執筆に結びついた実体験は、動物の解体作業。第170回直木賞を受賞した『ともぐい』著者・河﨑秋子さんに熊文学の裏側を聞いてみた

文芸・カルチャー

公開日:2024/2/29

ともぐい
ともぐい』(新潮社)

 河﨑秋子さんの『ともぐい』(新潮社)が第170回直木賞を受賞した。衝撃のデビュー作『颶風の王』(KADOKAWA)以降、主に北海道の大地を舞台として人間や生き物の骨太な物語を数多く生み出し、その作品世界は読者を殴りつけるように圧倒する傑作ばかりである。直木賞を受賞した直後に、受賞作『ともぐい』と傑作を生み出す発想の源について河﨑秋子さんに話を聞いてみた。

河﨑秋子さん

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書きたいという情熱を認めていただけたなら嬉しい

――『ともぐい』の直木賞受賞おめでとうございます。受賞されたときはどのようなお気持ちだったのでしょうか。

河﨑秋子さん(以下、河﨑):一瞬、思考がフリーズしました。もちろん嬉しいんですけども、名誉ある賞ですし、大きな賞で喜びもありましたが、あまり人生で経験したことのない喜びがあると脳って止まるんだなと(笑)。

――『ともぐい』のどのようなところが評価されたと思いますか。

河﨑:技巧的なものに関してはまだまだ未熟という自己認識でおり、文章力もまだまだ磨かなければと思っていますので、書きたいという情熱を認めていただけたなら嬉しいですね。

――河﨑さんは2022年にも『絞め殺しの樹』(小学館)で直木賞候補になっていますが、その時と比べて今回は発表まで何か違いはありましたか。

河﨑:前回はコロナ禍ということで少人数での待機だったんですけども、やっぱり残念な結果だったときのことを思うと、できるだけ少人数でというのがありがたかったので、今回も実はこちらのお部屋(新潮社クラブ)で関係者のみで待たせていただきました。

 どちらもそれぞれの出版社の方が気を使ってくださったので、とても心穏やかに結果を待つことができました。

河﨑秋子さん

受賞作『ともぐい』

――今回、直木賞を受賞された『ともぐい』は猟師である熊爪と熊の話ということで、北海道にお住まいの河﨑さんがついに熊を題材に小説を書かれたと興奮して読ませていただきました。本作を執筆されたのはどのような理由からだったのでしょうか

河﨑:デビュー作(『颶風の王』)をKADOKAWAさんから出させていただいた後に新潮社さんからお声掛けいただいたのがきっかけですね。(『ともぐい』は)以前書いていたものをまた違った物語に再構成するということでやらせていただいたんですけれども、最初に書いたときから10年以上経っていたので、また違った見方ですとか、もう一度原点に立ち返って今の技量で書いてみたいというのがありました。

――以前に書かれたものと比べて登場人物や舞台など物語で変わったところなどはあるのですか

河﨑:流れは同じですね。細かいところで登場人物が増えたり、エピソードが増えたりはしていますけれども、ストーリーの大筋は結末に至るまで基本的には大きく変わっていません。

――なかでも主人公である熊爪は野性的で非常に強烈なキャラクターでした。

河﨑:とにかく山の中で独り、コミュニケーションから一番離れたところで暮らして、コミュニケーションの必要性も分かっていない人間というものを描こうと思いました。

――熊爪が白糠の町に下りてきて、街の食べ物や他の人間の関わりに戸惑ったりするところは、実際に熊が里に下りてきて騒動になるのと重なったのですが、作品全体を通して、人間である熊爪を獣である熊と重ねて書かれたのでしょうか

河﨑:構造自体を熊になぞらえてというところは、実はそんなになくてですね、町に下りるのも、山の中で暮らしていて例えば銃を使って狩りをするのであればある程度銃弾を仕入れるなど、人間も熊も美味しいものを知ってしまうとやっぱりそれをちょっと手に入れようと動くことも含めて、熊と同一視して(熊爪を)人間にしたというよりは、熊と同じような状況で暮らしているときに山から下りる必要性があるとしたらどんなときか?というのを逆算して考えました。

――本作で特に印象に残ったのは「少しだけ、人の股座の臭いに似ていると思う。命の匂いだ」という熊爪の言葉で、これがとても印象的でした。『ともぐい』ではクマの匂い、野生の匂いみたいなのをすごく感じたのですが「匂い」を描くことに強く意識はされていたのでしょうか

河﨑:そうですね。意識的に匂いの描写については書き込んでいるところがあります。体感としてなんですけれども、匂いって本来は慣れやすいものなんですよね。自分の家の匂いは普段意識しないけど友達の家に行くと匂いに気付くのと同じように、山の中に入れば匂いが違うし、慣れている山と慣れてない山に行くのとではまた匂いが違います。そういう匂いによって自分の属するところと違う場所について知覚しやすいみたいなところは意識していました。

――河﨑さんは北海道にお住まいで、主に北海道を舞台にした作品を書かれていますが、熊を題材にした本作を描く際に参考にされたものはありますか

河﨑:すごくいっぱいありますね。三毛別羆事件をもとにして書かれた実際の報告書や、吉村昭先生が描かれたような(『羆嵐』など)時系列を整理して描き直されたものや物語性をつけたものがあります。それ以外でも(北海道の)開拓時代の固い壁に囲まれていない家で暮らしている人が熊と接してしまうお話などは、割と昔のおじいちゃんおばあちゃんの聞き書きの資料なんかが残っていたりするので、そういった生のものをできるだけ参考にしました。

――三毛別羆事件など北海道では開拓時代も含めて熊と人間の痛ましい歴史がありますが、人と熊との共存という部分を『ともぐい』を書くにあたって意識されたことはありますか。

河﨑:啓発啓蒙を目的として描いたものではないのですけれども、物語としてリアリティを持たせるために熊の恐ろしさですとかノンフィクションの資料から得られた熊の実態ですとか破壊力ですとか、そういったものをもとに描いてはいるので、これを読んでくださった方が結果的に「熊って恐ろしいな」と思ってもらえれば、それでいいのかなと思います(笑)。

――『ともぐい』では他所の山から来た熊に対して主人公の熊爪が激昂するなど、人と獣の境があいまいになっていくのがとても面白かったです。

河﨑:小説をある程度距離を持って読まれる方をいかに物語に近づけられるか、物語の中に引っ張ってくるかというところもありますので、部分部分によっては同一視したり、意図的に近づけて読ませたりですとか、意図的に遠ざけたりですとか、そういったものは何となく考えていました。

河﨑秋子さん

人間の縞模様をひとつだけ切り取るというよりは全体を描きたい

――河﨑さんは綿羊の飼育などをされていて作家としては異色の経歴です。本作でも生々しい動物の解体シーンがあるなど匂い立つリアリティを感じました。河﨑さんの過去作でも動物を扱う作品が多いですが、執筆の際に経歴が具体的に役に立ったことはありますか?

河﨑:動物の解体ですかね(笑)。もちろん綿羊の肉の出荷は食肉加工業者さんにお願いするんですけれども、実習のときに解体をやったりですとか、あとは仕事ではないですけども家の周りで害獣として駆除した鹿を解体して肉にしたりということをしていましたので、そういったことを(執筆に)活かせたかなと思います。

――作品の舞台についてお聞きしたいです。『ともぐい』は明治後期が舞台ですが、ほかの作品でも明治の時代を描くことが多い印象です。河﨑さんの中で明治にはなにか特別な思い入れなどあるのでしょうか

河﨑:単純に面白いエピソードが多いというのがありますね。戦後の開拓の時代になってしまうと、住宅がしっかりしているので、熊が壁を破って襲いにくるという話がなくなっちゃいますしね(笑)。価値観も当時のちょっと荒々しい状態が描きやすいというのもありますね。

――河﨑さんの小説では作品の人物像がとても印象的で、善悪や命と死などがフラットなのがリアリティを感じられるのですが、河﨑さんの中で「人を描く」際に重きを置いているものはなんですか

河﨑:いろんな見方をするというのは心がけているところではあります。人間の美しい部分にフォーカスを当てて物語を形成するというのは大事なんですけれども、自分の作風ではちょっとないなと思ってます。「こいつ良いところあるけど、悪いところもあるし、悪いところはとことん悪い。けど、良いとこも捨てられないんだよな」みたいな、そういう人間の縞模様をひとつだけ切り取るというよりは全体を描きたいな、というのがありますね。

――例えばインターネットがあって近所にコンビニがあってみたいな一般的な都市で生活するイメージに対して、河﨑さんの作品は野性的といいますか、描く時代も含めて都市生活とは対極であると感じるのですが、そのような人間の活動の場の違いを作品の中に込めるような考えはお持ちなのでしょうか

河﨑:都市で生活をされている方と、自然が多いところで生活されている方、両極端に言うとその二つに分けてしまうんですけれども、都市生活をしている人は自然豊かなところの綺麗な部分以外はなかなか見えなかったり、また田舎や、地方で生活している人は、都会の人たちが自分たちをどういう目で見ているかという実像をなかなか把握しきれなかったりというのがあると思います、なので、どちらの方にも読んでいただいて楽しめるように多角的にカメラを当てていくみたいなことはしたいなと思います。

――今後も北海道も含めて、いろいろな地域を題材にした作品を考えていますか?

河﨑:そうですね。北海道だけではなくいろいろなところを書ければ、と思っています。やはり都市というよりは自然の多いところで、それぞれの生き物の良いところ、悪いところ、人間の良いところ、悪いところ、など書ければいいなとは思っています。

――最後に、『ともぐい』を読もうと手に取った読者の方にひと言お願いいたします。

河﨑:舞台が明治時代の日露戦争前ということで、作中の時代から100年以上経って山の風景も今では多少変わりはしましたけれども、熊の生態ですとか鹿の生態ですとかっていうのは大きく変わってませんので、本を読んでくださることによって、何となく時代を超えて北海道の山の中にまでトリップしていただければ嬉しいですね。

取材・文・撮影=すずきたけし

ともぐい書籍

河﨑秋子
1979年北海道別海町生まれ。2012年「東陬遺事」で第46回北海道新聞文学賞(創作・評論部門)受賞。2014年『颶風の王』で三浦綾子文学賞、同作で2015年度JRA賞馬事文化賞、2019年『肉弾』で第21回大藪春彦賞、2020年『土に贖う』で第39回新田次郎文学賞を受賞。他書に『鳩護』『絞め殺しの樹』(直木賞候補作)『鯨の岬』『清浄島』などがある。『ともぐい』で第170回直木賞受賞。

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