狂歌師・大田南畝――江戸に空前の狂歌ブームをもたらした男。人生の岐路で彼が選んだのは情熱か、家族か? 歴史小説『雀ちょっちょ』【書評】
PR 公開日:2025/12/17

人間誰しも「選べなかった人生」があると思う。
決して今が不幸というわけではないが、ふと頭をよぎる「もしも」。後悔というほどの感情があるわけでもない。だが心のどこかにある「くすぶり」。それでも、今を懸命に生きていくことでしか、見えない幸せがあるのかもしれない。
『雀ちょっちょ』(村木嵐/文藝春秋)は、そんなことをしみじみと感じさせてくれる歴史小説だ。
本作の主人公は江戸中期に狂歌師として名を馳せた大田直次郎(大田南畝/蜀山人)だ。下級武士の生まれでありながら、幼い頃より秀才で学問に長け「正統派」の漢詩を作っていたが、次第に「庶民派」の狂歌にも惹かれるようになる。
狂歌とは短歌の一種で、滑稽さや皮肉をテーマにしている。一見すると「ダジャレ」のように感じる詩作が多いものの、漢学や国学の知識を下敷きにした、教養高いものでもあるそうだ。
若かりし頃の直次郎は、将来の方向性を決めかねていたのだが、多才な発明家であり自らも狂歌を作る平賀源内と出会い、「お前の狂歌は江戸中の者を大笑いさせ、救うことができる」と評され、衝撃を受ける。
それから直次郎には、狂歌を愛する仲間もでき、どんどんとその道へ傾倒していく。ついには江戸で空前の狂歌ブームをもたらすほどの逸材となるのだ。
だが政権が変わったことで、社会の空気が一変する。おおらかな時代から、言論統制のなされた窮屈な時代へ。社会風刺的な狂歌も「反体制的」として幕府から咎められるようになってしまうのだ。
直次郎は愛する狂歌を続け、権力と闘っていくのか。それとも、家族を養うため退屈な仕事――父から受け継いだ給料も安い江戸城内の不寝番――を続けていくのか。大いに葛藤する。情熱か、安定か。仲間か、家族か。岐路に立たされるのであった。
本作は「家族愛」の物語だ。だが、そう一言で「括りたくない」奥深さがある。
結論から言うと、直次郎は家族と安定を選んだ。個人的に、この展開は意外であった。「天才」が自らの信念を貫き、権力と闘っていく、そういった「カッコイイ」物語を想像していたからだ。だが史実を見ても、大田直次郎は政権が変わった後から、徐々に狂歌界とは距離を置くようになっているという。
しかし、それで直次郎が不幸だったかというと、そんなことはない。彼は75歳と大変長生きをするのだが、その過程で、亡き妻の素晴らしさ、「仕事がある」という「ありがたさ」にも気づき、出世もする。息子の嫁が淹れてくれた美味しいお茶を飲むのが至高の時間で、日常の些細な瞬間に「本当の幸せ」を見いだしていく。
一方で、狂歌師を貫き、仲間と共に権力に抗っていたら? もっと違った景色が見えていたかもしれない。彼につきまとう、その「くすぶり」は、永遠に消えないのではないだろうか。
だから本作は「沁みる」物語だった。
家族への惜しみない愛、感謝に溢れた日常。つらいこともあるけれど、日常の些細な幸せに、読者も温かい気持ちで読み進めることができるだろう。一方で、ふと頭をよぎる「くすぶり」に、どうしようもなく心が揺さぶられるのではないだろうか。
丹念に大田南畝(直次郎)を調べ尽くした上で紡がれた本作は、現代にも通ずる人生の悲哀と愛おしさを、ぞんぶんに感じられる一作だった。
文=雨野裾
