家事に手が回らない罪悪感がほどける読書体験――『カフネ』を家事代行の現場はどう読んだ?【イベントレポート】
公開日:2025/12/3

全国の書店員が「いちばん!売りたい」本を選ぶ本屋大賞を2025年に受賞し、累計40万部を超えるベストセラーとなった阿部暁子さんの小説『カフネ』(講談社)。弟を亡くした薫子が、弟の元恋人・せつなが勤める家事代行会社の活動を手伝いながら、「食」を通じてせつなと絆を深めていくこの物語は、今、多くの人の心を揺れ動かしている。「カフネ」とは、ポルトガル語で「愛しい人の髪にそっと指をとおす仕草」を意味する言葉であるが、この本を読むと、誰かにそっと頭を撫でられたような、懸命に生きてきた自分を優しく認めてもらったような気がしてくる。では、実際に家事代行を生業としている人たちはこの本をどう読んだのか。去る2025年10月29日、家事代行サービスのパイオニア企業・株式会社ベアーズの本社では、阿部暁子さんとベアーズ社員との座談会イベントが行われた。本記事では『カフネ』愛あふれるそのイベントの模様をレポートする。

▼5時間止まらなかった涙と10枚のファンレター
本イベントは二部構成で行われた。前半の第一部で行われたのは、阿部暁子さんと株式会社ベアーズ取締役副社長の髙橋ゆきさん、広報室室長の服部祥子さんによる座談会。『カフネ』の世界観と重ねながら、家事を取り巻く現状について語った。
そもそも今回のイベントが開催されるに至ったのは、ベアーズ広報室長・服部さんが阿部さんに送ったファンレターがキッカケ。服部さんは初めて『カフネ』を読んだ時、5時間近くずっと涙が止まらず、その思いをそのまま手書きで10枚ほどの手紙にしたためた。『カフネ』の何がそこまで服部さんの心を動かしたかといえば、この小説が「自分の中のあらゆる気持ちを代弁してくれた」ことに強く感動させられたのだという。
服部さんは、自身の子どもが1歳の頃、家事や育児、仕事に忙殺され、当たり前にこなすべき家事ができない自分に強い罪悪感を抱いていた。『カフネ』は「全てが中途半端になっているのではないか」と悩んでいたその時の自分を救ってくれた。そして、この本を読んだことで、服部さんは改めて家事というものがもつ力を感じたのだという。

そんな感想に阿部さんは恐縮しっぱなしだ。阿部さんによれば、当初『カフネ』は、ふたりの主人公が依頼を受けたら、依頼人のところに、使い古したフライパンと包丁をバッグに入れてワゴン車で駆けつける、さすらいの料理人のような明るいロードムービーを想定して書き始めたのだという。だが、書いている時、世の中を新型コロナウイルスが襲った。コロナ禍の中で阿部さんが痛感したのは、「生きていくことはなんて大変なのだろう」ということ。生きていくためには、誰もが自分の住処を整えなければならない。だけれども、本当にたわいのない、できて当たり前といわれるそれは、些細なキッカケでひどく重荷になる。そして、できて当たり前といわれることができないと、人は自分を追い詰めてしまう。「今、生活というものを書かなくてはならない」――そんな思いから阿部さんは、『カフネ』で必死に生きようとする人々の生活を描き出したのだ。

▼どん底でも人はおなかがすく『カフネ』が思い出させる「食」の思い出
夫とともに家事代行会社・株式会社ベアーズを立ち上げた、取締役副社長・髙橋さんも服部さん同様、『カフネ』には涙させられたのだという。特に髙橋さんの心を揺さぶったのは、『カフネ』に登場する料理の数々。『カフネ』を読みながら、髙橋さんも仕事に子育てにと慌ただしく過ごしていた時のことを思い出した。それは家事代行という産業を日本で興したいと決意した髙橋さん自身の原点でもある。30年前、当時20代だった髙橋さんは香港で生活し、頼れる父母も友人もいない中で、フルタイムで働きながら、初めての子育てを経験した。自分を見失いそうな日々を過ごす中で出会ったのが、フィリピン人の家政婦・スーザン。『カフネ』を読みながら、髙橋さんが思い出したのは、スーザンが作ってくれた温かいおみそ汁だった。
本書にはさまざまな事情で、日々の食事作りや部屋の片付けが負担になってしまっている人が登場する。たとえば、心に残るのは薫子のこんな台詞だ。
「スーパーで買ってきたお弁当を食べたあと、空のパックをごみ袋に入れるのもつらいんですよね。お皿を洗ったり、脱いだ服を仕舞ったりなんて絶対無理だし、朝、アラームが鳴ったあとベッドから出るのは命がけ」
小学生の子どもを持つシングルマザーはこの言葉に過去を言い当てられたかのように目をみはるが、同じように自分のことを言い当てられたような感覚を覚える人は多いのではないだろうか。
そんな家事に手が回らずにいる人たちを救うのが、家事代行会社で働く料理人・せつなだ。せつなは料理によって多くの人の心を救っていく。トマトとツナの豆乳そうめん、卵ときくらげのチャーハンで作ったおにぎり、ナスがたっぷり入った悲鳴をあげるほど激辛のペンネアラビアータ、脳が解けるほど甘いガトーショコラ、海賊たちがかぶりつくような大きな骨付き肉、薄い卵焼きがケチャップのご飯にのっているオムライス……。ぐちゃぐちゃに潰れたケーキをあっという間にかわいらしいパフェにしてしまうなど、せつなはまるで魔法使いだ。また、本書には食にまつわる印象的な台詞もたくさんある。
「おにぎりを作れるようになると、人生の戦闘力が上がるよ」
「未来は暗いかもしれないけど、卵と牛乳と砂糖は、よっぽどのことがない限り世界から消えることはない。あなたは、あなたとお母さんのプリンを、自分の力でいつだって作れる」
そんな物語を描き出した阿部さん自身は、実は料理は得意ではなく、「他の人に作ってもらえた方が嬉しい」と語り、本書で「食」を緻密に描写したのは「自信がないから書き込んだだけ」などと謙遜する。だが、これほど「食」からあたたかな希望を感じさせられる小説は他にあるまい。人はどん底でもお腹がすくし、美味しいと思える瞬間からまた前を向ける。この本では、誰もが何らかの事情を抱え、苦しんでいるが、弱くたっていいのだと、誰かに頼ることも悪いことではないのだと気づかせてくれる。コロナ禍に感じた不安をもとに書き上げられたこの物語は私たちにまばゆいばかりの光を感じさせてくれる。

▼「取材ゼロ」の後ろめたさと、現場スタッフを惹きつけたリアルさ
さまざまな事情を抱えた依頼人と、依頼人の支えになりたいが、その事情にどこまで踏み込むべきかと悩む家事代行スタッフ。読めば読むほど、本書は家事代行という仕事をありありと描き出している物語だ。だが、この本は実は取材なしに、阿部さんの想像で描き出された物語なのだという。取材をしたくても、執筆当時はコロナ禍。家事代行業の現場に立つ生の人の声を聞くことはできず、阿部さんは調べたことと想像とで物語を書かねばならず、そのことに後ろめたさを感じていたという。
しかし、そんな阿部さんの不安は杞憂に過ぎない。なぜなら、家事代行に実際に携われる人たちから見ても『カフネ』の世界は極めてリアルであるらしいのだ。服部さんは「家事代行に携わる立場としてどうしてこんなに仕事の真髄を理解してくださるのだろうという強い喜びを感じていた」と語り、取材ができなかったということに強い驚きを感じたという。また、髙橋さんは「『カフネ』は家事代行の現場で働くスタッフにとって仕事の価値を改めて感じさせてくれる作品。代表して感謝申し上げたい」とまで語った。髙橋さんが『カフネ』を知ったのも、何人もの現場スタッフから「この本知ってますか」「すごい本があるんですよ」と紹介されたのがキッカケだという。『カフネ』は家事代行の現場で働く人たちが読んでも強く心動かされる作品なのだ。
▼踏み込まずに寄り添う家事代行業のやりがい
そんな『カフネ』の世界のリアルさをさらに感じさせられたのは本イベントの後半、第二部だ。第二部では、日々、家事代行の現場で働くスタッフ2名を交え、家事代行のフィクションとリアルをつなぐ生の声が語られた。
食卓さえ置かれていなかった家庭に家事代行として派遣された経験のある丸子美奈子さんは、その家庭の子どもと関わりながら家事をこなす中で、やがて家にちゃぶ台が置かれ、その家族がまとまっていくのを目の当たりにしたという。5歳と7歳の子どもを育てながら家事代行の仕事をしている阿久津美和子さんは、仕事終わりに「ありがとう」と手にハンドクリームを塗ってくれる依頼主がいること、依頼主と気づけば家族のような関係になっていくことを語る。家事代行スタッフは、依頼主の家庭の事情には踏み込めない。踏み込まずにさりげない優しさで寄り添う。依頼主を助けているはずが、こちらが支えられているような気持ちになる。家事代行にまつわるそんな現場のふたりのエピソードはまさに『カフネ』の世界にも通じる。

阿部さんはそんな現場スタッフのエピソードに「現場で活躍されている人の言葉ほど、強く美しいものはない」と感激した様子。実は阿部さんは1年くらい前から『カフネ』のスピンオフを執筆しており、現在は佳境に近づいているという。スピンオフでは『カフネ』の1年ほど前、薫子の弟とせつなが家事代行のコンビを組んでいた頃のエピソードを描いているのだとか。今回のイベントで実際に家事代行の生の声を聞いたことで「見えなかったところがクリアに見えてきた」と語った阿部さん。スピンオフ作品への期待が高まったのは、私だけではないだろう。
家事に追い込まれ、自分を責めたくなった時、一体どうしたらいいだろう。阿部さんはそんな人にこんな言葉を贈る。
「自分を責めてしまう時は、メンタルもフィジカルもよくない時なので、ひとまず牛丼でも食べて、お風呂に入って、ベッドの周りだけかき分けて、とにかく寝ろって言いたいですね。で、翌朝に目が覚めて元気が出たら、自分で掃除するか、家事代行を頼むか考えたらいいと思います」
そうなのだ、家事は自分だけでやる必要はない。誰かの力を借りたっていい。いい意味で「弱くなれる」社会がいい。家事代行サービスのパイオニア・株式会社ベアーズで行われたイベントは、家事というものの力と、人と人との絆、そして、『カフネ』という物語のリアルさを改めて実感させてくれる場だった。
取材・文=アサトーミナミ
