松坂大輔は「本当に投げられなくなるまで投げた」。野球の神に愛された男の幼少期から引退までをたどる【書評】
公開日:2025/7/25

高校野球史に語り継がれるエピソードは数あれど、1998年の夏ほどドラマティックなストーリーに満ちた年はない。主役は横浜高校のエース・松坂大輔だ。春夏連覇の期待を背負い、日程が進むほどにボルテージは高まった。延長17回の死闘を制した準々決勝。9回1イニングの登板で奇跡の大逆転を呼びこんだ準決勝。そして決勝ではノーヒットノーラン達成。
プロ入り後も当然のように活躍し、メジャーリーグへ。日本代表としてはオリンピックに2度選出され、WBCでは2連覇に貢献。『松坂大輔 怪物秘録』(文藝春秋)は、野球の神に愛された男の幼少期から引退までの道程をたどるノンフィクションである。
赤ちゃんのときの映像記憶に始まり、5歳から習った剣道や「キャプテン翼」に憧れてサッカーに夢中になったことなど、少年時代の姿もありありと語られる。小学3年で学童野球チームに入ると、体験入団の初打席でいきなり満塁ホームラン。ド派手な伝説の幕開けに思わずため息がもれるが、ともあれ松坂の顔が見えてくるような率直でみずみずしい語り口が心地よい。
著者である石田雄太は、数々の名選手に迫るベースボールジャーナリスト。松坂とは長いつきあいで、プロ入り最初のシーズン開幕前に桑田真澄との面会をセッティングしたというからその信頼関係がうかがえるというもの。
「1998年の夏から2021年の秋までの足かけ24年という時の流れは、17歳の怪物投手を41歳にした。その間、節目に同じ空気を共有し、彼が発する言葉を綴ってきた。野球の描き手として、ひとりの野球選手のプロ入りから引退までを見届けたのは、彼が初めてだった。」
冒頭文はシンプルにして一人の野球選手の人生観、野球観を伝える責任感にみなぎっている。
野球ファンの記憶に残る大一番の場面はもちろん、日々の練習、監督やチームメイトとの会話の中で松坂が「そのとき考えていたこと」が克明に綴られるのが読みどころだ。考えて、実行する。もちろん失敗もある。失敗したとしても、譲れない美学もある。対峙した者にしかわからない感慨を、ヒリヒリするような臨場感をもって体感できるのが魅力だ。
たとえば松坂は「本当に投げられなくなるまで(現役で)投げた」という。これがリアルにどういうことなのか。アスリートではない人間が想像するのは難しいことも痛いほどに伝わってくる。そう、「辞める」ことの重みも。
ところで、本書の中でおそらく一番多く名前が出てくる選手はイチローである。注目されたルーキーイヤーの初対決の描写のゾクゾクすること! また、松坂が海を渡る決意を固めたのも、イチローのメジャーでの活躍が影響していた。常に熱視線を注いだイチローとはWBCでチームメイトにもなっているが――鍔迫り合いから生まれる交情に涙を禁じ得ない。
野球では「ここは直球で勝負しなければいけない場面」があるとされる。筆者はこれに疑問を感じていて、旧態依然とした根性野球の一環のように思っていたのだが、本書によって初めてその意味を理解できたと思う。
松坂が現役を引退して3年が経った今、「生きている限り、野球はずっとついて回る」という発言がうれしい。「野球解説者・野球評論家」といった肩書きのあるなしに関わらず、彼は生涯野球人なのだ。
松坂大輔のことを、また野球がもっと好きになる一冊である。
文=粟生こずえ