監禁された翻訳者の手記——ダン・ブラウン最新作『シークレット・オブ・シークレッツ』翻訳秘話

文芸・カルチャー

公開日:2025/11/6

『シークレット・オブ・シークレッツ』
『シークレット・オブ・シークレッツ』(ダン・ブラウン (著), 越前 敏弥 (翻訳) / KADOKAWA)

2025年11月6日、ついに日本語版の発売日を迎えた、世界的ベストセラー作家ダン・ブラウン待望の新刊『シークレット・オブ・シークレッツ』。同年9月9日の原著発売から2ヶ月後の刊行は、ダン・ブラウン作品の邦訳としては史上最速だ。

日本語版は、上下巻あわせて800ページを超える大著。本作では、英語版の発売前に、その翻訳を進めることとなった。しかしその作業は、長年にわたり多くの文芸翻訳を手がけてきた訳者・越前敏弥氏にとっても経験したことのない、空前絶後の挑戦となったという——。

越前氏がその経緯をリアルタイムで記していた手記の一部を、ここに公開する。

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◎プロローグ

〈9人の翻訳家 囚われたベストセラー〉という映画をご覧になったことがあるだろうか?

 この作品では、フランスのある大ベストセラー小説を世界で翻訳刊行するにあたって、発売日まで原稿が極秘で管理され、世界じゅうから集まった9人の翻訳家が、ある建物の地下に長期にわたって監禁されて翻訳作業をおこなう。全員がすべての通信機器を没収されたにもかかわらず、なぜかその原稿の一部がネットに流出し、それにともなって出版社社長と翻訳家たちが激しく揉めたり、仲間割れがあったりで、やがて死者が出て……という話で、意外な結末に至るまで、息もつかせぬ緊迫した描写がつづくサスペンス映画の傑作である。

 実はこの映画は、ダン・ブラウンのラングドン・シリーズ第4作『インフェルノ』がヨーロッパで翻訳刊行されたときの実話をもとにしている(現実には流出事件は起こっていないし、だれも死んでいないが)。2013年、本国との同時刊行に向けて、フランス・ドイツ・スペイン・イタリア・ブラジルなどの翻訳家たちがミラノの出版社の地下室に閉じこめられ、数か月にわたって「地獄(インフェルノ)」の日々を過ごしたエピソードは、当時世界じゅうで報道されて多くの出版関係者を驚かせた。

 第5作『オリジン』では、スペインが作品の舞台だったこともあり、スペインでの同時刊行をめざして、一部の翻訳家が似たような経験をしたらしい。

 一方、日本では、第3作『ロスト・シンボル』以降ずっと、原文データがKADOKAWAや翻訳者のわたしのもとに届くのは本国での刊行日とほぼ同時で、そこから猛然と翻訳作業をして約半年後に日本版を出すというのがこれまでの慣例だった。

 さて、『オリジン』から8年経った今年のはじめ、ついにラングドン・シリーズの最新作(第6作)が近々刊行されると発表された。タイトルは The Secret of Secretsで、アメリカでの発売日は9月9日になるという。

 わたしは今年3月に個人出版したエッセイ集『翻訳百景ふたたび』(HHブックス)のなかで、「その後のダン・ブラウン翻訳秘話」と題した章をこんなふうに結んだ。

 これまでの慣習どおりに事が運べば、日本での刊行は2026年の春になる。〈9人の翻訳家〉のようなことが起これば話は別だが、いまのところアジアでは本国と同時発売にはならないようなので、わたしはおそらく監禁されないだろう(されたい気持ちも少しあるが)。秋には総力をあげて翻訳に取り組むつもりなので、楽しみにお待ちいただきたい。

 もちろん、「されたい気持ちも少しはあるが」と書いたのはちょっとしたリップサービスであり、そんな気持ちはさらさらなかった。

 ところが……予想に反し、わが身にもそれが起こったのだった。

◎2025年1月30日(木)

 ダン・ブラウンの公式サイトで、ラングドン・シリーズ第6作 The Secret of Secretsが2025年9月9日に刊行されることが発表された。

 おもな舞台はチェコの首都プラハで、第3作『ロスト・シンボル』のヒロインだったキャサリン・ソロモンが、今回はラングドンの恋人として登場するという。

 公式サイトには、本国アメリカだけでなく、おもにヨーロッパの国々、17か国で9月9日に同時発売になるという情報も載った。
 https://danbrown.com/news/the-secret-of-secrets-will-be-released-worldwide-9-9/

 同時発売となる17か国のなかに、東アジアの国はなかった。これにはいくつか理由があるが、ヨーロッパの言語同士とちがって、アジアの言語は英語とまったく異なる文法体系や語彙から成り立っているので、短期間で翻訳するのがきわめてむずかしいという事情が大きい。

 念のため、KADOKAWAでは、今回もアジアでの同時発売はありえないかどうかをダン・ブラウンのエージェントに尋ねることにしたが、実現はむずかしいだろう。そう考えたわたしは、翻訳にあてる期間が今年の9月から年末ごろまでになると予想し、スケジュールの調整をはじめた。

◎2月28日(金)

 KADOKAWAで海外フィクションを長く担当している編集者の菅原哲也さんからメールが届いた。以下のような内容だった。

(前略)
エージェントから正式に「日本語版についても同時出版の可能性がある」との返答がありました。
現在、社内でこの件を検討している段階ですが、もし同時出版の方向で進む場合、3月下旬ごろに原稿を受け取り、英語版と同じ9月9日発売を目指すことになります。
同時発売が決定した場合、翻訳スケジュールがかなりタイトになることが予想されます。そのため、まずは 越前さんのスケジュールの確保が可能かどうか をご相談させていただきたく、ご連絡いたしました。
(後略)

 おいおい、本気か。

 こうなると、4月から夏ごろまで、最優先で取り組まなくてはならなくなる。

 さいわい、いまはいっている予定を動かすことは不可能ではないが、ダン・ブラウン作品を訳す場合、自分ひとりで訳せばまちがいなく1年程度かかるものを3、4か月で訳了しなくてはならないので、門下の人たちとのチーム作業がぜったいに必要となる。

 そこで、卒業生や上級勉強会のメンバーを中心とした10人余りに、4月からのチームにはいれるそうかどうかをまず打診した。この時点で、7、8人から、たぶんやれそうとの返事が来た。

◎3月18日(火)

 菅原さんからメールが来て、先週のロンドン・ブックフェアでダン・ブラウン新作の海外ディールがまとまりはじめた、とのことだった。

 KADOKAWAも交渉をはじめているが、本国での刊行より前に翻訳をはじめる場合、恐ろしくきびしい機密保持契約を結ばなくてはならないという。

 概要は以下のとおりだった。

・編集者1名、代表者1名、翻訳者2名のみが英文原稿にアクセス可能
・翻訳作業は指定された場所(出版社オフィス)でのみ実施可能
・原稿や翻訳データの持ち出し・外部送信は禁止(メール・USB・クラウド保存等すべてNG)
・翻訳のためのPCは出版社が用意(USBポートなし・Bluetoothなし・インターネット接続なし)
・個人の電子機器(スマホ・PC・USBメモリ等)の持ち込み禁止
・作業時間は月曜~金曜 9:00~18:00(週5日、8時間/日)
・内容の口外・要約・SNS投稿等一切禁止(家族・知人含む)
・違反時には高額の賠償責任が発生する可能性あり

 ぐわっ。

〈9人の翻訳家〉のように完全に監禁されることはないものの、想像をはるかに超えたきびしい条件だ。

 何より、ネット接続ができないというのは、翻訳における調べ物のかなりの部分をオンライン辞書やネット検索に頼っている現状では、致命的だ。しかもダン・ブラウンの作品は最新の科学から宗教・歴史・美術などの蘊蓄が満載で、情報量の多さが際立っていて、並みの作品の何倍もの調べ物を要する。

 この環境で、わずか3、4か月で上下巻に及ぶ長さの作品を翻訳するのはぜったいに不可能だ。

 英語から日本語への翻訳は、文法構造の似た西洋の言語同士の翻訳とは負担がまったく異なり、そのうえ日本の読者は非常に目がきびしい。そういったことも含めて、もう少し制約を緩和するように作者側と交渉してもらうよう、菅原さんにお願いした。

 しかし……ほんとうにやれるのか?

◎3月28日(金)

 権利者との交渉が無事にまとまり、版権取得が決まった、と菅原さんからメール。機密保持についてもある程度の譲歩を引き出せそうだという。

 こちらの希望はもちろん、従来の翻訳の仕事と同じ環境で作業をさせてもらうことだが、はたしてどこまでそれに近づけられるだろうか。

 あと10日ぐらいでさまざまなことが決まり、いよいよ英文原稿を入手できるという。

 がんばれ、KADOKAWA!

◎4月7日(月)

 諸条件が確定し、4月11日にKADOKAWAの本社ビルで打ち合わせをすることが決まる。

 KADOKAWAの担当者は菅原さんのほか、伊集院元郁さん、松原まりさんの計3名。

 やはり決められた部屋へ「出勤」しての作業になるようなので、翻訳チームには、平日昼にほぼフルタイムで時間を空けられる人のみを招集することになり、越前のほかに、青木創、久野郁子、茂木靖枝、岡本麻左子、廣瀬麻微の5人が決まる。偶然ながら、メンバーの全員がこれまでにKADOKAWAから訳書が出ているか、まもなく出る。

 編集者3人、翻訳者6人で、合わせて9人。

〈9人の翻訳家〉の忌まわしい記憶がよみがえる。死者が出ないといいが……。

 

続きはダン・ブラウン特設サイトでお読みください。

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