何をしようとしても「トカトントン」という音が聞こえて白けてしまう。太宰治の知られざる奇書の擬音語と笑いを考察/斉藤紳士のガチ文学レビュー㉓

文芸・カルチャー

公開日:2025/1/27

『トカトントン』太宰治/青空文庫)

「トカトントン」は絶望の音である。
昭和22年に太宰治が発表した短編である本作『トカトントン』は、タイトルこそリズミカルで楽しげではあるがその内容はまさに「絶望」「喪失」「無気力」を描いた深刻な小説である。
では、何に「絶望」し、「喪失感」を抱き、「無気力になる」お話なのか、あらすじを紹介しよう。

舞台は戦後の日本。主人公の「私」は何か物事を始めようとするたびに「トカトントン」という奇妙な音が聞こえてくる怪現象に悩まされる。
何かに集中した時や前向きに取り掛かろうとするとどこからともなく「トカトントン」が聞こえてきて、途端に「私」は無気力になってしまう。
青森県出身の「私」は26歳で終戦までの4年間を軍隊で過ごし、終戦後は郵便局で勤めるようになる。
「トカトントン」が初めて聞こえたのは昭和天皇の玉音放送を聞いたときだった。
玉音放送が終わると若き中尉が壇上に駆け上がり、「われわれ軍人は、あくまでも抗戦を続け、最後にはひとり残らず自決するぞ」と涙を流す。

ああ、その時です。
背後の兵舎のほうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞こえました。
それを聞いたとたんに、なんともどうにも白々しい気持ちで、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでした。

それからというもの、小説を書き上げようとすると「トカトントン」、恋に落ちそうになったら「トカトントン」と悉くトカトントンによって無効化される主人公が描かれる。
小説自体は「私」が憧れる小説家に向けて書いた書簡体で、最後には小説家の返信も添えられている。
小説家はトカトントンを「気取った悩み」と一蹴し、「マタイによる福音書」の一節を紹介し、「肉体しか殺せない人間より神を敬え」というメッセージを伝える。

この小説を評論家などは「翳がさしている」とか「死の予感に満ちている」などと評価しているが、果たしてそうだろうか?
確かに、終戦直後の状況は凄まじいものだったであろう。
情報統制され、国民の多くは戦争に於いても優勢であると信じていた中で聞いた玉音放送はまさに寝耳に水だっただろう。そして思いもよらない「無条件降伏」という現実は受け入れ難いものだったことは容易に想像できる。さらに軍国主義から民主主義へとコペルニクス的転回を求められた国民の心情は察するにあまりある。
しかし、そんな「絶望」や「喪失」を「トカトントンという音を聞いたら急に白ける」という設定で物語に昇華するあたりに太宰の才能を感じずにはいられない。
「効果音」によって場面転換がなされたり、半ば強引にオチがついたりするのはテレビのコントなどでよく見られる手法だ。
「チャンチャン」という音が鳴れば強引にオチがつくし、『タブー』が流れれば加藤茶は「ちょっとだけよぉ」と服をはだける。
また、効果音の代わりに「だめだこりゃ」のようなギャグで締めくくられることもある。日本の芸能界ではザ・ドリフターズがコント内の「音」の使い方の雛形を作ったと言っていいだろう。
今やテレビやYouTubeなどで当たり前のように使われている演出であるが、それを戦後間も無くの時代に、しかも小説という媒体で組み入れるあたりが太宰のユーモアセンスの高さを物語っている。
ところでこの場面転換の効果音がなぜ金槌で釘を打つような「トカトントン」だったのか、研究者の間でも様々な考察がされているようで、日本が再復興するための「建設の音」という説が大多数のようだが、私はそうは思わない。
深刻で重いテーマの物語がゆえに、あえて「トカトントン」というある種楽しげで軽快なオノマトペを用いたのではないかと推察する。
人に絶望を与え、無気力にする音がおどろおどろしい音や禍々しい音だったらそれこそ小説としての「可笑しみ」がない。

もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮んでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン

状況は緊迫しているのに、童謡を歌っているような軽やかさがある。
終戦後、日本中に蔓延していた喪失感を少しでも和らげようとする太宰の優しさすら感じる、そんな掌篇である。

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<第24回に続く>

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