「刑事もの」でも謎解きなし! 小野寺史宜が、シンママと付き合う31歳刑事の日常を描く『ぼくは刑事です』【書評】

文芸・カルチャー

PR 公開日:2025/5/28

ぼくは刑事です
ぼくは刑事です小野寺史宜/ポプラ社

 刑事が主人公なのに、謎を解くわけでもなければ、事件に遭遇することもほとんどない小説というのは、珍しいのではないだろうか。では、『ぼくは刑事です』(小野寺史宜/ポプラ社)の「ぼく」こと松川律がなにをするかといえば、元カノからかかってきた久しぶりの電話でストーカーの相談に乗るのがいちばんの事件といえば事件で、それ以外は、甥っ子と一緒に辛過ぎない麻婆麵に舌鼓をうったり、今つきあっている彼女とその娘とともに浅草・花やしきで遊んだりしている。

 もちろん、平和な日常の隙間で凶悪ともいえる事件はたくさん起きていて、決まった休みをとれるわけではないし、有休をとっても呼び出されれば駆けつけなくてはいけないから、元カノとは別れたのであるし、二人しかいない友人の片方が結婚するというのに、披露宴に参加してくれといわれても、うなずくことができない。でも、著者の小野寺史宜さんが描くのは、律が刑事でなくても直面するであろう、日々の悲喜こもごもだ。そして、律が刑事であり、一般の人よりも「正義」について考える機会が多いからこそ向き合わなくてはならない、いくつかの決断を通じて、大事な人を守りながら生きていくというのはどういうことなのか、読者である私たちもまた、考えさせられてしまう。

 印象に残っているのは、律の、小学生時代の思い出が語られる場面だ。放課後、クラスメートの男子が6年生に囲まれているのを知って、わざわざ近くまで行ったのに、律は助けることができなかった。止めに入ったのは、律が好きだった女の子だ。「ちゃんと正義をおこなえる人が好き」と言っていた彼女は、自らも正義をまっとうした。たぶん、介入したのが女子だから丸くおさまったのだろうし、律が出しゃばれば事態が悪化した可能性のほうが高かった。結果的に良かったとわかっていても、自分が臆病だったこと、助けようとすらしなかったことを、律だけは知っている。だから律は、今、刑事として、それ以前に人として、できるかぎりの正義を行うようにしているのだと、それはなにより自分で自分のことを嫌いになってしまわないためなのだということが伝わってくるエピソードである。

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 人は、弱い。律の元カノがストーカー被害に遭ったことを「弱っているときにそのへんの人に泣きついたせいだ」とこぼす場面もあるけれど、律が今の彼女と付き合うことになったのは、同じように「そのへんの人に泣きついた」結果だ。それが安定した幸せにつながったのは、律に人を見る目があるから、だけではなくて、たぶんさまざまな巡りあわせによるものでもある。どんなに相性のいい相手とだって、弱さに飲み込まれているときは、うまくいかない。彼女の家族が、過去に取り返しのつかない失敗をして、そのことで律との関係に波紋をもたらしたように、誠実だから、悪意がないから、人は幸せになれるわけではないのだ。

 だからこそ、自分で責任を負える範囲で「ちゃんと正義をおこなう」ことが大事なのかもしれない。律は刑事らしくないけれど、その生き様を物語を通じて示してくれるところが、やっぱり刑事だなあと思う。ありきたりな日常を守るために何が大事なのか、律は私たちに教えてくれるのだ。

文=立花もも

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