最果タヒがキャラクターへ綴るラブレター。「愛」をテーマに、竈門炭治郎や葛城ミサトなど32人へ込めた思い【書評】

文芸・カルチャー

PR 公開日:2025/8/26

きみを愛ちゃん
きみを愛ちゃん(最果タヒ/集英社)

 二次元のキャラクターに恋をしたことがある。寝ても覚めてもその人のことが好きで、彼が生きている世界に住みたくて、「あーあ、異世界転生できないかな」なんて思ったりして。でも今思えば、それは生身の恋愛感情というより、キャラクターという存在を通じて、自分の理想や願望、そして人間関係の痛みを見ていただけかもしれない。『きみを愛ちゃん』(最果タヒ/集英社)は、そんな私たちの“キャラに感じる想い”を言語化してくれる。

 本書は、詩人の最果タヒが32人のキャラクターに贈る“ラブレター”だ。マンガやアニメ、ドラマに演劇、童話まで、さまざまな人物たちへの愛が詰め込まれている。ただのキャラクター論ではなく、読者がキャラに期待している感情や、作品を読みながら見えてくる自己理解、そして著者の想いが、独自の視点で丁寧に語られる。

 本書には、著者自身の気持ちや考えが「これでもか!」と生々しく書かれている。一般に、創作物への思い入れが強い読者ほど、こうした主観的な語りには「解釈違いだ」と反発を覚えやすい。にもかかわらず、本書を読んでいて違和感を抱くことはほとんどなかった。むしろ、どの言葉もスッと心に入り込んでくる。それはきっと、感情の解像度がとても高いからだろう。自分でもまだ言葉にできていなかった気持ちを、そっとすくい上げてくれる。

「愛」をテーマにしているからこそ、ときにその内容が心に刺さって痛い。たとえば『らんま1/2』のキャラクター「シャンプー」を扱った章では、こんな記述が登場する。

自分がその人を好きだとしても、相手には全く関係のないことなのであり、好いているんだから向こうも好意的に感じてほしいなんて筋が通るようで何も通ってはいない(p16より)

 長い片想いの中で、ただ相手に自分の好意を押し付けるだけしかできず、恋が枯れた先で自省に至った経験を持つ身としては、見たくない傷を抉られた気分になった。それでも不快にならず、むしろ理解できるからこそ、「もっと読みたい」と思ってしまうところが、最果タヒという詩人が多くの人に支持されている理由なのかもしれない。

「愛」とは何も恋愛だけを指すのではない。家族愛、友愛、他人を慮る気持ち。「追悼・葛城ミサト」と称し、「エヴァンゲリオン」シリーズを取り上げたページでは、“保護者”を演じている彼女について語られる。葛城ミサトの見え方は、視聴者の年齢によって変わる。これは近年、SNSでたびたび語られていることだ。最果タヒは「保護者になれないまま、その役割をまっとうしようとしたテレビシリーズの葛城ミサト」に想いを馳せる。ハッとさせられたのが、次の一文だ。

ミサトの描かれ方は常に「シンジにとってどういう人か」「加持にとってどういう人か」であって、それ以外の要素がほとんど登場しない。(p117より)

 この指摘を読んだとき、「ああ、確かにな」と感じた。誰かにとっての役割ありきというのは、親に対して向ける目線と重なる。母や父としての顔ばかりを見てきて、生身の、親でないひとりの人間としてはどうだったかなど、本当のところはよく分からないままなのだから。

 私たちは生きていくなかで、ときに人と衝突する。理解してほしい、話せば分かるはず。そこにある愛が大きければ大きいほど、決着がつくまでぶつかり続けてしまう。社会だって「対話が大事だ」と諭すが、実際には“話して分からせる”になっていやしないか。しかし最果タヒは日ごろ親しむ宝塚歌劇で上演されたミュージカル『エリザベート』を通して、「わかりあえないことこそが、尊重すべき『他者』の姿だ」と説く。分かり合えないことだらけの今だからこそ、この言葉はいっそう意味をもつのではないか。

 新進気鋭の詩人によるキャラクター愛が詰まった『君を愛ちゃん』は8月26日発売予定。迷いを抱えて眠れない夜、ぜひゆっくり1ページずつ読んでほしい。きっとあなたが欲しかった言葉が、ここにはある。

文=倉本菜生

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