青山美智子『月の立つ林で』が文庫で登場 キャリアを諦めた女性、母親との確執に苦しむ高校生…“月”と“ポッドキャスト”が柔らかく照らす物語【書評】

文芸・カルチャー

PR 公開日:2025/9/13

月の立つ林で
月の立つ林で 青山美智子 / ポプラ社)

 物語に救われてきた人生だった。文章を食み、それらを血肉として必死にもがき続けた結果、どうにか40半ばまで生き抜いた。いつか、自分も誰かの助けになれるような文章を書きたい。そう願ってやまないけれど、未だに答えが掴めずにいる。「人を助ける文章」とは、一体どういうものだろう。

 青山美智子氏の連作短編集『月の立つ林で』(ポプラ社)に出会ったのは、文筆家として生きる道に大きな壁を感じていた頃であった。全5章からなる物語は、ままならない現実と己の不甲斐なさに悩む人々が登場する。一見すると独立している物語は、細い糸でゆるくつながり、やがてその糸はぐるりと一周する。まるで、新月から生まれた月が、再び新月へと還るように。

 第1章「誰かの朔」の主人公・朔ヶ崎怜花は、看護師として長年勤めた総合病院を3カ月前に退職した。辞めた理由は、大まかに言えば「心身の疲労が限界に達したから」だが、実際には決定打となる出来事があり、それをきっかけに強まった己への疑念を払拭できなかったことが大きい。

人を助けるって、なんだろう。どういうことなんだろう。今の私には無理だ。能力も体力も気力もない。

 もともと実家住まいだった怜花は、退職後、働く母に代わり家族全員分の家事を担うようになった。だが、どことなく感じる居心地の悪さを持て余し、重い腰を上げて就職活動をはじめる。しかし、看護師としてのキャリアを20年近く持っていながら、別の職種で働こうとすると悉く弾かれる。社会の壁に阻まれる中で、唯一の癒しは、夜のくつろぎタイムに聴くポッドキャストの配信番組だった。タケトリ・オキナという人物が配信する『ツキない話』。月を偏愛する男性が、月についての豆知識や想いを語る番組である。

 ある日、『ツキない話』で新月の話題が放送された。新月は、「新しいことにトライする絶好の日」と言われている。配信を聞き終えたのち、怜花はハンドメイドの通販サイトで見つけた指輪に強く惹かれた。「朔」と名付けられたその指輪は、シンプルながらもたしかな存在感を放っていた。「朔」とは、新月を意味する。怜花は、日頃アクセサリーを身につける習慣がない。しかし、「朔ヶ崎」という自分の名字に縁を感じたこともあり、思い切って購入を決意した。

 新月の日に、新しい指輪をお迎えする。はじめての試みに胸が高鳴り、物事が上手くいく前兆になるのではと期待するが、現実はそうすんなりとはいかなかった。溜まった苛立ちから自由奔放に生きる弟に鬱憤をぶちまけるも、自己嫌悪は募るばかり。しかし、ある人との会話を通し、怜花の心に変化が生まれる。

 本書に登場する人々は、周りと比べては自分の不甲斐なさに悩み、現状から抜け出そうと必死にもがいている。その姿は、外側からは時に滑稽に映るかもしれない。だが、渦中にいる人にとっては真剣な悩みであり、生きることそのものを左右するほど大事な分岐点でもある。母親との確執に悩む女子高生、売れない芸人を続けるべきか逡巡する男性、娘の授かり婚を素直に喜べない父親……。どの人も、理想と現実のギャップに苦しみ、近しい人との間にコミュニケーション不全を起こしている。懸命に生きようとすればするほど、スマートに生きるのは難しい。

 各章すべてに共通して、タケトリ・オキナの『ツキない話』が登場する。そこで語られる月のあれこれは、さまざまな示唆に富み、情感豊かな話題が多い。『ツキない話』がつないでいく人同士の交わりの中で、月そのものの存在感もまた、揺るぎない光を放つ。太陽ほど明るくはなく、それでもたしかにそこに“在る”。静謐な光は、暗闇において道標となり得る。ウミガメの赤子が海にたどり着けるように、人生の迷子が己の道を切り拓けるように、祈りと共に紡がれる光は、どこまでも静かに夜空を照らす。

ただ誰かの力になりたいって、ひとりひとりのそういう気持ちが世の中を動かしているんだと思う。

 ある人物が語る台詞に込められた真意が、私の胸に深く沁みた。すっきりと洗われたような心持ちで自分自身を見つめてみれば、答えは至ってシンプルだった。私が書きたいものを書く。結局、それしかできることはないのだった。その作品を読み、どこかの誰かがほんの少しでも楽になってくれたなら、これ以上の幸せはない。

 折しも、この原稿を執筆している今日は、8月23日。乙女座新月を迎える日である。新しいことをはじめるのに相応しいタイミング。まずは手はじめに、これまで救われてきた数多の物語に感謝を捧げてみよう。もちろんその作品群には、本書も含まれる。終盤で明かされるタケトリ・オキナの本音のように、素直な思いを言葉にしたい。それがまた巡り巡って、誰かの心に灯をともすかもしれないから。

文=碧月はる

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