「……ん?」不意に首を傾げた漫画家が、ノートに描きだしたものは…/澤村伊智「高速怪談」【全文公開②】
公開日:2022/8/10
『ぼぎわんが、来る』の澤村伊智氏による、小説の形をした怪談集『怪談小説という名の小説怪談』(新潮社)。
子連れで散歩中に見かけた怪しげな物件、語ってはいけない怖い小説、新婚旅行で訪れた土地での出来事…など、暑い夏の夜にゾクゾクする珠玉の7編を収録。
本連載では、「高速怪談」を7回に分けて全文公開! 関西方面に向け、乗り合わせて帰省をする男女5人。ひょんなことから車内で怪談会がはじまって…。ラストまで見逃せない傑作短編。

石黒さんの絵
浜松の下り側サービスエリアに到着した。飲食店はあらかた閉まっていたけれど、ラーメン屋とおでん屋は営業していた。
僕はおでん屋で気まぐれに購入した「黒はんぺん」なるものと、フードコートのテーブル席で対峙していた。円形で平べったく茶色い練り物。地元でも東京でもこんなタネは見たことがない。割り箸から伝わる感触は思ったより硬く、いわゆる普通のはんぺんよりしっかりしている。
「青魚のすり身」
隣に腰を下ろした真柄さんが言った。山盛りのおでんが入った容器をテーブルに置くと、
「静岡名物。東京にも探したら結構あんで、出す店」
「へえ」
「『へえ』ちゃうて。編集者やねんからアンテナ張らな。まあお年寄りの健康雑誌やったらしゃあないか」
ハハハと笑うと、彼は「だし粉」がたっぷりかかった厚揚げに食らい付いた。僕は曖昧に笑い返して黒はんぺんを齧る。青魚の風味が口の中に広がった。
向かいの席では今まさに石黒さんがラーメンを食べようとしていた。隣の汀さんが彼を小突き、「あれやんないの」と囁く。
「おっ」石黒さんは箸を置くと、リュックサックからペンケースとノートを取り出した。
「あのお」
汀さんが僕に声を掛けた。「描いてもいいですか、澤口さんの顔。漫画っぽくですけど」
「というと?」
「石黒ね、いまちょいちょいSNSにご飯の絵描いてアップしてるんですよ。コメントも添えて。わりと評判いいみたいだから続けてるんです。ご飯だけじゃなくて一緒にいる人も込みで」
「こんな感じ」
ノートを開くと石黒さんは僕たちに見せた。左ページにはざるうどんの絵が、右には手料理と思しき色々な料理が描かれていた。タッチは粗いながらデッサンは正確で、何より美味しそうだった。
うどんの絵の右下には汀さんらしき黒縁眼鏡の女性が、海老天を頬張る姿が描かれていた。さっきの彼女のお願いはこのことらしい。
「いいですよ」
僕は答えた。真柄さんは「俺は前にOKしたやんな」と今度は卵にかぶり付く。お盆を手にやって来た堀さんに、汀さんが同じことを説明する。
リュックを背負った堀さんは「うーん」と苦笑いを浮かべて、「例えばですけど、キャップにサングラスにマスクの絵にしてもらえませんか? いかにも裏方ですって感じで。というか実際裏方なんで」と申し訳なさそうに答えた。
メディアに顔を出したがらない編集者は多い。僕も写真なら断っていただろう。
「あ、そっち系。了解です」
石黒さんは納得した様子でノートをテーブルに置くと、サササとペンを走らせた。見る見るうちにラーメンが描かれていく。僕は食い入るように見つめていた。イラストレーターとは毎月のように仕事しているけど、イラストはメールで届くし制作風景も見たことがない。
ラーメンをあっという間に描き終え、石黒さんは手を止めた。一同揃って「おおお」と感嘆の声を上げる。スマホで写真を撮り終えると、彼はすぐさまペンを握った。余白に次々と人物が描かれていく。汀さん、おでんを食べている僕と真柄さん、注文どおり怪しい風貌の堀さん――
「すみません、お手数おかけして」
堀さんが口を挟んだ。石黒さんは「いえいえ」と顔を上げずに答えると、ポンとノートにペンを置いた。完成だ。僕たちは今度は小さく拍手していた。
「おつかれ。じゃあ食べよう、伸びちゃうし」
汀さんが言った。彼女も自分のおでんには全く手を付けていない。石黒さんはスマホを摑んでノートに向けた。
「……ん?」
不意に首を傾げる。スマホを投げるように置いてペンを摑む。すぐさま隣のページの中央にサッと円を描く。続いて円の中央に大きな十字。突然のことに僕たちは彼の様子を黙って見守った。
「お、何か浮かんだ?」
嬉しそうに汀さんが訊いた。僕たちに顔を向けて、「結構あるんです。考えてる時より描いてる時の方が閃くみたいで」
「アイデアとか?」
「そう、キャラクターの時もあるしストーリーの時もあって――」
「いや」
石黒さんが遮るように言って手を止めた。「どうやろう」と髭を撫でさする。
ノートには若い女性の顔が描かれていた。
長髪の細面。薄い唇は微笑を浮かべている。隣の僕たちのイラストとは違うリアルなタッチ。耳につけているのはピアスだろうか。目が少し吊り上っている。美人といっていい顔立ちだった。
目には瞳が描かれていない。石黒さんは「ううむ」と唸ると、素早く瞳を書き入れた。
「……おいおい」
最初に声を上げたのは真柄さんだった。僕は息を呑んでいたし、堀さんは半端な笑顔のまま固まっていた。汀さんは無表情だった。
向かって右の瞳はひどく上を向いていた。三白眼にしても極端すぎる。そして左の瞳は目尻の際にほとんど隠れている。
女性の両目はそれぞれ別の方向を向いていた。
死に顔。最初に頭に浮かんだのはそれだった。この女性は死んでいる。それも笑いながら。あるいは――
「ホラー漫画?」
妙に明るい声で汀さんが訊いた。「さっきホラー映画の話になったからかな」と続ける。石黒さんは腕を組むと、
「分からん。なんか浮かんだ」
と低い声で言った。