道尾秀介の体験型ミステリー『いけない』第2弾。願いを叶えるかわりに大事なものを奪う“神”がもたらす結末とは【書評】
PR 公開日:2025/6/9

「◯◯をしてはいけない」――このように言われると、逆に試してみたくなるのが人間の心理である。しかし、世の中には決して開けてはいけないパンドラの箱が存在する。体験型ミステリーとして話題を呼んだ、道尾秀介氏によるミステリー小説「いけない」シリーズ第二弾『いけないⅡ』(文藝春秋)の文庫版が、このたび刊行された。本書は前作同様、各章のタイトルすべてに「いけない」のワードが盛り込まれている。それぞれの物語で描かれるタブーが連鎖的につながる本書は、読み進めるごとに緊張と恐怖で肌が粟立つ。
第一章「明神の滝に祈ってはいけない」では、二人の人物の視点が交互に入れ替わる。一人目は、行方不明になった姉を探す妹の桃花。二人目は、観瀑台の避難小屋を管理する大槻だ。桃花の姉である緋里花は、高校二年の冬に突如失踪した。一年間消息不明で、緋里花が大切にしていたぬいぐるみが河原でびしょぬれの状態で発見されたが、家族はみな彼女の無事を信じていた。SNSでは、緋里花の行方について憶測による無責任な言説が垂れ流されている。桃花はそれらを一瞥しながらも、姉の消息を探るため、検索窓にキーワードを打ち込み続けた。やがて桃花は、姉の裏アカウントらしきものを探し当てる。そこに記された数少ない書き込みから、姉が「明神の滝」に向かったのではと推論を立てた桃花は、姉が行方不明になった当日の足跡をなぞりはじめる。
「明神の滝」には、いわくありげな伝説がある。明神の滝に住まう神は、願いを叶えるかわりに大切なものを奪うという。伝説のもとになった男性は、村に現れた巨大な毒蛇を追い払うかわりに、大事に育てていた美しい牡丹がすべて枯れてしまった。しかし、小屋の管理人である大槻の父は、「この話は、本当じゃねえ」と語る。
“――あの滝にいるのは、本当はもっと、おっかねえ神様だ。”
「明神の滝」は、元々は「冥神の滝」だったそうで、「冥」には「あの世」という意味が含まれる。あの世の神様が、願い事と引き換えに何を奪うのか。姉の消息を尋ねにきた桃花に対し、大槻は真相を打ち明ける。その際、大槻はこのように述べた。
“「単に、そういう相手だという話です。それを知らずにやってくる人間のほうに、問題があるんです」”
大槻のこの言葉は、そのあとに続く物語にも通ずる。相手がどういう存在か、それを知らずに接近することで危うい目に遭うのは、相手が神である場合だけに限らない。
第二章では、同級生を肝試しで驚かせようと画策する小学生が、第三章では、実の息子の殺害を自首してきた年配男性がそれぞれ登場する。自らの命を終わらせようとする者同士の出会いを描いた最終章を含め、本書の登場人物たちは、みな重い十字架を背負っている。己の背中に括られた荷物を持て余す人々は、一見すると悲壮感漂う風体で、社会の規範に従順な人間に映る。しかし、実際は狡猾で、計算高くしたたかな面もあわせ持つ。強いだけの人間がいないのと同じように、弱いだけの人間もまた存在しない。常識や理性の裏側で蠢く本能が、本来あるべき道筋から人々を退ける場合、往々にして“守りたい誰か”の窮地が横たわる。
今作はシリーズものだが、それぞれの物語が独立しているため、本書から読みはじめても十分に楽しめる。その上で、2作とも読んだ人は思わぬ繋がりを発見できるだろう。また、文庫版『いけないⅡ』の発売日である6月4日、本シリーズの真相解明につながる「ヒントサイト」が開設された。こちらはネタバレを含むため、サイトを覗くのは必ず本書を読み終えてからにしてほしい。まずは、物語の世界にどっぷりと身を沈め、各章の最終頁に掲載される写真から「隠された真相」を推察する。それこそが、本書の醍醐味である。
時代と共に移ろいゆく土地の名前、点在する嘘と真実、交錯する現在と過去。四つの「いけない」がもたらす結末は、すべてが複雑に絡み合っている。ミステリーとホラーの両面を味わえる本書は、謎解きのエンタメ作品でありながら、人が人を思うからこそ生まれる痛みと悲しみに胸をつかれる。誰もが、誰かを守りたかった。ただそれだけだったのに、“いつのまにかぐちゃぐちゃの塊になったまま、もうどうしようもなくなってしまった”人々の嘆きは、人間の愛と業に塗れている。真相に辿り着いた読者が、その結末に何を見るのか。解き明かすべき謎の正体は、物語のさらにその先、自分自身の中にこそあるのかもしれない。
文=碧月はる