魔都の輝きに魅せられ、男たちは命を焦がす――阿片の煙越しに見る日中近代史『上海灯蛾』上田早夕里インタビュー

文芸・カルチャー

公開日:2023/4/8

 ※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2023年5月号からの転載になります。

上田早夕里さん

 かつて中国・上海には、「租界」と呼ばれる外国人居留地があった。西洋建築物が並び「東洋のパリ」と称される上海租界は、1931年の満州事変以降、日本人居留民が急増。欧米やアジアの民族が入り乱れて暮らすこの地は、昼は商業都市として華やかな顔を見せ、夜になると退廃と悪徳の匂いが漂う二面性のある街として発展を遂げていった。
 上田早夕里さんは、そんな上海租界を題材にした「戦時上海・三部作」に取り組んできた。『上海灯蛾』は、その掉尾を飾る一作だ。

取材・文=野本由起 写真=迫田真実

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「三部作の前に書いたSF短編『上海フランス租界祁斉路三二〇号』から数えると、ちょうど10年間、1930~40年代の上海租界について書き続けてきました。背景にあったのは、今、自分が書かねばという強い気持ちです。現代を生きる私たちが、戦前・戦中の人々を想像する時、ある程度固定されたイメージがありますよね。現代人とはまったく考え方が違う昔の人たちという認識が一般的だと思います。ですが、上海租界について調べてみると、驚くことに現代の私たちと共通する倫理観や価値観、高い志を持つ人がいたことがわかりました。ということは、わざわざ作家がこの時代に現代的な視点を持ち込んで特殊な設定や人物を作らなくても、この時代を生きた現代に近い価値観を持つ人物の視点を通すだけで、現代とリンクする問題をストレートに描けるはずです。それが、一連の作品を書こうと思った最大の理由です」

 三部作の第1作『破滅の王』では細菌兵器の開発に巻き込まれた研究者を、第2作『ヘーゼルの密書』では日中和平交渉に協力した通訳者を描いた上田さん。『上海灯蛾』では阿片を題材に、上海租界を生きる日本人青年の姿を活写する。

「三部作に共通する要素は“科学と戦争”です。阿片は医薬として研究と販売が始まり、のちには各国軍部の戦費調達にも使われていきました。戦争とは切っても切れない関係にあった。前2作は、政府や軍部と直接関わりを持つ人々の物語でしたが、今回は庶民の視点から“科学と戦争”について描きました」

現代ともリンクする戦時下の民族問題を描く

 発端は、雑貨店を営む次郎のもとに、極上の阿片が持ち込まれたことだった。原田ユキヱと名乗る女性は、関東軍(満州に駐屯する大日本帝国陸軍部隊)から持ち出されたという阿片煙膏の買い手を探し、次郎の店を訪問。かねてより一攫千金を夢見ていた次郎は、つてをたどり、上海の裏社会を牛耳る「青幇」の一員・楊直との接触を図る。

「青幇は実在する組織で、かつては清時代の水賊に対抗する秘密結社でした。中国は儒教の国ですから、当初は青幇も、仁・義・礼・智・信の“五常”を尊ぶ集団だったようです。“仁”とは、他者に対して思いやりを持ち、相手を大切にしなさいという考え方です。“義”とは理で筋を通すことで、仁が通用しない局面で、理に基づく駆け引きなどによって状況を打開しようとすることです。しかし、時代が進み、莫大な富が蓄積され、阿片売買にも関わるようになると、青幇も他と似たような犯罪組織に変質していきます。この作品では、青幇が上海で輝いていた最後の瞬間を描いています」

 青幇の楊直と義兄弟の契りを結んだ次郎は、やがて彼と手を組み、阿片ビジネスに乗り出していく。この楊直という人物が、実に魅力的だ。貧しい農村から逃れ、青幇に拾われたものの汚れ仕事を押し付けられ、同胞からは蔑まれる。いつか実業界で成功したいと願いながらも、危険な煌めきへと吸い寄せられる人物だ。

「私はもともと組織からはみ出てしまう人物が好きで、楊直はまさにそのタイプですね。彼は底辺の暮らしを知っているので、組織の上層部に対してしらじらしさを感じている。仕事はできるけれど組織の人々からは遠ざけられ、自分からも遠ざかっていく」

 次郎と楊直の関係性も面白い。表向きは兄弟分だと言いながら、いつどちらが裏切ってもおかしくない。それでも、どこかでつながっている。そこに深い情念と関係性を嗅ぎ取る読者も、少なくないだろう。

「高学歴の人たちを描いた前2作と、庶民視点の『上海灯蛾』は、表裏をなす関係です。次郎と楊直もコインの裏表。正面から向き合うことはなく、常に背中合わせの状態にある。向き合ってしまうと、相手しか目に入らない。でも、背中合わせだと、自分たちを取り巻く“世界”が見える。“世界”の中の“個”であることを認識するには、背中合わせでいるしかないんです。そうやって、背中に感じる相手の温もりだけを通して、お互いの心を推し量っている」

 次郎と楊直が阿片ビジネスを拡大する中、阿片煙膏と芥子の種が持ち出されたと知った関東軍特務機関と青幇は暗闘を繰り広げていく。さらに、第二次上海事変が勃発すると、次郎たちも戦火に巻き込まれることに。日本人であることを隠し、裏社会に溶け込む次郎。凄惨な復讐に身を焦がす楊直。さらに、ロシア人の血を引くがゆえに、かえって日本の軍国主義に傾倒する特務機関の伊沢も交え、民族や国籍の問題についても深く斬り込んでいく。

「民族の問題は、現代を生きる私たちが直面しているテーマですから、必ず扱わねばならないと思っていました。実際、伊沢のようにマイノリティとして差別されてきた人物が、なにかのきっかけで、逆に、異民族排斥運動に取り込まれていくケースがあるんですよね。ある資料で『排斥運動に加わることで、初めて、この国でひとりの国民として認めてもらえたことがうれしい』と答えている当事者を知って、これは根が深い問題だなと衝撃を受けました。差別されてきた側が差別する側へと反転する現象は、今この瞬間にも起きている。自由や人権を求めていたはずの人たちが、何かの拍子に帝国主義に呑み込まれていく現実は、戦時中に限らず現代ともリンクするところです。これも人間の本質の一部である、と描くことも物語の役割だと思います」

年表に剃刀を入れ、フィクションを挟み込む

 多くの史料を丁寧にひもとき、史実を題材にした三部作を書き上げた上田さん。史実とフィクションの融合において、どのような視点を大切にしているのだろうか。

「史実とフィクションの融合は考えたことがありません。フィクションは史実の隙間に挟み込んでいくものであり、この時代に詳しい方が読めば、どこが史実でどこがフィクションなのか、はっきりと区別がつくように書いているつもりです。作家の友人から教えてもらったのですが、歴史小説の分野には『年表に剃刀を入れる』という言葉があるそうです。史実と史実の隙間に剃刀を入れて、そこにフィクションを差し挟んでいく。私の書き方はこれです」

 この作品をもって、三部作は終幕を迎える。だが、上田さんは「最低限書くべき3作を書いただけ」と軽やかに笑う。

「10年かけて仕事をする中で、上海租界の研究者や、戦時中の記録をお持ちの方との接点もできました。租界に関しては、まだ手つかずの史料がたくさんあり、リアルタイムで研究が進行しています。この時代は、けして“過ぎ去ってしまった不要な歴史”ではないんです。新たな情報が出てくれば、これまでの常識がくつがえる可能性すらあります。作家も最新の研究成果をきちんと追わねばなりません。新たな作品に反映できるかどうかは別として、これからも史料を調べ続けるつもりです」

上田早夕里
うえだ・さゆり●兵庫県生まれ。2003年『火星ダーク・バラード』で第4回小松左京賞を受賞しデビュー。11年『華竜の宮』で第32回日本SF大賞受賞。SF以外のジャンルも執筆し、18年には『破滅の王』が第159回直木賞候補に。『ヘーゼルの密書』『播磨国妖綺譚』など著書多数。

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