うさぎとかめの競走で殺人事件が⁉︎イソップ童話を舞台に、赤ずきんが名推理を繰り広げる。青柳碧人の人気シリーズ最新作【書評】

文芸・カルチャー

PR 公開日:2025/7/25

赤ずきん、イソップ童話で死体と出会う。
赤ずきん、イソップ童話で死体と出会う。青柳碧人/双葉社

 幼少期、童話を読むたびに「この世界に潜り込めたら」と繰り返し想像した。動物と話せて、魔法が使えて、悪者は退治され、正しき者が得をする。そんな御伽噺の世界は、堪らなく魅力的だった。しかし、大人になった今、明確に「正しい」とされる教訓を含む物語に、ある種の違和感を抱くようになった。物事の裏側を覗き見た時、正しさはいとも容易く反転する。その現実を知った上で読み返す童話の世界は、時に悲しいほど残酷だ。

 青柳碧人氏による連作短編集『赤ずきん、イソップ童話で死体と出会う。』(双葉社)は、グリム童話でお馴染みの赤ずきんがイソップ童話の世界に迷い込み、次々と事件に巻き込まれる物語である。

 ある日、アラビアの地から自宅に帰ろうとしていた赤ずきんは、不運が重なり帰宅手段を失った。森の中で立ち往生していたところ、一匹の狐と出会う。狐の名はライラス。ライラスは、高い木の上にたわわに実るブドウを見上げ、「酸っぱいに決まってる!」と悔しそうに唸っていた。言わずもがな、イソップ童話でお馴染みの『酸っぱい葡萄』である。このように、本書には数々の場面でイソップ童話の筋書きが登場する。

 赤ずきんが家に帰れないため、二人はひとまずライラスが住まうマンダリーノ村を目指すこととなった。マンダリーノ村では、うさぎのチュバスと亀のタトロスが競走を繰り広げる真っ最中で、村人たちはこっそり賭けに興じるほど盛り上がっていた。なぜ「こっそり」なのかといえば、この世界では「不実な者」には報いが課せられるためである。「教訓の番人、イソップ」なる人物が、不思議な力を用いて不実を働いた者を氷漬けにしてしまうのだ。うさぎと亀の競走は、童話の筋書きに違わず、亀の勝利に終わった。しかし、このあと村で起きた殺人事件をきっかけに、うさぎと亀の勝負の行方に疑惑の暗雲が立ち込める。

 マンダリーノ村で起こる殺人事件を皮切りに、赤ずきんは訪れる村々で事件に巻き込まれる。推理力に長けた赤ずきんは、さまざまな事件において的確に事実を見抜き、事件解決を図る。だが一方で、いつまで経っても家に帰れず、苛立ちを募らせていく。状況を悪化させているのは、教訓の番人、イソップだ。赤ずきんが家に帰るためのキーマンとなる人物や土地が、イソップの手によって悉く氷漬けにされてしまう。その不条理と戦いながら道を切り拓く赤ずきんは、最終的にイソップとの勝負に出る。

 そもそもイソップは、なぜ「不実の者を氷漬けにする」ようになったのか。それは、彼の両親が見舞われた不運に起因する。イソップの両親は粉挽きを生業としており、日夜真面目に仕事に取り組んでいた。しかし、ある夏の日、穀物商を名乗る男の口車に乗ってしまい、前払いで大口の契約を交わす。結果、穀物商に騙され、先立って金を払っていた取引先から厳しい誹りを受け、両親は首を吊った。

 両親の死後、イソップは孤児院に引き取られた。勤勉に生きることを信条とする彼は、周囲の子どもたちと馴染めない。葛藤を抱きながらも実直であることに固執するイソップに、氷雪嵐(ブリザード)の力を授けたのは北風であった。かの有名な『北風と太陽』に登場する北風である。その後、イソップは不実を見つけては罰し、教訓を得た者には報酬を与えるようになった。

「人生には正しき教訓が必要です。不実な者には、相応の報いを」

 イソップの言葉は「正しい」はずなのに、その響きはどこまでも悲しい。勤勉であることは、言うまでもなく美徳だ。「真面目」が長所ではなく短所かのように扱われる現代の風潮が、私は好きではない。しかし、本書でイソップが謳う「勤勉」や「正しさ」は、明らかに歪んでいる。

 現代の社会には、イソップがあふれている。正義の棍棒を手に、あちらこちらで他者を罰する人々は、獲物を探すことに執着するあまり物事の一部分しか見ようとしない。もちろん、明確に批判が必要な事柄もあるだろう。だが、人が人を裁く権利はないことを忘れてはならない。批判と懲罰は別物で、私たちに許されているのは前者のみである。

 イソップ童話とミステリーの掛け合わせが織りなす物語は、シュールな笑いを含みつつ、ある種の“教訓”が描かれている。本書に登場する教訓は、万人に通用するものではない。そう思いつつ、私はそれを胸にしまった。私の中にも、氷漬けになったままの部位がある。今すぐは無理でも、いずれ溶かしたい。そのための鍵を手に入れたような気持ちで、ささやかな感謝と共に、不思議な物語をそっと閉じた。

文=碧月はる

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