きが切なかった。
 翌日から森は作戦を変えた。
 心の底から、怒りがこみ上げた瞬間、森は冷静になった。
 不合格を受け入れよう。その代わり、来年の試験に何のこんも障害も残さないようにしよう。それを落としどころにしよう、そう考えたのである。意地と意地をぶつけあっても、何の前進も望めない。このままでは、弟子の将来を本当に閉ざすことになりかねない。
 森は師匠の南口に調停を頼んだ。こちらの非を認め今年の入会は断念する。しかし、来年は水に流して自分の弟子として再度受験させてやってほしいというものだった。
 その調停案は功を奏した。灘にしても、たかが子供一人のことにいつまでもわずらわされたくはなかった。上げたこぶしを降ろす場所さえあれば、後はどうでもいいというのがほんだったのである。

 森は村山家へ無念の報告をした。
「今年はあきらめるしかありませんね。来年よい形で入会できるように全力をつくしましょう」
 伸一はそのことを聖に告げた。そして森から聞いたことを包み隠さず教えてやった。
 森が聖を電話口に呼んだ。
「つらいだろうけど、まんしてや」と森は言った。そして「この1年を無駄にしないようにすればいいんだから」とつづけた。
 森の言葉をじっと聞いていた聖がはじめて口を開いた。
「どうして、どうして僕、奨励会に入れないの」
「しかたないんや。将棋界はいろいろめんどうでな」
「どうして?」と言った聖の声がみるみる涙ぐんできた。
「どうして、僕」と言ってとうとう泣き出してしまった。そしてわんわん泣きながらつづけた。
「奨励会に入れないの」
 聖の無念の気持ちは森には痛いほどわかった。試験の成績はばつぐんだった。そして聖自身が何をしたわけでもない。しかし気がついてみれば、聖を取り巻く糸はもうどうにもならないほどにこんがらかっていた。森にはもうそれをほぐすことはできない、無理にそうすればそれは聖をますますめつけることになるだろう。
「来年、来年や」と森は聖に語りかけた。
「どうして?」
 泣きじゃくりながら、聖はやっとその言葉を振りしぼった。その言葉は森の心の奥深くを鋭くえぐった。
「とにかくいまは我慢してや」
 そう言って森は静かに受話器を降ろした。
 その夜、聖は血相をかえ伸一にいますぐ篠崎教室へ連れていってくれと言い出した。
じかだんぱんする」と言って聞かないのである。
 もう、どうにもならないことは伸一にはわかっていた。しかし、大人の一方的な理屈で夢を打ち砕かれた聖の納得のいくようにしてやるしかないと思った。自分が篠崎に電話を一本入れていれば、何の問題も起きずにすんでいたのかもしれないのだ。そう思い、伸一は聖を車に乗せて、トミコと一緒に篠崎教室の近くのきつてんまでいって、そこに篠崎を呼び出した。
 篠崎が喫茶店に現れるなり聖は深々と頭を下げた。
「お願いします。一生のお願いです。僕を奨励会に入れてください。そうなるように、してください」
 しかし、篠崎の答えはつれないものだった。
「そうしてやりたいのはやまやまだが、もうわしにもどうすることもできんのじゃ」
 それは正直な篠崎の気持ちだった。おこっているのは自分ではなくて関西を代表する九段なのである。この問題は自分の手の届かないところで動き、そして自分に関係のないところで結論が出た。それを、覆すことはもうできない。
「わかってくれ」
 そう言うと篠崎はそそくさと喫茶店を出ていってしまった。
 沈黙の時が少しだけ流れた。
「僕は何もこわくない」
 喫茶店に残された聖は父と母の前でそう言った。
「何も恐くない」
 もう一度そう言った目にみるみる涙があふれ、病気でむくんだほおを伝わって落ちた。
「恐いのは大人じゃ」と言ってわんわんと泣き出した。
 両手の拳を握りしめ、自分のひざを殴った。歯を食いしばって耐えようとしても体の中からこみあげてくるどうしようもない怒りを抑えることはできなかった。
「僕は病気だって死ぬことだって恐くない。恐いのは人間じゃ、人間だけじゃ」
 そう言ってとめどもなく流れる涙をぬぐおうともせずに泣き叫んだ。
「大人はきようじゃ。どうして、どうしてじゃ」
 頭がおかしくなってしまうのではないかと心配になるほどに、聖は泣いて泣いて泣きじゃくった。
 伸一もトミコも、気が触れたように泣くわが子をどうしてやることもできなかった。なぐさめる言葉もうまくみつからない。
 幼い日から、病院で暮らしてきた聖のことを伸一は思った。
 じゆうとくな病気を抱える子供たちに囲まれ生きてきた聖。いちばん甘えたいときにも、母も父も側にはいなかった。そんな寂しさと夜の深さをまぎらわすために、教えてやった将棋にのめりこみまるで申し子のようにすくすくと腕をみがいていった。自分の体の弱点を補完できるただ一つの将棋という存在。それは翼のように聖に世界の広がりを示しつづけた。
 将棋を知るために、強くなるために自分をコントロールし、ありとあらゆる努力をただの一日も欠かさずにつづけてきた。誰の力も借りず、そうやって聖は自分の道をたった一人で切り開いてきた。しかしまるでそのゆく手を閉ざそうとしているかのような大人たち、そしてそれをの当たりにしながら何もしてやれない自分。
「人間はきらいじゃ」と聖がどうこくするたびに、伸一は割れたガラスのかけらが胸にさったような痛みを覚えた。伸一もその痛みに耐えるために歯を食いしばっていた。
 どんなに泣いても叫んでも、聖の悲しみは止まらなかった。
 木かられ葉が落ちるように簡単に死んでいく子供たちに囲まれて、それでも自分はけんめいに耐え抜いてきた。大人たちはいつもいばるだけで、ルールや理屈をこねくりまわすだけで、消えていこうとする子供たちの命のともしを守ることもできなかったじゃないか。
 1年、と大人は簡単に言う。しかし、同じ1年でも意味が違う。自分にはわかっている。時間がないということが、健康な人間たちとは与えられている時間の絶対数が自分には不足しているということが。もしかしたら、生きてさえいられないかもしれない気の遠くなるような1年。それをいったいどんな思いで待てというのだろうか。
「大人は嫌いじゃ」
 もう一度聖は体の奥底からしぼり出すような声でそう叫んだ。それは魂を揺るがすような切ない叫びだった。そして、聖のごうきゆうは真夏の雨のように突然にやんだ。
 ぜんまいが切れたおもちゃのように、聖はぐったりと気を失ったように静かになった。泣きやんだのではなく、もう泣くことすらできなくなったのである。
 翌日から聖は寝こんだ。
 奨励会入りを目前にして、光り輝いて見えた自分の道が突然姿を消した。名人位が目に見えないところに遠ざかってしまったように思えた。その夜を境に中学入学以来、何の問題もなかった聖の体調に異変が起きた。熱がつづき、体は重く動かない。悔しさとせつかんさいなまれた聖は、悲しむことと泣くことに体力のすべてを使い果たしてしまったのだった。
 そのすきをのちぎれたまむしがのがすはずはなかった。
 ネフローゼ再発。
 病院で医師からそつこく入院を宣告された。
 いまいかなければ間に合わない、それどころか自分が歩く道すら閉ざされてしまっていた。
 病院のベッドの上で、窓から差しこんでくる月の光をぼんやりと聖は眺めていた。何をする気力も起きなかった。ただ、時間がすぎてくれることだけを願っていた。
 あまりにもつらい、秋。
 昭和57年、聖は13歳の落ち葉の季節をどうしようもないだつりよくかんといき場所のないいきどおりの中ですごしていた。将棋への道を閉ざされたいま、もう自分の手の中には何も残ってはいなかった。
 聖の翼はもう少しで折れてしまいそうだった。

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