村上春樹が推す米作家20年ぶりの新作! 虚言ばかりで犯罪者となった中年男の逃亡劇の果てに待つもの

文芸・カルチャー

公開日:2025/4/14

虚言の国 アメリカ・ファンタスティカティム・オブライエン:著、村上春樹:訳/ハーパーコリンズ・ジャパン

 SNSなどで広まる嘘や虚言、偽情報、プロパガンダ、そしてフェイクニュース──しかしそれらは今に始まったことではない。『旧約聖書』の「創世記」には弟のアベルを殺した兄のカインが、創造主ヤハウェからアベルの行方を問われて嘘をつく場面があり、『ギリシャ神話』にはギリシャ人がトロイア人を欺いて国を滅亡させた「トロイの木馬」のエピソードがある。ところが現代は昔と比べて嘘が広まるスピードが異常に速く、あっという間に世界中へ広まり、人々の生活や政治、国際的な問題にまで瞬時に影響を及ぼすようになった。さらに近年嘘は人の口に乗るだけではなく、アルゴリズムやAI(人工知能)学習によって拡散されるケースも増えており、「いったい何が嘘なのか?」を見極めることが非常に難しくなってきている。

 そんな時代を描き出したのが、アメリカの作家ティム・オブライエンの20年ぶりの小説『虚言の国 アメリカ・ファンタスティカ』だ。2023年に発表された600ページ超の本作を訳したのは、これまでオブライエンの『ニュークリア・エイジ』『本当の戦争の話をしよう』『世界のすべての七月』などの翻訳を手掛けてきた小説家の村上春樹だ。

 物語の始まりは2019年8月。主人公はボイド・ハルヴァーソン という50絡みの中年男だ。ボイドはトリビューン紙の敏腕記者だったが、過去の経歴がすべて嘘であることが当時の妻の父に露呈し、失職してしまう。その後ミネソタ州フルダという町のJCペニー・ストアの店長として働きながらも、プライベートではライフワークのようにフェイクニュースをバラまき、「嘘つき中の嘘つき、虚言癖の権化」的存在として日々を過ごしていた。そんな冴えないボイドはある計画を企て、町にあるコミュニティー・ナショナル銀行から8万1千ドル(当時のレートで約860万円ほど)を奪うことに成功する。銀行で働く背の低い赤毛の女性アンジー・ビング にテンプテーション 38口径スペシャルを見せて金を奪ったボイドは「悪いとは思うんだが」「車に乗って同行してもらわなくちゃならない」と言ってアンジーを車に乗せ、国境を越えてメキシコへ逃げたように見せかけ、車を処分してからバスとタクシーを乗り継いでサンタモニカのボイドの実家へと向かう。そしていくつかの用を済ませ、家にあった旧型のエルドラドに乗り込み、計画遂行のためアメリカ中を疾走する。

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 2人の行方を執拗に追うのが、アンジーのボーイフレンドのランディー・ザフ (表紙に描かれている車がランディーが運転する87年式カトラス)だ。そのランディーの知り合いで悪徳警官のトビー・ヴァン・ダー・ケレン 、金を奪われた銀行の頭取ダグラス・カッタビーと妻のロイス・カッタビー 、ボイドの元妻エヴリン・キラコシアン と、彼女と再婚した造船会社経営者ジュニアス・キラコシアン、 そのジュニアスの手先のヘンリー・スペック 、元妻の父ジム・ドゥーニーとパートナーのカルヴィン などが物語に登場し、追う者と追われる者たちの本音と建前と嘘と愛に謀略や暴力、思惑が絡み、物語は意外な展開となっていく。そして物語を活写する、現代への風刺と皮肉、ユーモアに満ちたオブライエンの筆致こそ、本書の醍醐味といえるだろう。村上は訳者あとがきの「嘘が猛威を振るう国で」でこう書いている。

 本書はお読みになっていただければわかるように、シリアスな喜劇仕立てになっている。ストーリーラインも複合的で、どこまでが笑劇(ファルス)で、どこからが本気(シリアス)なのか、読んでいる方もだんだん境目がわからなくなってくる。笑えばいいのか、考え込めばいいのか……。小説として──作家の側からすればということだが──なかなか難しい設定だ。しかしオブライエンはひるむことなく、この難作業に正面から取り組み、輝かしい成果を得ている。また技術的にも申し分ないレヴェルに達している(と僕は思う)。

 現在78歳のオブライエンは病気で手に痛みがあって執筆に支障をきたしているため、これがおそらく最後の小説だと語っているそうだ。しかし嘘やフェイクによって分断が進む今だからこそ書かれた本作に込められたテーマと、人間が持つ可能性についての物語は、ますます次作への期待を高めるものであった。

文・成田全(ナリタタモツ)

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