『時かけ』『サマーウォーズ』との共通点は?細田守が『未来のミライ』で描いた“家族”と“未来”【ロングインタビュー】

文芸・カルチャー

公開日:2025/10/21

『時かけ』と、『サマーウォーズ』以降の道のりが合わさった

未来を切り開いていく子どもたちの魂の輝き

 実は、ここまであえて言及しなかった作品がある。細田が世間に発見されるきっかけとなった、『時をかける少女』(06年)だ。公開時のキャッチコピーは「待ってられない未来がある」。最新作を語る細田の口から「未来」の一語が出てきたところで、『時をかける少女』の話題を振った。

「ミライちゃんって、彼女の身に起きている現象だけ取り出してみれば、〝時をかける少女〟ですよね?」。

「そうそう(笑)。そこにはやっぱり、僕自身の連続性があるんじゃないですかね。12年前に作った『時かけ』と、『サマーウォーズ』以降ずっと家族を描いてきた道のりが合わさったから、『未来のミライ』はこういう話になった。メインビジュアルでね、くんちゃんとミライちゃんが向かい合って手を繋いでいるのも、道のりが合わさったところからくる必然だと思います」

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 未来という言葉が、光を失って久しい。

 例えば、バブル経済が崩壊した1991年以降、「失われた10年」と呼ばれた経済低迷期は「失われた20年」に延長された。「失われた30年」と呼ばれることも確定した、という論調も出始めている。政治に目を向ければ、国会でこの春夏、何が議論されていたかと言えば、去年とまったく同じ「モリカケ」だ。時計の針が先へと進まず、同じ1年が繰り返されているような、めまいのする現実を生きている。思えば昨年刊行のベストセラー書籍『未来の年表』(河合雅司)も、悲観のオンパレードだった。そんな中で細田は、12年前に『時をかける少女』で「未来」を力強く描き出し、この夏『未来のミライ』を完成させたのだ。

「状況としては12年前も今も、変わらないと思うんです。未来や将来のことを考えると常に、ネガティブなことばかりが思い浮かぶ。それをポジティブに変えていくのは、子どもたちのバイタリティじゃないかなって気がしているんですよ。『時かけ』で描いた女子高生の真琴と『未来のミライ』のくんちゃんは、〝バイタリティを持った子ども〟という点で共通しているんです。過酷な現実の中でも未来を切り開いていく、子どもたちの魂の輝きを見つめるような映画なんです」

小説版の視点=語りは赤の他人のおじさん!?

『未来のミライ』を語るうえでもうひとつ、欠かせない作品がある。既に刊行済みの小説版『未来のミライ』だ。細田守は『おおかみこどもの雨と雪』以降、自ら原作小説を手がけている。

「シナリオを絵コンテに仕上げた後、スタジオが本格的に回り出してめちゃめちゃ忙しくなる前の、数週間というタイムリミットの中で毎回書いているんです。毎回七転八倒しているんですが、小説を書くことによって、物語を論理的に整理したり、人物をより深く理解することができるんですよ。アフレコで声優さんに、〝このセリフの意味は〜〟と説明する時の言葉も全然違っているはずだし、アニメーターさんから上がってきた原画を修正する時の、ペン入れも全然違ってくる。小説を書くことで、映画に跳ね返ってくるものが非常に大きいんです」

 今回は、もっとも難易度が高かったと言う。

「映画を小説の形に落とし込むうえで一番難しいのは、視点です。毎回編集者に絵コンテを読んでもらって、〝何人称で書けばいいんでしょう?〟と相談することから始まるんですね。今回は〝一人称寄りの三人称でいいんじゃないですか〟とあっさり言われたんだけど、4歳児の一人称ってどう書くの、と(笑)。例えば『バケモノの子』の小説を書いた時は、剣術描写が必要だったので、司馬遼太郎の小説を読み返して参考にしました。『おおかみこども』の時も、参照したものが何作かあったように思います。今回の作品は、参考にしようにも、なかったんです。編集者からは角田光代さんの『キッドナップ・ツアー』という例が挙がって、僕も昔読んでいたんですけれども、あの主人公はもっと年齢が上で小学5年生なんですね。もっともっと幼い主人公の一人称で書かれた小説って、絵本や児童文学以外にぱっと見当たらなかったんですよ」

 悩んだ末に見出したのが、故・高畑勲監督が演出や脚本を手掛けたテレビアニメ『赤毛のアン』のトーンだった。

「原作の『赤毛のアン』(L・M・モンゴメリ)は、小説全体が主人公寄りの視点で書かれているんですよね。アンを見守り、優しく包み込むような語り口が採用されている。高畑さんのアニメは全然違って客観的に、冷静に突き放して描いているんですよ。だから、アンがちょっとヘンな言動をしたら、観ている側もちゃんと〝この子、ヘンなやつだな〟ってなる(笑)。ナレーションも普通だったら、優しい口調の年上の女性がアンへの思い入れたっぷりにやるはずですよ。羽佐間道夫さんがものすごくクールにやっているんですよ。ひょっとしたら小説版の視点というのは、アンの物語を語る羽佐間道夫さんにも通じる、赤の他人のおじさんの視点なのかもしれない。その視点から書くことが、このお話には一番ふさわしいと思ったのかもしれないです」