山本周五郎賞作家が描く江戸時代の武家の女性たち。使用人男性に“ふしぎな思い”を抱く武家の妻、雪に魅了され学問に憧れる武家の娘…傑作時代小説集【書評】
PR 更新日:2025/12/8

男ばかりが注目されがちな江戸時代、女たちだって懸命に生きていた。封建社会の中、思うにまかせない日々を自らの信念を胸に駆け抜けていた。そんな彼女たちの心には何があったのだろうか。その心情を描き出すのが『武家女人記』(集英社)。さまざまな身の上を生きる武家の女性たちを、山本周五郎賞作家・砂原浩太朗氏が静かな筆致で掬い上げる傑作短編集だ。
「ひとつくらいは気ままを通してみたい」という思いから城下のはずれで行われる荒神さまの祭礼に出かけた、縁談の話が来てもおかしくない年齢の織江(「ぬばたま」)。このところ顔色が冴えない勘定方の下役頭を務める夫のことを心配する茅乃(「背中合わせ」)。子を授かることができなかった上、世継ぎとしていた義弟が亡くなったとの報せを受ける大名の正室・倫(「緑雲の陰」)。足軽の家に嫁いだものの、思いがけず夫に先立たれ、4歳の子と姑を養わなくてはならなくなったたえ(「縄綯い」)。筆頭家老を務める家に嫁いで三十数年、当主となった息子と次席家老である実家を継いだ弟との間に、不和の気配を感じ取る美佐(「あねおとうと」)。――この本に登場する女たちは皆、それぞれの立場に縛られている。だが、立場というものに縛られながらも、彼女たちは力強い。さすがは武家の女たちとでもいうべきか。彼女たちには根性がある。そんな力みなぎる女たちを追い、その運命を知るにつれて、胸のうちに静かな感動が湧き上がってくる。
私が一番心に残った一篇は「深雪花」。武士の中でも位の高い番頭・山岸家のひとり娘、穂波の学問をめぐる物語だ。穂波はどういう訳か幼い頃から空から降ってくる雪の魅力に取り憑かれている。兄に藩校で借りてきてもらった書物によって、験微鏡というめがねでみた雪の形を知った彼女は、「この目で雪のかたちが見たい」「雪のかたちや成り立ちを突き止めてみたい」と願う。だが、片田舎の藩、しかも女の身で、それができるのかどうか、少し考えてみただけでもむずかしいことは明白だ。しかし、その思いを捨てることができず、穂波は……。学問への並々ならぬ憧憬を抱く穂波の姿は何とみずみずしいことか。武家の娘として生まれた己の身に歯痒さを覚えつつも、知りたいことを知るために外の世界へと飛び出していく穂波。その姿を見るにつれて、彼女のことを応援し、どうにか彼女の願いが叶うことを祈らずにはいられなくなる。
また、短編「嵐」も印象的だ。この短編は中老を務める小野寺家に嫁いだ雪絵の物語。雪絵は兄から若い長身の男を小者として抱えるよう頼まれる。その男の名は俊蔵。女中のなおが俊蔵にどこか浮き立つような眼差しを向けることに雪絵はわずらわしさを感じずにはいられない。やがて雪絵は俊蔵にふしぎな思いを抱くようになり、なおに対しては対抗心のようなものさえ芽生え始める。そして、物語は、金をめぐる問題に発展して……。雪絵が抱いた感情を何度も「分かる」と思ってしまう自分に思わず苦笑してしまった。この愛憎は、今を生きる私たちにも通じる。いや、この短編に限らず、この本は、江戸という時代を描きながらも、今も変わらない人の心を描き出しているのだ。
恋慕、情愛、嫉妬、後悔、憧憬――時代は違えど、人の心は変わらない。そんな女たちの繊細な感情がこんなにも鮮やかにありありと描き出されるとは。あたたかな筆致で描かれる武家女性の滋味あふれる人生模様に幾度となくハッとさせられる。読み終えれば、江戸の景色が、そして今を生きる自分の輪郭までも、少し違って見えてくる1冊。
文=アサトーミナミ
