カラオケが何者にもなれない大人を救う!? 仕事、子育て、人間関係…すべての悩める人へ送る、ダウナー系人生讃歌小説【書評】

文芸・カルチャー

PR 公開日:2025/8/27

じゃないほうの歌いかた
じゃないほうの歌いかた(佐々木愛/文藝春秋)

 何者にもなれない自分をもてあましている。夢を追う時期はとうにすぎてしまったし、かといって誰かの特別な人になれる訳でもない。どこにいても自分の居場所がないような気さえする。そんな憂鬱に慣れてしまったはずだが、どうしてだろう、たまに途方もない虚しさに襲われる大人はこの世界にごまんといるに違いない。

 そんなアンニュイな大人たちに読んでほしいのが、『じゃないほうの歌いかた』(佐々木愛/文藝春秋)。住宅街にたたずむカラオケ店「カラオケ BIG NECO」を起点とした連作短編小説だ。むろん「ビッグエコー」という有名なチェーンとは無関係のこのカラオケ店には、あらゆる悩みを抱えた大人たちが集う。仕事、子育て、人間関係、すべての悩める人へ送る、ダウナー系人生讃歌小説なのだ。

 たとえば、この本の最初の短編「池田の走馬灯はださい」で描かれるのは、これまでに二度「カラオケのイメージ映像に出ていそうな女」と言われたということを引きずり続けている女・池田の物語だ。何につけても「ださい」と否定してくる母親や、母親の住む「ださい」田舎から逃れるために、東京の大学に進学、就職した彼女は、「カラオケのイメージ映像に出ていそうな女」と言われたことをキッカケに働けなくなり、今は家から近いスーパーのアルバイトをしている。カラオケはトラウマなのに、ある日、三十代半ばのベテランアルバイターに「ジョブズを偲ぶぞ」という謎の言葉で誘われ、大学生アルバイトと3人で「カラオケ BIG NECO」に行くことになってしまった。そこで、ベテランアルバイターは「夢」「希望」「元気」「信じる」など、わかりやすく前向きな歌詞の歌ばかり歌う。そんな歌詞を大学生アルバイトが「ださい」と笑っているのを見た彼女は……。

そもそもカラオケってなんだ。YAZAWAやジョブズのような一流にはなれない凡人が、人様の作った曲を自分に酔って歌う。これ以上ないほど、恥ずかしい場所じゃないか。

 そんなことまで思っていた池田は3人で出かけたカラオケをキッカケに、カラオケという場に希望を見出すことになる。大声で「未来と書いて、わたしぃー!」と叫ぶまでになる。一体、何があったのか。それは、ぜひともこの短編を読んでほしいが、まさかこの短編にこんなにぽかぽかと心温められるとは思わなかった。そうか、私たちは物事をちょっと複雑に考えすぎていたのかもしれない。ありのままをありのままに、まっすぐに。そうやって物事を捉えることがどれほど難しく、大切なことなのかを、この本は教えてくれる。

「今朝の染井さんの体温は、36.7度だったらしい。だからわたしと加賀は今夜、36.7度の湯につかる」という不思議な書き出しで始まる、「染井」という男に惚れた恋敵の男女がそれぞれ行う密やかな儀式「加賀はとっても頭がいい」。新しく入った七十すぎのアルバイト・石崎さんへの接しかたに悩みながら、ふと、1年前にメッセージを送ったのに既読がつかない同級生を思い出す「カラオケ BIG NECO」店員の「石崎 IS NOT DEAD」。昔出演したミュージックビデオの楽曲が、今頃になってバズっていることに困惑するホームセンター勤務の元俳優の「君の知らないあの佐藤」。思うように小説が書けない小説家が思い出す、空想好きの別れた元妻やその子どものこと、矢沢永吉のステッカー「矢沢じゃなくても」––––緩やかにつながっていく物語は、なんと心地よいことか。この物語では、誰もが毎日を悩みながら過ごしている。少し変わった人物ばかり描かれているはずなのに、どうしてこれほど身近に思えるのだろう。恋の悩み、同僚への悩み、古い友人への思い。かつて追った夢、今も追い続けている夢。今の自分をどう肯定していいのか、そんな自分を家族は、周囲はどういう風に見るだろうかという葛藤。彼らの姿は、どこか私たちに似ている。そして、そんな彼らの日々を彩る楽曲は、カラオケという場所は、彼らに本当にささやかな奇跡をもたらしてくれる。あまりにも小さいそれに、こんなにも心揺さぶられるだなんて。登場人物たち同様、私たちも、じんわりと、心が癒やされていくようだ。

 読み終わった後、何だか心がまっすぐになった気がした。そして、何よりもカラオケに行きたくてたまらなくなった。「ださい」と思える歌でも、下手な歌い方でもいい。がむしゃらに歌いたい。それは歌に限らない。「もうちょっと頑張ってみようか」「前を向いてみようか」と、この本を読むと思える。モヤモヤを吹き飛ばしたいなら、この本。屈託を抱えるあなたにこそ、この本を読んでほしい。

文=アサトーミナミ

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